第2話 触れる前に聞け
鐘が二つ鳴る前に、レオルは工房の前に立っていた。
ミレーネが閂を外すと、すぐに扉が内側へ動き始めた。ミレーネは脇へ退く。扉は半分まで、レオルの肩でゆっくり押し開けられた。昨日と同じ、たどたどしい開き方だった。
逃げなかったのだな、とミレーネは思った。それだけで、今日の仕事は始められる。
「採寸をします。そこの椅子へ」
背もたれのない、丈の低い椅子だった。座れば、肩の高さがちょうどミレーネの目の前に来る。
レオルは腰を下ろし、外套を脱ごうとした。空の袖が椅子の角へ引っかかり、肩をひねっても抜けない。
「外套を外すのを手伝ってもいいですか」
レオルは一度、引っかかった袖を見た。それから、うなずいた。
ミレーネは襟と袖口を持ち、肩へ無理な力がかからないよう外套を引き抜いた。下は薄い麻の服だった。両肩の関節は残っている。その先の腕が、右は上腕の半ば、左はもっと肩に近いところで終わっていた。
ミレーネは巻尺を手にして、レオルの肩へ近づいた。
肩が、こわばった。
触れる前だった。指がまだ届いていないのに、レオルの背筋が固まり、呼吸が浅くなった。
ミレーネは手を止めた。
「肩に触ります。いいですか」
レオルが、ミレーネを見上げた。何を訊かれたのか、一拍わからないという顔だった。
「……ああ」
ミレーネは肩の付け根に指を当て、関節の可動を確かめた。前へ、後ろへ、上へ動かしてもらう。骨の位置と筋の張りを、巻尺で測って書き取る。
「今度は胸を測ります。呼吸の動きを見たいので、正面から。いいですか」
「――許可を、いちいち取るのか」
「触るのはあなたの身体です。私の都合で勝手に動かすものじゃありません」
レオルは、しばらく黙っていた。それから、低く言った。
「治療のときは、誰も訊かなかった。押さえつけられて、包帯を替えられた。式典では勝手に服を着せられ、腕のない肩へ勲章を留められた。着替えも、飯も、糞も、いつの間にか誰かの手が伸びてきた」
言葉は途切れがちだった。すべてを語るつもりはないらしい。断片だけが、乾いた声で落ちた。
「訊かれたのは、久しぶりだ」
ミレーネは慰めを重ねなかった。いま欲しがっていないものを、わかったふりで押しつける気はなかった。
「背中を測ります。肩甲骨の動きを見たいので、触ってもいいですか」
レオルがうなずく。
ミレーネは背に指を当てた。煤の跡が残る指先が、触れる直前でわずかに止まる。その一拍を、レオルは見ていた。目だけを動かし、ミレーネの手を追っている。
指が止まり、許しを待ち、それから触れる。その繰り返しとともに、こわばりが少しずつ抜けていった。
肩甲骨の動きは、思ったより残っていた。胸を膨らませ、背を寄せる。その筋肉が、腕の代わりに使えるかもしれない。
ミレーネは頭の中で、金具を当てる位置を組み立てた。
採寸の数字を祖父の古い採寸帳へ書きつけようと、棚から帳面を引いた。
頁をめくって、手が止まった。
途中の数枚が、根元から切り取られていた。破ったのではない。刃物で、頁の際を揃えて切ってある。残った頁の裏には、わずかに文字の痕が透けていた。
戦の頃、祖父は軍の仕事も引き受けていた。だが、何を記した頁だったのかまではわからない。
ミレーネは白紙の端へ、切り取られた頁数と刃の跡を書き留めた。捨てるためなら、こんなに頁の際を揃えて切るだろうか。いまは採寸が先だ。切り跡の意味は、頭の隅へ置いた。
「試しに、簡単なものを組みます」
昨日の匙保持具より、少しだけ込み入った作りにした。昨日は五度目の試行で革帯がずれた。今度は残端の一か所へ重さを集めず、肩帯を胸の前で交差させる。
肩甲骨の動きは短い連結棒へ伝え、棒の先には、ごく単純な鉤をつけた。魔導金属の細片を継ぎ目に挟み、小さな燃料石を留め金へ嵌める。
「右腕へ巻いてもいいですか」
レオルがうなずいたのを確かめ、柔らかな革を残った上腕へ当てる。その上から帯金と肩帯を固定した。
「これは肩と背の筋肉で動かします。頭で念じても動きません。肩を、後ろへ引いてみてください」
レオルが肩を引いた。
鉤は、動かなかった。
「胸を開くように。息を吸いながら」
息を吸い、胸を開く。連結棒がわずかに撓んだが、鉤は開かなかった。
レオルは呼吸の深さと肩を引く速さを変え、もう二度試した。鉤は一度だけ震えたが、持ち上がりはしなかった。
レオルの顎に力が入った。
「――やはり、俺の身体では」
「あなたのせいじゃありません」
ミレーネは連結棒の継ぎ目を指で押した。
「ここの伝わりが悪い。肩の動きが、途中で逃げています。組み方の問題です」
魔導金属が筋肉の張りを拾いきれていない。燃料石の位置も、力の通り道からずれている。念じるだけでは動かないのは想定どおりだったが、筋肉と呼吸の入力を拾う仕組みが甘かった。
ミレーネは失敗した場所を、そのまま帳面へ書いた。継ぎ目の逃げ、燃料石の位置、肩甲骨からの距離。隠さなかった。うまくいかなかったと記すのも、職人の仕事だ。
「分解して、直しますか」
ミレーネは自分で問い、自分で首を振った。
「いえ。今日はこのまま残します」
「動かないものを、残すのか」
「明日、同じものをもう一つ組んで並べます。どこを変えたら、どれだけ動きが変わるか。それは、壊してしまうと比べられません」
レオルは動かない鉤を見下ろしていた。
ミレーネは失敗作を、棚の見える場所へ置いた。恥じ入るように隠さなかった。うまくいかなかった記録も、明日の道具の一部だった。
「あんたは」
レオルが口を開いた。
「昨日から、俺のできないことを、俺のせいにしない」
「できないことを努力不足で片づけたら、道具屋は要りません」
ミレーネは巻尺を巻いた。
「帯金を外します。触ってもいいですか」
レオルがうなずくのを待ってから、留め金を外した。
レオルはしばらく、失敗作の並ぶ棚を見ていた。それから初めて、自分のほうから口を開いた。
「次は、どこへ力を入れればいい」
問いだった。命令ではなかった。
三日で去ると言った男が、明日の話をしていた。
「肩甲骨と、息です」
ミレーネは答えた。
「そこを、明日いちばん先に測ります」
昨日より重くなった鉤が、棚の上で朝の光を受けていた。
動かないまま、それでも、明日へ残った。




