第1話 死ぬための剣
炉の火を落とす前の、静かな刻限だった。
ミレーネは道具棚のやすりを並べ直し、革前掛けの煤を払った。今日の仕事はもう終いだ。あとは扉に閂を掛け、湯を沸かせば、一日が閉じる。
その扉が、開いた。
重い木の扉が、内側へゆっくり押されていく。誰かが肩で押しているような、たどたどしい開き方だった。
入ってきたのは、背の高い男だった。黒に近い茶の髪。灰緑の目。外套の袖が、両方とも途中で力なく垂れている。右は上腕の半ば、左は肩に近い上腕から、その先がなかった。
「鍛冶屋は、まだやっているか」
低い声だった。命じることに慣れた響きを、無理に抑えているように聞こえた。
「もう店じまいですよ、お客さん」
ミレーネは槌を置いた。
「明日、また来てください」
「剣を頼みたい」
男は動かなかった。垂れた袖の奥で、残った腕が一度だけ動いた。
「作れるか。俺が使える剣を」
ミレーネは男の身体を、職人の目で見た。肩の位置、残った腕の長さ、外套の下の呼吸。それから、乾いた口の端を。
「握れないなら、どう振るつもりですか」
「口で咥える。歯で。腕の残りで押さえる。身体に括りつけてもいい。とにかく、一度だけ振れればいい」
一度だけ、と男は言った。
ミレーネは、その言葉の重さを聞き取った。
この仕事を継いでから、いろいろな注文を受けてきた。畑の鍬、荷馬車の金具、猟師の罠、家の錠前。剣も、戦の頃には嫌というほど打った。
戦時中の注文票にあったのは、刃渡り、重さ、本数、納期だけだった。誰が持ち、何に使い、戻ってきたのか。ミレーネは何も聞かなかった。
いまは、聞かずに槌を振るう気にはなれない。
だが、この男が求めているのは、そういう剣ではない。
「まず、何をしたいか聞かせてください」
「剣が要ると言った」
「剣で、何をするんです」
男の顎が、わずかに動いた。答えを飲み込もうとして、できなかったように見えた。
「戦場へ戻る」
窓の外は、もう暮れていた。
「休戦は八か月前です。戻る戦場なんて、もうありません」
「国境には、まだ火種がある。俺一人が立てる場所くらい、どこかにある」
一人が立てる場所。振るのは一度だけ。戻るのは戦場。
言葉を並べれば、答えは一つだった。
この男は、死にに行くための道具を注文している。
「お断りします」
ミレーネは、同情で声を湿らせなかった。泣きもしなかった。ただ、仕事を断るときと同じ声で告げた。
「死ぬための剣は鍛えません」
男の眉が、初めて動いた。怒りではない。予期していなかったものに触れた顔だった。
「金なら払う。前金でも――」
そこで、男の腹が鳴った。
低く、長く、工房じゅうに届くほどはっきりと。
男の顔がこわばった。灰緑の目が、扉のほうへ逸れる。振るう剣より、いま鳴った腹のほうが、この男を打ちのめしているように見えた。
ミレーネは気づいた。この人は、まともに食べていない。食べたくても、自分では食べられないのだ。誰かに匙を運んでもらい、口を開けて待つ。その屈辱が、飢えより先に男の背を折っている。
「座ってください」
ミレーネは作業台の脇の椅子を、足で引き出した。
「剣は打ちません。でも、腹が減っているなら、それは別の話です」
男は座らなかった。
「施しは要らない」
「施しじゃありません。夕飯どきに客が居座っているから、こっちが片づかないだけです」
ミレーネは奥の竈へ回った。朝の残りの豆のスープが、鍋にまだあった。火を入れ、椀によそう。湯気が立つ。
問題は、匙だった。
この男は、匙を握れない。
ミレーネは道具棚の下段から、祖父の遺した雑多な金具の箱を引き寄せた。曲がった蝶番、使い道のない留め金、径の合わない環。その中から幅広の革帯と薄い帯金、湾曲した当て金を選び出す。
「右腕の残っている部分を見せてください」
男は動かなかった。ミレーネは手を伸ばさず、革帯を作業台へ置いた。
「これを巻いて、試す間だけ匙を固定します。触ってもいいですか」
男が初めてミレーネの目を見た。
少しの間があって、それから、うなずいた。
うなずくまで、外套の下の肩は固く上がったままだった。許可を求められること自体に慣れていないのかもしれない。ミレーネは、返事を得るまで一歩も近づかなかった。
