第4話 継火工房
扉を開けたい、という注文を、ミレーネは二つの動きに分けて考えた。
一つは、取っ手を引く力。もう一つは、その反動に負けず身体を支える力。
両手のある者なら、片手で引き、もう片方で戸口を押さえる。だが、レオルは同じ方法を使えない。取っ手を引こうとすれば上体まで扉へ寄り、姿勢を保とうとすれば取っ手から離れてしまう。
作業台へ、昨夜のうちに組んだ試作品を並べた。取っ手へ引っ掛ける鉤と、胸から肩へ回す肩帯。鉤は残った右上腕の帯金へつなぎ、引く力は肩甲骨から取る。反動は肩帯から胸と背へ逃がす。
「右腕と肩へ装着します。触ってもいいですか」
レオルがうなずくのを待ってから、ミレーネは右上腕へ柔らかな革を当てた。帯金を巻き、肩帯を胸と背へ回し、鉤を留め金へ嵌める。
ミレーネは鉤へ手を掛け、取っ手に見立てて軽く引いた。帯金が残端の先へずれないこと、肩帯の縁が首へ触れないことを確かめる。鉤は身体を捻れば外れる向きにしてあった。扉へ引かれたとき、道具だけが身体を連れていかないためだ。
「首か装着部に痛みが出たら、すぐ止めてください。扉を開けることより先です」
「わかった」
「取っ手に鉤を掛けます。引くのは腕ではありません。半歩、後ろへ体重を移すつもりで」
レオルが扉へ向かった。鉤の先を取っ手へ掛ける。一度目は浅くて滑り、二度目で奥まで掛かった。
「後ろへ」
レオルが踵へ体重を移した。
扉が、わずかに動いた。
だが、肩帯の位置が高すぎた。反動が首へ抜け、レオルの上体が扉ごと前へ引かれる。
「力の逃げ道が上すぎました。肩帯の位置を直してもいいですか」
レオルが短くうなずいた。
ミレーネは胸の締めを一段下ろし、背中側の当てを肩甲骨の下へずらした。
もう一度、鉤を掛ける。
体重を、後ろへ。
扉が開いた。
きしみながら、工房の内側へ。レオルの体重が反動を受け止め、上体は崩れなかった。半分ほど開いたところで鉤を外し、肩で扉を押さえながら戸口を抜ける。
レオルは、開いた扉の外に立っていた。
誰の手も借りずに。
晩秋の白い光が、その肩へ落ちた。昨日までミレーネが開かなければ出られなかった扉を、いま一人で開け、外へ立っている。
レオルは振り返り、開いた幅を確かめた。身体を横にしなくても通れる。鉤を外す時にも肩帯はずれず、首へ赤い跡は出ていなかった。
「もう一度、同じ動きができるか試します。できても、一度だけでは道具にできません」
レオルはうなずいた。成功した直後に繰り返すことを嫌がらなかった。
「外から戻るときは、今までどおり肩で押せます。中へ入ったら、背と肩で扉を押し戻してください」
レオルは外側から肩を当て、扉を工房の内側へ押し開けた。中へ入ると向きを変え、肩で扉の板を押して閉じる。
それから、また鉤で取っ手を引いた。
開けて、外へ出る。肩で押して入り、内側から閉じる。数回繰り返すうち、鉤が取っ手の上側へ滑りやすい癖がわかった。ミレーネは鉤先の角度と、レオルが安定して体重を移せる歩幅を帳面へ書き取った。
三度目に扉を閉じたとき、戸口の上で鈍い音がした。
繰り返した開閉の振動で、古い看板が片側の鎖だけを残して傾いている。長年の雨で板の根元が腐り、留め金の一つが抜けかけていた。
「危ない。下がってください」
ミレーネは看板の下へ入り、傾いた板を両手で支えた。
「ヴァルカ鍛冶工房」と刻まれた古い文字。祖父が掲げ、祖父が守り、祖父が遺した名だった。
腕が震えた。板は重い。支えたまま留め金を外すには、手が足りなかった。
「支える」
レオルが戸口へ戻った。低く垂れた板の下へ肩を入れ、肩帯の厚い当てで重みを受ける。
