第40話 昔の英雄ではない
支持台の上の「継火」を挟んで、セシルがレオルの前に膝をついた。
「触れます」
まず断り、右上腕の保護当てを外す。皮膚の色、赤み、肩の可動、痛みの有無、呼吸を、一つずつ確かめていった。
「今、どこまでなら動かせますか」
断定せず、本人へ尋ねる。レオルは肩をゆっくり前へ送り、次に背を引いた。途中で一度止めた。
「ここから先は、引き攣れる。痛みは、いまはない」
段階復帰の途中だ。無理はきかない。セシルは緊急の使用条件を声に出して固めた。装着から四半刻を上限とする。荷重は、固定試験で安全片が折れた値の半分まで。警告が出たら止める。装着部に熱や赤み、引き攣れが出たら、すぐ外す。単独では使わない。中央の連結は、仲間の合図があるときだけ。
「時間は、私が見ます」セシルは言った。「中止は、私かミレーネさんが告げます。離脱具は、ラウラさんの隊員が操作する。あなた一人で、続けるかどうかは決めません」
レオルが一つずつ、自分の声で了承した。エッダが開始時刻と離脱担当者を記した。
ミレーネとセシルは、触れる位置を先に告げてから、左右の装具を着けた。
「左肩。次に右の上腕。最後に胸帯へ触れます」
場所ごとに同意を確かめ、留め具を締める。左右を別々に軽く動かし、警告表示と外部の離脱具が働くことも確かめた。触覚は戻らない。意思だけでは動かない。昔の腕も、双剣の技も、これで戻るわけではない。着けただけで万能になる道具では、決してなかった。
装着を終えたレオルは、昔の構えを取らなかった。腰を深く落とし、脚で踏ん張り、背と呼吸で道具の重みを支える。訓練で身につけた、今の身体の構えだった。
そこにいたのは、工房で動きを直し、別のやり方を覚えてきた、今のレオルだった。
戦線が動いた。
倒れた梁が、避難路の一本を塞いでいる。
「左の短刃。梁の継ぎ目へ」
ミレーネが声で角度を伝えた。レオルは重心を移し、切断具を継ぎ目へ当てて断った。人へは向けない。倒れた板の留め綱も切り、逃げ道を一本、通した。避難者が、その隙間を抜けていく。二人の村人が切った梁を脇へ寄せ、次の者が通れる幅を保った。
強硬派の一人が棒を振り上げた。レオルは鉤爪で棒を絡め、身体から外へ向けてひねった。相手の手元から棒が落ちる。身体は引かない。ラウラの隊員が武器を拾い、男へ東の退路を示した。
別の一角では、井戸端の壁が崩れかけていた。レオルが防御板を差し込み、瓦礫支持具で受ける。だが、重みを一人で背負いはしない。
「綱を、東の柱へ」
住民が綱を回し、建築支持具を噛ませた。レオルは位置が決まるまで板の向きだけを保ち、重みが柱へ移ったのをミレーネの合図で確かめてから離れた。壁は、そのあいだに人を通しきった。
「残り、半分です」
セシルの声が飛んだ。使える時間のことだった。レオルはうなずき、次の合図を待った。
強硬派が押してきたのは、荷車の上へ工場の主梁と鉄板を組んだ、即席の攻城器具だった。先端を工房の扉へ向け、車輪が回り始める。レオルは鍛造用の固定具を車軸へ打ち込んだ。敵を身体ごと挟むためではない。車輪を一時、止めるためだ。だが単体の固定具と短刃だけでは、荷と坂の重みまで押し止められない。安全片の表示が、限界に近づいていた。
「連結を」
ラウラが叫んだ。仲間からの合図だった。
ミレーネが接続の角度を声で伝える。「右を指幅三つ下げて。左は水平。そこで止めて」
レオルが肩と背、腰と脚、呼吸で位置を合わせる。触覚がないぶん、角度は目と、装具の警告表示と、ミレーネの声で確かめた。右が一度、下がりすぎた。
「戻して。指幅一つ」
レオルは急がなかった。位置を戻し、左右の溝が正対したところで息を止める。中央の接続芯が、かちり、と機械の音を立ててロックした。意思だけでも、魔法でも、奇跡でもない。三人の確認と、手順を踏んだ連結だった。
大剣の形になった「継火」を、レオルは人へ振り下ろさなかった。攻城器具の主梁へ刃を噛ませ、梃子にして、進む向きを横へ逃がす。
それだけでは足りない。住民が牽引の綱を引き、ラウラの隊が反対の車輪を杭で固定する。ガイル派が後方へ回り、強硬派が器具を押し戻せないよう綱を押さえた。
「安全片、限界まであと一目盛りです」ミレーネは表示を読み上げた。「次で横へ逃がせなければ、離脱します」
「聞いた」レオルが答えた。
