第3話 自分で食べた朝飯
三日目の朝、鐘が二つ鳴る前に、レオルはまた工房の前にいた。
ミレーネが閂を外すと、扉が内側へ動き始めた。レオルが外から肩で押している。入ることはできても、内側の取っ手を引けないため、出るときはミレーネが扉を開けなければならない。
その半端さを、レオルは工房へ来るたび味わっているらしかった。
「朝食があります。座ってください」
作業台の上に、豆と麦を煮た椀を置く。湯気が立っている。だが、これから始めれば、食べ終える頃には冷めているだろう。
冷めていく朝食と、その脇へ置いた匙保持具を、レオルは黙って見下ろした。初日に使ったものより金具が一回り増えている。重く見えるのは、実際に重いからだった。
「初日の記録と、昨日の採寸から、二つ変えました」
ミレーネは帳面を開いた。一昨日、匙をこぼした位置と角度。昨日測った肩甲骨と呼吸の動き。失敗作で力が逃げた場所も書きつけてある。
「柄の角度を、口へまっすぐ入るように起こしました。それから、当て金の固定位置を肩に近い側へ上げて、支点を身体へ寄せています」
ミレーネは革帯を持ち上げた。
「右腕へ巻きます。触ってもいいですか」
レオルがうなずくのを待ち、残った右上腕へ柔らかな革を当てた。その上から帯金を巻き、匙を差す。柄は短く詰め、口元へ入る部分には尖った角を残していない。
すくって、運んで、口へ入れる。その一連が安全に済む角度を、初日の失敗と昨日の採寸から割り出した。
「すくうのは、あなたです。私は角度を直すだけです」
レオルが残った腕を上げた。匙が椀へ入り、豆をすくって持ち上がる。
途中で傾き、麦が台へ散った。
もう一度。
今度は口の手前でこぼした。
三度目、レオルの腕が止まった。顎に力がこもり、息が短くなった。
「一昨日よりも、下手になった気がする」
「一昨日は、匙を口へ入れるところまででした。今日は、すくう量を増やしています。難しくなっているんです」
ミレーネは布巾で台を拭いた。それ以上は手を出さなかった。代わりに問う。
「休みますか。それとも、続けますか」
レオルがミレーネを見た。休むか続けるか。それを訊かれたことに、まだ少し戸惑っているように見えた。
「……続ける」
「なら、息を使ってください。腕だけで運ぶのではなく、息を吐きながら肩ごと口へ寄せる。急ぐと、こぼれます」
レオルは目を閉じ、一度、長く息を吸った。それから吐きながら、残った腕を上げた。
匙が、揺れずに上がった。
口が開き、匙が届く。豆と麦が、こぼれずに口へ入った。
帯金はずれなかった。支点を身体へ寄せたことで、肩からの小さな動きが匙まで途切れず伝わっている。昨日、動かなかった鉤で確かめた呼吸の使い方も、無駄ではなかった。
ミレーネは帳面へ手を伸ばさず、その動きを最後まで見た。成功を記すのは、食べ終えてからでいい。
咀嚼の音。飲み込む音。それから、次の一口。
今度は少し急ぎ、半分こぼした。次はまた息を合わせて、口へ運ぶ。一口、二口。時間はかかった。台も膝も汚れた。それでも、椀の中身は確かに減っていった。
ミレーネは拍手しなかった。すごいとも、よかったとも言わなかった。
レオルが最後の一口を運び、匙を椀へ置くのを待った。
空になった椀を、レオルはしばらく見つめていた。初日のような驚きは表へ出なかった。ただ、浅かった呼吸がゆっくり戻り、上がっていた肩が下がっていく。
誰かに食べさせてもらうか、空腹のままでいるか。その二つ以外を、最後まで自分で選べた朝食だった。
「帯金を外します。触ってもいいですか」
うなずきを確かめてから金具を外し、匙保持具の金具部分を洗い桶へ沈めた。食べ物の残りが、金具の隙間へ詰まっている。革帯まで濡らせば乾くのに時間がかかるため、匙と当て金だけを外して洗える留め方も必要だった。
洗いやすいよう、継ぎ目も減らすべきだった。生活の道具は、使ったあとに洗えなければ続かない。ミレーネは水気を拭き取り、その点も帳面へ書き足した。
「次は、何をしたいですか」
祝う言葉の代わりに、次の注文を求めた。
レオルは、しばらく答えなかった。濡れた膝を見て、それから工房の扉へ目を向けた。
内開きの、重い木の扉。入るときは外から肩で押せる。だが、出るときは内側の取っ手を引けない。
「扉を」
低い声だった。
「自分で開けたい。入るのはいい。出るときだ。あんたに取っ手を引いてもらわないと、俺はこの部屋から一人で出られない」
一人で出入りしたい、という注文だった。
「三日、と言いましたね」
ミレーネは、洗い桶から匙を引き上げた。
「今日で三日目です。最初の試作期間は終わりです」
レオルの肩が、わずかに動いた。去る支度をするような、あるいは去る理由を確かめるような動きだった。
この男は、最初から三日で去るつもりだった。剣を断られ、それでも三日だけと言ったのは、ここを出ていく前の猶予だったのかもしれない。
だが、いま扉を開けたいと言った。この工房から、自分の力で出ていきたいと。
ミレーネは、残れとは言わなかった。引き止めることは、自分の仕事ではない。ただ、注文は注文として受ける。
「扉を開ける道具は、匙とは違います」
ミレーネは扉へ歩き、取っ手の位置と高さを測った。
「取っ手を引く力と、身体を支える力が同時に要ります。今日一日では作れません」
「なら」
「明日、また来てください。扉を開けるための試作をします。それが仕上がるまで、期限は延ばしましょう」
三日の約束が、扉を開けるまでへ延びた。剣のためでも、去るためでもなく、次の一つのために。
レオルは扉を見た。それから、ミレーネへ向き直った。
「頼む」
命令ではなかった。依頼だった。
ミレーネは取っ手の寸法を帳面へ書き取り、扉の前へ立った。取っ手を引き、扉を工房の内側へ開く。
今朝もまだ、レオルは一人ではここから出られない。
開いた扉の向こうに、朝の光があった。晩秋の冷えた白い光が、村への道を照らしている。レオルはその光の中へ出ていった。
ミレーネは、扉の板へ手を当てて押し閉じた。
閉ざされた重い木の扉を、しばらく見つめる。
この扉を、明日はあの人が自分の力で開ける。その向こうの朝の光まで、一人でたどり着けるように。
ミレーネは帳面を閉じ、取っ手の寸法の脇へ、明日の仕事を書き足した。




