第54話 完全な腕をやろう
通信盤の光の奥から、静かな声が続いていた。
「完全な腕をやろう。話をしよう」
レオルは動かなかった。
ノエラが発信元と時刻と回線番号を書き取り、封印前の記録札を読み返す。宛先は、レオル・アシュベル個人。応える義務はない。
「通信を切ることもできます」ノエラが言った。「聞く場合も、誰を立ち会わせるかは、あなたが決めてください」
レオルは通信盤を見た。グレゴールの声だけを、自分一人の記憶へ閉じ込めるつもりはなかった。
「聞くだけなら、この場で」
記録のためにノエラを。技術条件を確かめるためにミレーネを。安全のために王都警備隊員を一人。レオル自身が残る者を選んだ。誰も代わりには答えない。
「話を聞く。受けるとは言っていない」
そう告げて、自分で盤の前に立った。
隔壁の向こうで、投影が灯った。
両腕分の軍制式義手。右は上腕半ば、左は肩に近い装着部へ合わせた形。図面と性能票が、光の中で回る。指の関節数、最大出力、連続して使える時間、整備周期。触覚は戻らず、圧力と傾きの警告だけを返すという限界も、小さな文字で記されていた。
昔の双剣動作を再現する戦闘動作式の名も、そこにあった。
「騎士団長の地位を戻す。直属の部隊も与える。整備も、訓練も、部品も、国家が供給する」
グレゴールの声は荒らげられていなかった。
投影の横に、条件が現れる。勝利炉の防衛。非常再動員の指揮。装具と共鳴記録の国家管理。非常時に任務を変更する権限。
「王都の像と、同じ姿になれる」グレゴールは言った。「国境はいまだ休戦にすぎん。治安は乱れ、公の記録まで襲われた。国家が費用を負担し、回復させた機能を、非常時に使う。それの、どこが不当だ」
レオルは、投影の指先を見ていた。
触覚がないことは、性能票にも書かれている。あれを着けても、生身の腕が戻るわけではない。訓練も調整も要る。それでも、胸の奥で何も動かなかったとは言えなかった。
左右の手に、別々の剣の重さがあった。
右で受け、左を別の角度から返した。一本を弾かれても、もう一本が残った。二つの柄が掌へ返す震えは、もう思い出の中にしかない。
戦いだけではなかった。
朝、自分で外套の留め具を掛けた。器を両側から持った。落とした鍵を、誰にも頼まず拾った。寝台の毛布を、自分の望む位置まで引き上げた。
そういう容易さを、まだ欲しいと思う。
二本の剣を扱った技も、失った身体も、欲しくないとは言えなかった。欲しいと思うことは、今の暮らしへの裏切りではない。レオルは、その願いを自分から取り上げなかった。
「この義手を使えば、中央塔で起きたような命令も受けるのですか」
「国家管理の装具だ。非常時には、国家の命令系統へ接続する」
グレゴールは隠さなかった。
「だが、指揮する側へ戻ればよい。動かされる兵ではなく、動かす者になれ」
その言葉が、レオルの中で静かに止まった。
自分だけが命令する側へ移っても、命令される者の身体は残る。整備広場で、止めろと叫んでいた人々を、なかったことにはできない。
レオルは息を一つ吐いた。
現在にも、別の重さがあった。
匙保持具で、自分で食べた朝。扉の鉤で、自分で工房を出た日。ふいごの風を送り、給金を受け取ったこと。仕事札に、自分の担当があったこと。
声と視線で避難の列を組んだ。できない重作業を他の者へ渡し、代わりに人数と退路を守った。自分の作業台と、五人分の食卓がある。装具を使う、外す、休むという選択がある。
ミレーネと交わした、勝手に決めず、別の班からでも情報を分けて帰るという約束もあった。
今の道具で、何でもできるわけではない。できないことはある。頼まなければならないことも、欲しいものも残っている。
その上で、レオルは尋ねた。
「完全とは、誰の基準ですか」
