第38話 生きる意味を勝手に決めるな
救出から戻った日の夕刻、工房の戸口に外套が掛けてあった。
ミレーネは、片づけ忘れかと思った。だが、その下には胴掛け式の鞄がある。水筒、二日分の干し肉、堅パン。作業台には、出発と帰着の刻限を書いた札が、伏せて置かれていた。
昼過ぎ、灰色の布を巻いた伝言がラウラへ届いている。明朝、石灰採り場の跡。団長一人。その条件を呑むなら話す、と記されていた。
誰かが、レオルのために旅支度を整えたのだ。
当のレオルは、札を隠すように作業台の前へ立っていた。右上腕には保護当てしかない。道具を握る手も、荷を詰める義手もない。
「誰に、用意してもらったんですか」
ミレーネが尋ねると、肩がわずかに強張った。
「宿の主人だ。裏道を確かめるとだけ伝えた」
目的は話していないという。丘の裏を通る経路も、口頭で確かめていた。ガイルが指定した刻限は近い。
「一人で行くつもりだったんですね」
レオルは否定しなかった。
「ガイルが求めたのは、団長一人だ。警備隊も工房の者も連れていけば、話す前に決裂する」
元部下との問題へ、ミレーネや工房を巻き込みたくない。危険は自分だけが引き受ければいい。
「あなたを捨てるためじゃない。守るためだ」
レオルは、救出現場でヴァルドがダリオを柱へ押しつけたことを挙げた。話し合いの条件が崩れれば、同じ強硬派が出てくるかもしれない。自分を求めている場所へ、ミレーネまで立たせたくないという。
「あなたに何かあれば、俺は交渉の言葉を選べなくなる。それが怖い」
その一語で、ミレーネの胸の奥が冷えた。
守る。きれいな言葉だった。だが、その裏で、レオルは一人ですべてを決めていた。
「相談もなく」
声を荒らげはしなかった。荒らげれば、怒りだけが先へ届きそうだった。
「私が関わるかどうかまで、あなたが決めたんですか」
レオルは答えなかった。
「私を、何も知らずに置いていかれる側へ、勝手に決めないでください」
ミレーネは一歩近づいた。
「ガイルさんとの問題は、あなた一人のものではありません。あの人たちの義手、命令術式、工房、救助、証拠、うちの利用者。全部つながっています」
危険だから行かせない、と言いたいのではない。自分も必ず同行すると、押し切りたいのでもない。
「危ないなら、なおさら、誰がどの役を持つか相談すべきです」
怖いと口にしたこと自体を、責めるつもりはなかった。ミレーネも、レオルが一人で出たと知れば、炉の前で平静にはいられない。
「私も怖いです。でも、怖い側が、相手の選択を取り上げていいことにはなりません」
レオルの呼吸が、少し深くなった。
「あなたが一人で危険を引き受けることも、私の選ぶ権利を奪っています。守るという言葉で、私が関わるか、待つか、支えるかを選ぶ権利まで取り上げないで」
声がわずかに震えた。それでも、目は逸らさなかった。
「誰が残されるべきか。誰の生きる意味がどこにあるか。相手の代わりに決めないでください」
炉の残り火が、小さくはぜた。
やがて、レオルが口を開いた。
「あなたも、同じことをした」
声が鋭くなった。
「三日眠らなかった夜だ。工房を守るために、自分の手も身体も使い潰そうとした。誰にも相談せず、自分だけが止まらなければいいと思っていた。俺が今しようとしていることと、何が違う」
図星だった。
だが、その言葉には、弱っていた夜を、いまの口を塞ぐために持ち出された痛みがあった。ミレーネの肩が固まる。
レオルは、それを見た。呼吸を止め、目を伏せる。
「……すまない」
短い沈黙のあと、言った。
「同じ構造だと伝えたかった。だが今の言い方は、あなたの過労を責める道具にした。それは違った」
ミレーネは、すぐには答えなかった。謝罪を受け取ることと、傷つかなかったことにするのは別だった。
「指摘は受け取ります」
