第39話 工房防衛戦
夜明けの石灰採り場に、ガイルは来なかった。
約束の刻限を四半刻過ぎても、白い崖の下に人影はない。レオルは外周線の内側で止まり、それより先へは進まなかった。条件が変われば戻る。前夜に決めた約束を守った。
そこへ、ラウラの偵察が駆け戻った。
丘の裏道に、覆いを掛けた荷車が一台。放棄工場から続く車輪痕と幅が重なる。灰旗を巻いた一団の先頭には、大柄な男がいた。荷台の覆いから、中立商会の印がある小箱の角が見えたという。
一団は石灰採り場ではなく、村へ向かっていた。
まもなく、村外れから怒鳴り声が届いた。
「工房の記録を出せ。設計と試作品もだ」
ヴァルドの声だった。レオルとラウラが、放棄工場で聞いた声と確かめる。
車輪痕、灰旗の配置、偵察の報告、小箱、ヴァルド本人の要求。強硬派が証拠と試作品を奪いに来たことを、別々の事実が指していた。
「予定は崩れた」
レオルは、ラウラとミレーネへ告げた。
「採り場へは行かない。工房へ戻る」
単独で先へ進まず、条件の変更を共有した。三人は警備隊と村へ引き返した。
ラウラが防衛の指揮を執った。
子ども、身体のつらい者、戦いへ加わらない者は村の奥へ。空き家を治療場所にし、井戸から水桶を並べる。工房、証拠の保管場所、村の生活路を分けて守り、退路を二本確保した。
「東の垣は、塞ぎきらない」
ラウラは命じた。
武器を捨てて退く者が通れる幅を残す。守るのは建物だけではない。利用者、村人、記録、帰る道。工房を、誰も出られない砦にはしなかった。
住民が手にしたのは、剣ではなかった。
畑の長柄鍬を二人で持ち、振られた棒を引っ掛けて地面へ落とす。荷車は横倒しにせず、車輪を残したまま並べ、押された場所へ動かせる防壁にする。
建築用の支持具は、押される扉と傾いた壁へ。救助鉤は、攻め込む荷車を引く綱へ掛ける。傾斜板は井戸から治療場所までの段差へ渡した。
エッダの車輪付き椅子は、水桶と封筒を運んだ。座面下の籠へ荷を分け、棚の前で車輪を固定する。戦うためではなく、必要なものを止めずに運ぶためだった。
誰も、急に兵になったわけではない。
ラウラが二人一組、三人一組へ分ける。道具ごとに用途を一つに絞り、中止の笛が鳴ったら深追いしない。距離を保つ。武器を落とす。支える。退く。それだけを繰り返した。
最初の強硬派が村道へ入ると、荷車の防壁が半歩下がった。追って踏み込んだ棒が、長柄鍬の間へ挟まる。二人が左右へ開き、棒だけを地面へ落とした。
倒れた者へ鍬を振り下ろす者はいない。東の垣を示し、退くなら追わなかった。
レオルは、合図役の声と灯りを組み替えて時間を稼いだ。
右上腕は保護当てだけだ。笛も灯りも、担当の隊員が扱う。レオルは荷車の列を一台ぶん前へ、長柄の組を半歩後ろへ、救助鉤の班を東へ、と声で配置した。
昔の双剣も、英雄の名も使わない。複数の道具と人の動きが、一人の突進より確かに強硬派の足を鈍らせた。
戦線の脇で、灰色の義手が荷車の前へ出た。
ガイルだった。ヴァルドの進路を塞いでいる。
「民間人を巻き込むのは違う」
証拠や部品のために、避難する者へ棒を向けるなら、仲間を食わせるための戦いではない。ガイルはそう言った。
「甘い」
ヴァルドは鼻で笑った。
「国が先に奪った。こちらが、奪う相手を選ぶ理由はない」
ガイルは動かなかった。彼の側にいた数人も、灰旗を外してヴァルド側の回り込みを止めた。二人は東の退路を守り、一人は避難する車輪台を押した。
灰の旗が、そこで二つに割れた。
ガイルの選択は、人を救った。だが、ダリオを攫ったこと、輸送隊を襲ったこと、人質交換を迫ったことは消えない。一緒に防衛したからといって、赦されたことにはならない。
ガイルも投降せず、自分の仲間を率ったままだった。
「親方」
リタが、炉のある土間まで駆けてきた。安全な裏廊下から外へは出ていない。
「知らない男が、証拠庫へ向かってる」
灰旗を付けていない。避難者に紛れ、工房が村人を戦わせていると声を上げながら、自分は誰も助けず裏手へ進んでいるという。