盤の奥が、少し黙った。
「戦える身体だ。国家の任務を果たせる身体だ。国民が仰ぐ英雄の姿だ」
投影の背後に、王都広場の像が映った。二本の剣と、完全な両腕。両腕を失った後に造られた、過去だけの自分だった。
「砦で人を守った俺を、否定はしません。双剣を使った過去も、俺の一部です」
声は低かった。
「でも、両腕を失ったあとの俺を、消さないでください。食うための道具を使い、扉を開け、働き、人を逃がした、その後の時間を。石像と同じ姿へ戻す話なら、受けません」
投影の光が、軍制式義手の指先で揺れた。
「完全かどうかを、国や像に決めさせません」
レオルは、盤の前でまっすぐに立った。
「俺にはもう手がある。何をするか、自分で決められる手だ」
腕が戻ったわけではない。できないことが消えたわけでもない。それでも、道具を選べる。仕事を選べる。役割を仲間へ渡し、助けを求めることも選べる。
「勝利炉の防衛も、非常再動員の指揮も、正式に断ります」
一拍置いて、続けた。
「ミレーネのためだけじゃない。俺が自分で選んだ暮らしと、救助の仕事と、工房の契約に反するからです」
グレゴールは、すぐには応じなかった。
やがて、国家が失った費用、再び危機が来たとき救える人数、この機会を断てば二度と同じ条件は出ないことを、静かに積み上げた。
レオルは最後まで聞いた。聞いたうえで、答えは変えなかった。
「拒否します」
ノエラが、提示条件、レオルの質問、グレゴールの回答、拒否、時刻を順に書き取る。読み返しに違いがないと、レオルが口で確認した。切り取らない。消さない。
通信が切れ、盤の光が落ちた。
ミレーネが隣へ来た。何を思っているかは、レオルには読めない。ただ、琥珀色の目が、石像の投影ではなく、今の自分を見ていた。
「英雄になってとは、言いません」
ミレーネは短く息をした。
「帰ってきてください。私は、私の班から帰ります」
「ああ。俺も帰る。一人で犠牲になるつもりはない」
レオルは尋ねた。「触れてもいいか」
「左肩なら」
半歩だけ近づき、互いの肩を短く触れさせた。口づけはしない。この決断を、恋の報酬にはしなかった。
そのとき、盤の脇の出力記録が跳ね上がった。
「出力が――上がっています」
ミレーネが記録へ目を落とす。離れた検査台でも、警報表示が次々に灯った。勝利炉が最大出力へ移っていく。
レオルの私製装具は、封をした運搬箱の中にあった。着けてはいない。だが、箱の内側で金具が細かく鳴り、外の検査表示に警告が点いた。
ダリオが、聞こえやすい左耳を操作員へ向けた。
「中央塔の認証受領は」
「ありません。帰還環の照合表示も、個体鍵の受領も出ていません」
ダリオは勝利炉の出力時刻と、装具の検査時刻を重ねた。
「直接の命令支配とは違う。強い発令波の干渉と一致する。私製の装具にも警告が出ている」
本人の同意を得て検査台へ置かれていた、別の職人が作った義手二つにも、同じ時刻の警告が灯っていた。勝利炉の出力記録、区画の警報、三つの私製装具の検査表示。異なる記録が重なった。
レオルは、震える運搬箱を見た。
装具は彼の身体を動かしてはいない。未装着のまま、箱の中で警告を発しているだけだ。それでも、波が私製の道具へ届いた事実は消えなかった。
輸送隊の襲撃現場で、誰も触れていない灰色の義手が一度だけ指を閉じた。あれも強い波の干渉だった可能性はある。だが、当時の出力記録はない。同じ現象だったとは、まだ書けなかった。
「何が起きるか、まだ全部は分かりません」
ミレーネが記録の前で言った。
原因も、影響する範囲も、まだ照合しきれていない。
分かったのは、勝利炉が最大へ向かい、その波が、着けてもいない道具まで揺らし始めたということだけだった。




