第5話 握れないなら、挟めばいい
「送風ふいごを、踏みたい」
朝、扉を自分で開けて入ってきたレオルが、そう言った。
作業台には、村の農夫が昨日持ち込んだ鍬が置かれていた。刃の付け根が折れ、柄から外れている。土が凍る前に畑を返したいという注文だった。
レオルは、その鍬と炉を見比べてから、ふいごを踏みたいと言ったのだ。
継火工房の炉は、足踏み式のふいごで風を送る。だが、火床の前は熱く、火花も飛ぶ。踏み板を踏むには、炉のすぐそばへ立たなければならない。
前へよろけても、レオルは咄嗟に腕を出して身体を支えられない。そのまま身体ごと炉へ倒れかねなかった。
「立つ場所を間違えると危ないです」
ミレーネは火床の前を指した。
「身体が前へ流れたとき、腕で止められません」
「なら、流れないようにすればいい」
レオルは即答した。指揮の癖なのか、答えが早い。
ミレーネは、その言葉を実際の動きへ置き換えた。
剣を握らせる発想は、もう捨てていた。握れないなら、握らせない。挟む、支える、固定する。それが、この工房のやり方だった。
「材料を挟む道具を作ります」
ミレーネは鉄床のそばへ、低い作業架を据えた。
「鍛える鉄を、あなたが持つ必要はありません。この架へ挟んで固定します。あなたは風を送ることに専念してください」
作業架の上部へ、てこ式の締め具をつけた。足元の踏み金を押せば締まり、横へずらせば緩む。ミレーネが熱した材料を火鋏で運び、架へ置けば、手で押さえ続けなくても固定できる。
まず冷えた鉄片を挟んで試した。最初は槌で軽く叩いただけで、鉄片が横へずれた。締め具の面が平らすぎる。
ミレーネは鉄片を外し、挟む面へ浅い溝を二本刻んだ。二度目は槌を当てても動かない。踏み金を横へ払えば、すぐ外れた。
「握れないなら、挟めばいい。挟む場所も、形に合わせる必要があります」
レオルは固定された鉄片を見て、短くうなずいた。
ふいごの踏み板にも手を入れた。レオルが立つ位置へ、腰を預ける支え棒を立てる。前へ流れそうになったら、腰で受け止めるためだ。
肩帯は支え棒へ縛りつけず、浅い留め環へ掛ける。身体を横へ捻れば外れ、火床からすぐ離れられる。昨日の扉用肩帯と同じ、道具だけに身体を連れていかれないための仕組みだった。
「肩帯を支え棒の環へ掛けます。触ってもいいですか」
レオルがうなずく。
ミレーネは胸背の肩帯を留め環へ通した。レオルが火床の前に立つ。腰は支えられているが、横へ一歩動けば肩帯が外れることも確かめた。
火を強くする前に、三度、離脱だけを試す。身体を捻る。肩帯が外れる。炉から二歩離れる。通り道に材料箱がないことも、消火用の砂桶へ届くことも確認した。
「動かすのは、安全に離れられるとわかってからです」
「訓練と同じだな」
「戦う訓練ではありませんけどね」
「踏んでください。風を炉へ」
レオルが踏み板を踏んだ。
風が勢いよく炉へ入った。
強すぎた。炭が舞い、火が跳ね上がり、鉄床のそばまで火花が散る。
「――強い」
「力みすぎです」
ミレーネは火床から一歩離れた。
「一定の風が要るんです。強ければいいわけではありません」
レオルがもう一度、慎重に踏んだ。今度は弱すぎて、火が沈んだ。
次は強い。その次は弱い。踏むたびに火力が跳ね、炉の中の色が赤から橙へ、また暗い赤へと乱れた。
「号令のように踏まないでください」
ミレーネは言った。
「一、二、一、二、と数えて踏んでいるでしょう。戦のときの行軍の拍子で」
レオルの足が止まった。
「――そうかもしれん」
「炉は号令では応えません。火の色と、炭のはぜる音を見てください。橙が濃くなったら風を抜く。赤が沈んだら送る。数ではなく、火に合わせるんです」
レオルは、しばらく炉を見ていた。火の色を目で追い、それから、ゆっくりと踏み板を踏んだ。
火が上がる。色を見て、少し待つ。橙が濃くなったところで足を緩める。
火が、一定の橙を保った。
炭のはぜる音が、ばらばらな破裂音から、細かな連続音へ変わった。炉口から流れる熱も、急に押し寄せず、一定の強さで頬を撫でる。レオルの足はもう行軍の拍子を刻まず、火の色が沈むたびに踏み板を押していた。
「昔の動きを探すのをやめる」
レオルが火を見たまま言った。
「同じようには踏めん。以前の身体ではない。別の踏み方を覚えるしかないな」
苛立ちを隠した言葉ではなかった。以前の動きへ戻れないことを認めたうえで、別の動きを選ぼうとしている。
「そのほうが早いです」
ミレーネは鍬の折れた刃と、継ぎに使う鉄片を火鋏で火床へ入れた。
「その調子で風を。色が変わったら、私が取り出します」
レオルが火を保つ。鉄が暗い赤から明るい橙へ変わるのを待ち、ミレーネが火鋏で引き出した。
熱した鉄片を作業架へ置き、踏み金で締める。固定を確かめてから槌を振るった。
レオルが火を見て風を送り、ミレーネが鉄を戻す。再び橙へ熱し、引き出して架へ挟み、打つ。二人の呼吸が、火の色と槌音を挟んで少しずつ合っていった。
槌を二度打つ間は風を弱め、鉄を火床へ戻したら深く踏む。ミレーネが細かく指示しなくても、レオルは火と作業の切れ目を見て踏み方を変え始めた。
「その支え棒だが」
レオルが踏みながら言った。
「腰の高さが少し低い。もう一寸上なら、前へ流れる前に止まれる」
ミレーネは槌を止め、支え棒の高さを指で測った。確かに、レオルの腰の位置には少し低い。
「直します」
帳面へ書き取る。
「あなたが使わなければ、そこはわかりませんでした」
机上で引いた線より、実際に身体を預けた本人の一言のほうが正確だった。ミレーネは火床から十分離れた位置で留め環を外し、支え棒を一寸上げた。
「もう一度、肩帯を掛けてもいいですか」
レオルの同意を得て固定し直す。今度は腰が早く支え棒へ当たり、踏み板を押す足も安定した。
鍛え終えたのは、折れた鍬の刃を継ぐための、小さな添え金だった。
剣ではない。畑を耕す道具を直すための、手のひらへ載るほどの金具。
「これで、鍬が直ります」
ミレーネは冷ました添え金を、レオルの前へ置いた。
「あなたが送った風で鍛えたものです」
レオルは、その小さな金具をしばらく見ていた。
かつて双剣を振るった身体で、いま畑の道具を直す仕事をした。そのことをどう受け止めたのか、ミレーネには読み取れなかった。
だが、レオルが身体を横へ捻ると、肩帯は設計どおり留め環から外れた。自分で火床から離れたとき、その呼吸は朝より深くなっていた。
「明日も、風を送っていいか」
命令ではなかった。
ミレーネは添え金を布で包み、注文主の名を書いた札を添えた。
「ええ。まだ直す鍬が、何本もありますから」