ミレーネは残った右上腕へ柔らかな革を当て、その上から革帯を巻いた。脇に帯金を沿わせ、当て金を通し、その先へ匙を差す。
角度が悪い。外して曲げ、また差した。柄を短く詰め、口へ届く距離を測る。重みが残端の先へ集中しないよう、支点を肩に近づけた。
「肩甲骨を寄せて、残っている腕を肩から持ち上げてください。すくおうと急がず、まず椀の縁まで」
男が肩を動かした。匙が椀へ落ち、豆をすくいそこねて、スープが台へ散った。
もう一度。
今度は少しすくえたが、口へ運ぶ途中でこぼれ、膝を濡らした。
三度目は、口元へ届いたときには匙が空だった。
男の呼吸が荒くなった。
「――やはり無理だ」
「まだ三回目です」
ミレーネは布巾で台を拭き、それ以上は手を出さなかった。
「角度が要るなら言ってください。私が直します。すくうのはあなたです」
男は、しばらく椀を睨んでいた。それから、また肩を動かした。
四度目。
豆が二粒と、わずかなスープが匙に残った。肩からゆっくり持ち上げ、口元まで運ぶ。
匙が、届いた。
男は豆を口に入れた。誰かに運ばれた匙ではない。自分で動かした道具で、一口だけ食べた。
咀嚼の音が、静かな工房に響いた。
男は目を見開いていた。喜びとも希望とも違う。ただ、いま起きた事実に追いつけないでいる顔だった。
自分で、食べた。
その一口が男にとって何なのか、ミレーネにはわからなかった。わかったふりもしなかった。
「まだ、ぬるいうちに」
ミレーネはそれだけ言って、やすりの手入れに戻った。祝いも、拍手も、涙も要らないと思った。
男は五度目を試した。だが、肩が震え、匙は椀の手前で台を打った。革帯も少しずれている。このまま続ければ、皮膚を傷める。
「今日は、ここまでにしますか」
決めるのは男だ。ミレーネは匙へ手を伸ばさず、返事を待った。
長い沈黙のあと、男はうなずいた。
「残りは、どうします。私が椀を持つか、冷めるまで置いておくか」
男は椀を見た。次に、匙へ残った二粒の跡を見た。
「……持ってくれ」
ミレーネは返事をせず、椀を両手で持ち上げた。男が顎を引いたのを確かめてから、縁を口元へ寄せる。
男は残りのスープを飲み終え、長く息を吐いた。
「なぜ、断った」
「剣を、ですか」
「あんたは、金になる仕事を断って、ありあわせの匙を作った」
ミレーネは手を止めなかった。
「その匙も、明日には金にします。ちゃんと請求しますよ」
男の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれなかった。
「明日」
「腕の形をきちんと測れば、もう少しましなものが作れます。今のは、試すためのありあわせです」
ミレーネは金具の箱を閉じた。
「死ぬための剣は鍛えません。明日の朝飯を食べるための手なら作ります」
男は、しばらく黙っていた。垂れた袖の奥で、腕が何かを探すように動いた。
「三日だ」
低い声だった。
「それ以上は約束しない。三日、あんたの試作に付き合う。それで何も変わらなければ、俺は俺の行くところへ行く」
「それで結構です」
ミレーネは椅子を戻し、竈の火を落とした。
「明日の朝、鐘が二つ鳴る頃に来てください。採寸をします。名前は」
男は扉のほうを向いていた。外の闇に答えるように言った。
「レオル。レオル・アシュベルだ」
レオル・アシュベル。
戦時中、工房へ回ってきた戦勝報に幾度も載っていた名だ。「双剣の獅子」と呼ばれた王国騎士団長。
ミレーネの視線が、力なく垂れた二つの袖へ落ちた。
男は、その意味に気づいたらしい。
「――昔の話だ」
男は扉の前で立ち止まり、残った腕を動かした。内側へ引く取っ手には届かない。
ミレーネは何も言わずに扉を開け、脇へ退いた。男は短く顎を引き、夜の道へ出ていった。
重い扉は、ミレーネの手で閉じた。
ミレーネは台に散った豆を布巾で集めた。匙保持具を外し、祖父の金具の箱の横へ置く。ありあわせの、いびつな道具。だが、明日はもう少しましなものになる。
湯を沸かして、一日が閉じた。
明日の朝、鐘が二つ。
剣ではなく、朝飯の約束が、明日へ残った。