ラウラの笛が鳴った。住民が一斉に綱を引く。レオルは腰を送り、主梁へ掛けた力を横へ流した。杭が軋み、車輪が一つ浮く。ガイル派の綱が後ろから張り、攻城器具は傾き、軸を失って、ゆっくりと道の脇へ倒れた。
レオルが一人で止めたのではない。別の身体で、別の道具で、仲間の力を同じ一点へつないで、止めたのだった。昔より強い英雄が戻ったのではない。その違いを、ミレーネははっきりと胸に刻んだ。
倒れた器具を捨てて、ヴァルドが逃げにかかった。その進路を、灰色の義手の男が塞いだ。ガイルだ。
「もう、終わりだ」
元副長へ告げ、斬りも、殴りもしない。ただ、道を塞いだ。そこへラウラの隊が回り込み、ヴァルドへ武器を捨てるよう告げた。抵抗をやめたのを確かめ、隊員が公の手で拘束する。処刑も、私刑も、見せしめもない。裁きは、法と手続へ渡された。
ガイルが道を塞いだことは、彼自身の過去の罪を消しはしなかった。彼は投降せず、拘束にも加わらず、自分の仲間を連れて、東の道から静かに退いていった。ラウラは追撃させなかった。いま守るべき者と、拘束した者と、残った火を確かめるほうを優先した。
攻城器具が止まると、レオルは合図を待たずに続けようとはしなかった。
「出力を切る」
自分で告げ、呼吸と重心を戻した。隊員が離脱具を操作し、ミレーネが左右のロック表示を確かめる。中央の連結を解き、「継火」を支持台へ戻した。装着から、上限の四半刻には達していなかった。
そのとき、リタがラウラの隊員に付き添われて、後方から駆けてきた。前線へ出たのではない。第二保管庫への運搬路で、灰旗のない男を隊員が取り押さえた、と知らせに来たのだ。
「あの人、保管庫の略図を持ってた。あたしは近づいてない。隊員さんを呼んだ」
「それでいいです」ミレーネは答えた。
記録は、すでに分けてある。原本は封印と番号を保って第二保管庫へ移し、写し、対応表、受領控えは別々の道へ散らしてあった。男は、全部を奪うことができなかった。
戦線の安全が確かめられてから、ミレーネはエッダとともに、ラウラの立会いで押収品を見た。置かれていた位置、時刻、採取した隊員、立会人、封をした者が、先に読み上げられた。署名のない暗号紙が一枚。番号と検品印のある武器が一振り。証拠の場所を途中まで描いた略図。
エッダが、以前に正式な照会で得た復興省支給品の番号表と、検品印の見本を並べた。武器の番号は支給品と同じ桁の組み方を持ち、印の外縁には見本と重なる欠けがあった。
「同じ経路の品である可能性は高い」エッダは言った。「だが、持っていた男が省の職員か、誰の命令で来たかまでは、これじゃ出ないよ」
暗号も、まだ読めない。グレゴールの命令も、復興省全体の関与も、決められない。ミレーネは、一致した事実と、まだ分からないことを分けて記録した。
そのあいだに、レオルの右の装着部には赤みが浮いていた。外して初めて熱も確かめられた。肩の筋も細かく引き攣れている。
セシルが治療場所で、触れる許可を取り、皮膚と肩を確かめた。「骨を傷めたと考える変形や、不自然な動きは、今は見当たりません。ですが、装着部は炎症を起こしています。今日はもう、何も着けません」
レオルが答えようとした途中で、膝が折れた。隊員とミレーネが左右から身体を受け、床へ打ちつける前に横たえる。意識が途切れたのは、短い間だった。疲れと痛みが重なったものだとセシルは見立て、呼吸と反応を確かめ続けた。新たに失ったものはなかった。ただし、炎症が引くまでは、また段階を戻して休ませる。
ミレーネは、肩を壊してまで皆を救った英雄、とは呼ばなかった。用途を守り、中止の手順を踏み、一人で背負わず、全員を帰した。その事実だけを、静かに受け止めた。
しばらくして、レオルが目を開けた。最初に出たのは、勝利の言葉ではなかった。
「工房へ、帰れたか」
それから、「みんな、帰れたか」と尋ねた。
「帰れました」ミレーネは答えた。「避難した人も、工房のみんなも。ここは、工房の裏の治療場所です」
触れていいかと尋ねて、彼の左肩へ、そっと手を置いた。口づけはしない。愛の言葉で傷が治るわけでもない。ただ、生きて帰れたことを、二人で確かめた。
その日の夕刻、封印のある一通が工房へ届いた。
エッダが、発行番号、監査院の印、対象の事件、持参を求められた証拠の一覧、受領の控えを、順に照らし合わせる。正式な召喚状だった。
工場と工房の襲撃で保全した証拠を、王都へ持参せよ。
そう記されていた。




