第51話 最後の軍需炉
拘束命令の写しが、机の上で乾いた音を立てた。
ノエラが指の腹で紙の端をそろえる。三人の審問官の署名、監査院の印、発行番号。手続の上では、もう欠けたところはない。だがミレーネは、その紙が地下へは届いていないことを知っていた。
勝利炉へ通じる入口を、一部の復興警備隊が塞いでいる。継続中の非常権限と、復興省内の指揮系統を根拠に、彼らは拘束命令の執行を受け入れなかった。
「私兵、とは書かない」
ノエラが低く言った。
現場責任者の名、所属部隊、拒否した時刻、示された命令書。彼女は一つずつ、感情を混ぜずに書き取っていく。入口の前では、若い警備兵が二枚の命令書を交互に見ていた。監査院の拘束命令と、復興大臣名義の非常命令。どちらへ従えばよいのか分からない、という顔だった。
「北口から出る市民は通してください」若い警備兵が、同僚へ言った。「拘束を拒む命令と、避難を妨げる命令は、同じじゃない」
「動揺している人まで、まとめて共犯にはできません」
ミレーネが言うと、ノエラはうなずき、若い警備兵の言葉も記録へ加えた。
グレゴールは王都中央中継塔を捨てていた。塔で完成した拒否回路、非常印、命令波、本人の同意、停止結果は、別班が正式に警備し、保全している。先ほど本人の拒否が上位を通るようになった個体群へ、中央塔から同じ強制命令を送り直すことはできない。それは操作記録と表示の両方で確かめた。
勝利炉が動いても、あの拒否共鳴が無になるわけではない。
問題は、地下から来る別の信号だった。
ノエラが取り寄せた戦時施設台帳を、エッダが車輪付きの椅子の上で開く。旧軍需網の地図、保守記録、炉内から届く出力記録。ミレーネはそれらを、王都で今起きている異常と並べた。
防火戸が勝手に閉じる。倉庫の搬送腕が止まらない。旧軍用軌道の台車が動く。警報灯が、避難路とは違う方向を指す。
「全部の道具が危ないわけじゃありません」
ミレーネは記録の上に指を滑らせた。異常は、旧軍需網へ接続された設備に集まっている。同じ区画にある民生用の揚水機も、工房で作った手動の作業椅子も、勝手には動いていない。違うものを混ぜてはいけない。
そのとき、窓の外で警鐘が二度鳴った。
旧軌道の荷台が、無人のまま坂を下り始めていた。避難する人々の列が、その先にある。
「列を東へ。走らせるな」
レオルの声が、土間を抜けた。重い物へ近づかず、声と視線で人の流れを分ける。
王都警備隊の二人が手動の遮断棒を下ろし、別の二人が空の荷車を軌道へ斜めに入れた。荷台は人のいない場所で止まった。壊れた物はあったが、巻き込まれた者はいない。
「西の階、あと二人。軌道から離して」
レオルは人数を数え直した。強引に前へ出ない。それが、今の彼の手だった。
ダリオが左前腕の残った部分で地図を押さえ、聞こえやすい左耳をエッダへ向けた。
「中央塔の送信票と、系統の記号が違う。保守記録では、勝利炉が中央塔より上に置かれている」
彼は出力記録と地図の記号を、もう一度照らした。
「別系統であり、上位の網でもある。ここまでは記録で言える」
台帳と地図と保守記録が、少しずつ一つの形を示していく。
勝利炉は、広域へ命令波を送る中継機能、旧式の自動兵器や防衛設備を起こす制御機能、部品と兵器を急造する生産設備、王都から西部の旧補給網へ命令を渡す機能を、地下で一体にした施設だった。
休戦が崩れたとき、王都と西部の旧軍需設備を即座に再起動するための、最後の即応拠点。
「誰が、どこまで今の起動を準備したのか」
ミレーネは声を落とした。「そこは、まだ書けません」
過去の横流しも、記録院の火も、この炉までグレゴールが直接命じたのか。断定できる記録は、まだ手元にない。分かったことと推測を分ける。それが、自分たちの守ってきた線だった。
役割を分けた。
ノエラは拘束命令、追加の令状、証拠保全、競合する権限の整理。王都警備隊は首都側の外周と市民避難、誤作動設備への接近制限。継火工房側は勝利炉の安全停止条件、避難用の道具、技術記録の照合。レオルは、救助の順、退路、人数確認、連絡手順を組む。
セシルは、煙と熱へ近づけない者、移動に支えが要る者を先に確かめる。エッダは物資の数と搬出先を記録する。ダリオは炉の構造を、確定した図面の範囲だけで読む。
西部連絡所の印を押した伝令票も届いた。フェルゼ村では、ラウラが住民の避難と旧設備の封鎖を指揮している。リタは成人職人とともに、安全な記録場所で番号札と冷えた部品を管理していた。炉にも兵器にも近づけていないと、ラウラ自身の署名で確認できた。
警備側の一人が、遠慮がちに切り出した。
「ヴァルカ殿は貴重な技術者だ。大臣にとっては、人質にもなり得る。後方へ残るべきでは」
ミレーネは首を横に振った。
「待つだけの人質になるかどうかを、他の人に決めさせるつもりはありません」
一拍置いて、続けた。
「でも、感情で一人で地下へ行くとも言いません。祖父の拒否共鳴、中央塔の拒否回路、勝利炉の安全停止条件を照合できるのは、今ここでは私です。だから同行します。そのうえで、権限と護衛と退路と、中止の条件を決めてください」
セシルが静かに言い添えた。
「炉の熱と発令波の下で、どこまでなら続けられるか。それは、入る前と途中で私が確認します」
ノエラは、技術立会人として同行を認める条件と、単独行動の禁止、退避命令へ従うことを書面へ加えた。ミレーネは読み、異議がないことを自分の名で確かめた。
レオルは「行くな」とは言わなかった。彼女の判断を、代わりに下しもしなかった。
「置き去りにはしない」
低い声だった。ミレーネはうなずいた。
「必ず相談して帰ります」
肩が触れるほどの距離で、それだけを確かめた。口づけはしなかった。今、それで議論を閉じてはいけない。
ノエラが、作戦の目的を書き取っていく。
一、民間人を避難させる。二、勝利炉を安全に停止する。三、施設と命令記録を破壊せず保全する。四、グレゴールを適法に拘束する。
殺害も、復讐も、炉そのものの破壊も、目的には書かなかった。拘束命令を拒む警備員にも、退く道と投降の手順を残す。
ガイルは拘束されたままだった。案内役にも、無条件の味方にもしない。本格的な地下への進入は、各班と代替の指揮を決めてから行う。それまでは、入口の外で避難と隔離を続ける。
夕刻が近づいたころ、三つの記録が机の上でそろった。
勝利炉の出力記録。西部へ延びる旧軍需網の地図。そして、フェルゼ村から届いた巡回隊の正式な報告。
出力記録に並ぶ送信先の符号を、地図の節点へ当てはめる。王都から西へ、一つ、また一つ。巡回隊の報告には、村外れの旧設備が振動を始めた時刻と、機体番号が記されていた。勝利炉の送信時刻と、地図上の節点と、村の機体番号。三つが一致した。
「届き始めています」
ミレーネは地図の西端を、指の腹で押さえた。「炉の波が、フェルゼ村のほうへ」
窓の外で、王都の空が暮れていく。
村の被害も、工房の行方も、まだ何も分からない。分かったのは、波が届き始めたという、一つの事実だけだった。