「証拠庫はどこだ、と聞かずに、まっすぐ行った」
場所を知っているような動きだった。だが、誰の差し金かは分からない。名も、所属も、復興省との関係も、決められない。
ミレーネが窓から見ると、村人の作業着に似た外套の男が、裏廊下へ曲がるところだった。声をかけた隊員を見るなり、物置の陰へ姿を消す。捕まってはいない。
「エッダさん、分散を」
エッダは、すでに耐火箱の封印番号を読み上げていた。
原本は番号と封を保ったまま、ラウラの隊員立会いで村役場の第二保管庫へ移す。運んだ者、出発時刻、受領者を二通へ記録した。
顧客名との対応表は診療小屋。写しは村長宅と警備隊証拠庫。受領控えはエッダの帳簿箱へ。どれか一つを奪っても、全体がつながらないよう分ける。
改竄も、破棄も、火も使わない。リタは封筒番号を確認し、後方の伝令へ渡すだけだ。潜入者を追わせず、前線へも出さなかった。
そのあいだ、ミレーネは炉の前にいた。
防衛のすべてを一人で背負う道は、もう選ばない。前線はラウラとレオルと住民へ、記録はエッダとリタへ委ねた。
自分がする仕事は、一つだった。
作業台には、試験を重ねてきた部品が並んでいる。
左右の短刃型切断具。鉤爪。瓦礫支持具。防御板。鍛造用固定具。左右を交換できる接続部。どれも救助や作業の道具として、荷重と離脱の試験を済ませていた。
足りないのは、それらを一つの体系へまとめる中央接続芯だ。
ミレーネは芯材を炉へ入れた。暗い赤から橙へ変わるまで待ち、取り出す。槌を三度。向きを変え、また三度。左右の接続溝が同じ深さになるよう、測り棒を当てた。
中央には、連結時だけ噛み合う二重の留めを刻む。一つ外れただけでは開かず、離脱具を二方向から動かしたときだけ外れる。過負荷になれば、武器より先に交換式の安全片が折れ、装着部へ力を流しきらない。
芯を冷まし、固定試験架へ載せた。左右の部品をつなぎ、砂袋で荷重をかける。安全片が決めた重さで割れ、中央芯は外れなかった。
成功だけを書かない。割れた重さ、芯のたわみ、離脱に要した時間を、試験札へ残した。
二つ目の鐘で、セシルが水を置いた。ミレーネは「あとで」と言わず、槌を置いて飲んだ。手の震えと焦点を確かめ、異常がないことを互いに確認してから、最後の磨きへ戻る。
「継火」は、この朝に突然生まれた剣ではない。
ダリオが照合した接続構造。セシルの装着安全条件。エッダが積み重ねた部品と試験の記録。リタが番号順に揃えた交換部品。レオル自身が伝えた、腰、背中、呼吸、重心の動き。
それらを、中央の芯がつないでいた。
意思だけでは動かない。仲間の合図が要る。触覚は戻らない。出力にも、装着部にも限界がある。
単独の部品は、切断、武器取り、瓦礫支持、防御、固定に使う。左右を芯で連ねたときだけ、大剣の形になる。昔の双剣を取り戻す道具ではなかった。
武器を鍛えることへの恐れは、消えていない。
それでもミレーネは、恐れに用途を決めさせなかった。何のために作るかを、自分で選ぶ。
敵を斬るためではない。避難路を開き、振られた武器を外し、瓦礫を支え、盾となり、全員を帰すため。
中央芯の最後の留めが、音を立てて収まった。
ミレーネは完成した「継火」を車輪付きの支持台へ載せた。手から手へは渡さない。前線の切れ目で戻ったレオルの前へ、台を押して運ぶ。
外では、割れた灰旗の両側が、まだ睨み合っている。戦いは終わっていない。
ミレーネはレオルの正面へ立った。
「倒すためではありません」
短刃、鉤、支持具、防御板、中央芯を順に示す。
「全員を帰すために使ってください」
レオルは、台の上の道具を見た。それから、ミレーネへ視線を戻す。
「分かった」
用途を自分の声で復唱した。中止の合図に従うこと。装着部の警告が出たら退くこと。仲間の合図なしに連結しないことも、確かめる。
まだ装着しない。まだ振るわない。
継火工房の看板へ朝の光が差した。その下で、何のための武器かだけが、先に決まった。