あの夜、自分は一人で抱え込んだ。自分が止まれば工房も居場所も消えると思い、仲間が選ぶ余地を奪った。それは確かに、今のレオルと同じだった。
「でも、私が前に間違えたことは、今の私の意見を聞かなくてよい理由にはなりません」
レオルが顔を上げた。
「ああ。その通りだ」
「私も、危険なら必ず自分が行く、と先に決めかけました。それも違います」
今度はミレーネが認めた。置き去りを拒むことと、全員を巻き込むことは同じではない。
二人とも、自分の正しさだけを握ってはいなかった。正しいところと、相手を傷つけたところを、別々に机へ置いた。
「一人で行くのでも、全員で行くのでもない形を作りましょう」
ミレーネは伏せられた札を表へ返し、新しい紙を隣へ置いた。
まず、ラウラとエッダを呼んだ。二人だけで警備隊の役割まで決めることはできない。
ラウラは伝言と石灰採り場の地図を見比べた。
「外周線までなら、公的護衛を置けます」
会話の距離へ入るのはレオル一人。ラウラと警備隊は、双方から見える外周線を越えない。ミレーネは命令部品や装具に異常が出た場合の技術担当として、同じ線の外にいる。交渉の言葉には口を挟まない。
「護衛を隠すのは、なしです」
ミレーネが言うと、ラウラもうなずいた。
条件は先にガイルへ伝える。彼が拒むなら、レオルも一人では進まない。約束したふりで警備隊を伏せることもしない。
ラウラは指定された標石へ、条件を書いた返書を公然と置かせた。回収者を遠くから確認し、返答を待つ。戻された紙には、会話の範囲へレオル以外が入らないなら受け入れる、とだけあった。前の伝言と字の癖、灰布の縫い目を照合し、同じ差出元である可能性が高いところまで確かめた。
「俺が交渉する」レオルは言った。「だが、退く判断は一人で変えない」
エッダが条件を書き取った。
出発は朝一つ目の鐘。交渉開始は二つ目の鐘まで。三つ目の鐘で、話の途中でも切り上げる。夕鐘までに工房へ帰る。
停止は笛二度。撤退は長く一度。連絡が途切れた場合、ラウラが外周線まで迎えに出るが、それより奥へは追わない。
ガイル側が場所や人数を変えたら進まない。ヴァルドの強硬派が現れたら撤退。条件の変更はその場で独断せず、いったん戻って相談する。
「置き去りにしない」
ミレーネが最後に書いた。
「必ず相談して帰る」
レオルが口で読み上げる。エッダが確認者として時刻を添え、ラウラが護衛条件へ署名した。
レオルは右上腕へ署名補助具を着けなかった。エッダが全条項をもう一度読み、本人が一項ずつ了承を返す。口頭確認であることと、立会人の名も記録へ残した。
二人だけの願いではない。全員が守れる手順になった。
夜の支度を終えるころ、張り詰めていたものが少しほどけた。
レオルが、ミレーネを見た。
「近づいてもいいか」
「はい」
互いに半歩を詰めた。ミレーネが右の装着部を避け、左肩へ身体を寄せる。レオルが肩と胸で重みを受けた。腕は回らない。それでも、作業着の煤の匂いと、体温があった。
短い抱擁だった。
従わせるためでも、議論を終わらせるためでもない。同じ約束の上に立てたことを、確かめるための近さだった。
身体を離したとき、戸口へ見張りが駆け込んできた。
「村外れの丘に、灰色の旗が見えます。三つ――いや、もっとかもしれない」
ミレーネは、すぐに襲撃だとは言わなかった。ラウラが別方向の巡回隊へ確認を走らせる。
ほどなく、工房へ向かう道に複数の足跡と、浅い車輪痕が見つかったとの報告が来た。丘の上では、間隔を保って動く灯りも三つ確認された。
見張りの旗。道の足跡と車輪痕。丘の灯り。
異なる場所からの報告が、同じ方向を指している。
複数の一団が、継火工房へ向かっている。それだけは確かだった。
誰が率いるのか。何人いるのか。何をしに来るのか。そこまでは、まだ分からない。
ミレーネは、明朝の刻限を書いた札を見た。それから、戸口の外で動く灯りへ目を向けた。