「下ろすなら、いまだ」
ミレーネは残った鎖を外した。レオルが肩で支えたまま膝を曲げ、二人で腐った看板を地面へ下ろす。
板は端から崩れ、文字の半分が欠けた。
ミレーネは、地面へ横たわった祖父の名を、しばらく見ていた。
祖父を送り出した翌朝、最初に磨いたのがこの看板だった。消えかけた文字へ油を塗り、欠けた縁へ板を継ぎ足した。何か一つでも変えれば、祖父がいた工房まで失われる気がしていた。
だから炉の位置も、道具棚の並びも、看板の名も変えなかった。使いにくい場所があっても、自分が合わせればいいと思っていた。
だが、板はもう、触れただけで崩れている。
「祖父の名前です」
低く言った。
「私は、この名前を一人で守らなければいけないと思っていました。祖父の工房を、祖父の頃のまま残すのが、私の仕事だと」
欠けた文字の縁を、指でなぞる。
「でも、祖父はよく言っていました。火は同じ形では残らない。だが、次の炉へ継ぐことはできる、と」
ミレーネは崩れた板から、まだ火の残る炉へ目を移した。
「あの人は、工房を昔の形で保存しろと言ったんじゃない。火を継げと言ったんだと思います」
顔を上げる。
「この工房を、祖父を保存するためだけの場所にするのは、もうやめます。名前を変えます」
レオルは何も言わなかった。ただ、地面の看板とミレーネの顔を交互に見ていた。
ミレーネは工房の奥から、乾燥させてあった板を一枚選び、鉋をかけた。表面をならして下書きの線を引き、鏨と槌で文字を彫る。
継火工房。
継ぐ、火の、工房。
一文字ずつ、木へ刻んでいった。
彫り終えた板を戸口の上へ掲げようとしたところで、手が止まった。片手で板を支え、もう片方で留め金を打つことはできない。
「支えます」
レオルが言った。
ミレーネは踏み台へ片端を載せ、もう片端を持ち上げた。レオルが板の中央へ肩を入れ、ゆっくり立ち上がる。肩帯の当てが板を受け、戸口の高さで水平に保った。
ミレーネは踏み台へ上がり、留め金を打った。一つ、二つ。板が戸口の上へ固定される。
「アシュベル様」
ミレーネは槌を下ろした。
「工房の中では、その呼び方も、団長とか英雄とかも使わないことにします。ここは、そういう場所ではないので」
レオルがミレーネを見た。
「なら、何と呼ぶ」
「名前で。レオルさん、と」
少しの間があった。
「レオルでいい」
レオルは言った。
「あんたのことも、鍛冶師殿では長い」
「ミレーネです」
「ミレーネ」
レオルが、その名を口にした。掲げたばかりの看板の下で。
新しい板の文字を、ミレーネは見上げた。継火工房。木肌はまだ白く、彫った溝も新しかった。
工房の戸口を出て、レオルは看板を見上げた。
鉤を使えば、この扉をもう一人で開けられる。
扉一枚のことだった。それでも、出たい時刻を誰かへ告げ、取っ手を引いてもらう必要がなくなった。残ることも、出ていくことも、自分で決められる。
三日で去るつもりだった。剣を断られ、それでも三日と言ったのは、去る前のけじめのようなものだった。
だが、いま、ここには自分の名を呼ぶ声があった。
継火工房と刻まれた板より先に、頭へ残ったのは、鏨を握っていた手と、その持ち主の名だった。
ミレーネ。
教えられた名を口にしても、彼女は訂正しなかった。明日も同じように呼んでよいのだと、その短いやり取りが告げていた。
工房の名は、いま覚えた。だが、それより先に、忘れたくないものが一つできてしまった。
それが何を意味するのか、まだ言葉にはならなかった。
新しい看板の白い木肌へ、傾いた朝日が差した。彫ったばかりの溝の底まで、光が届いていた。




