第34話 技師を返せ
ラウラの警備隊が着くまで、誰も敷居をまたがなかった。
隊員はまず、入室前の状態を記録した。時刻、扉の開き幅、外から見える乱れ、まだ誰も入っていないこと。ミレーネ、レオル、エッダの名を立会人として控え、採取を担う隊員を決める。
それが済んでから、ラウラたちは一人ずつ室内へ入った。
床の書付の下から、小さな金具が覗いていた。ラウラが手袋をした指で示す。
ダリオの補聴具だった。
右耳の聞こえを補うため、普段は耳へ掛けている。落ちた位置と向き、書付との重なりを記してから、隊員が袋へ収めた。
「これが外れていたなら、背後の物音を拾いにくかったかもしれません」
ミレーネは、可能性だけを言った。落ちたから何も聞こえず、連れ去られたとは決められない。聞こえの補いは万能ではないが、外れた理由も時刻も、まだ分からない。
ダリオ本人も、返却予定の封筒も見当たらなかった。
エッダは、散った書付を資料番号と頁で数えた。隊員が一枚ずつ位置を記してから、読み上げた番号へ印をつける。
「指定写しが、一枚ないね」
エッダは帳面へ、不足一枚、とだけ書いた。
「一枚ないから、誰が盗った。そう飛ばすんじゃないよ。まず、あるものとないものを正確に残す」
ラウラは、手がかりを別々に記録させた。土間の足跡、外の車輪痕、扉と机の傷、灰色の布片、近隣の目撃、ダリオが書いた予定経路。
灰色の布があるだけで、灰旗団の仕業とは決めない。誘拐かどうかも、実行犯も命令者も、まだ記録には書かなかった。
リタは工房へ残した。番号札と搬送用の毛布、水、冷却布を整える。それが、いま任せられる後方の仕事だった。
翌朝、村境の古い標石に、灰色の旗印を縫い付けた紙が結ばれていた。
警備隊の伝令が発見し、場所、時刻、回収者、立会人を記して外した。ラウラが、工房で要求文を読み上げる。
技師を返してほしければ、国家支給の義手が本人の意思に反して動く現象を止める方法を持って来い。
書き手は、命令術式の詳しい構造を知らないらしい。義手が勝手に動く。帝国の技を知る者なら止められる。その二つを、短い言葉でつないでいた。
要求書だけでは、実際に何人の義手が動いたかは分からない。ラウラは、退役兵から届いた相談記録、装着部を痛めたという報告、村人の目撃を照らした。
異常な動作を訴える相談が増えたことは、記録から確かめられた。ただし、すべてが同じ命令術式によるものか、誰が動かしたのかは分からない。
三つの村から届いた報告には、肩を勝手に引かれた、鉤が閉じた、夜中に肘が動いた、と別々の症状が書かれていた。日付も装具の型も同じではない。増えているという事実と、原因が一つだという判断は分けておいた。
「人を返す条件に、技術を要求している」
ミレーネは言った。
「この人たちは、ダリオさんを取引の材料だと思っています。私たちが求めるのは、技術ではありません。まず、技師を返してください。一人の人間として」
レオルは要求書と、輸送隊襲撃時の配置を見比べた。
「ガイルは、恩給を止められた仲間を食わせようとしていた。国家支給の義手が勝手に動き始めたなら、止められる技師を欲しがる理由はある」
低い声で続けた。
「だが、推測だ。ガイルが命じたか、誰が連れ去ったかは、まだ分からん。仲間を救いたいことと、ダリオの選択を奪った責任は別だ」
ミレーネは、未完成の拒否共鳴も、祖父の原本も、指定写しも持って一人で交渉へ行かないと決めた。ダリオの命を守ることと、要求どおり未完成の技を渡すことは同じではない。渡すふりをした単独交渉も選ばない。
「それでいい」レオルが言った。「一人を取り戻すために、別の誰かの身体へ試せない技術を渡せば、次の人質が増える」
役割を分けた。ラウラが公的な捜索と現場の安全。レオルが救助の順、合図、撤退条件。ミレーネが命令部品を安全に扱うための条件を整理する。セシルが救出後の身体確認と搬送準備。エッダが時刻、資料、手がかりを照合する。
退く合図が出たら、相手を見つけていても追わない。日暮れを越えて偵察を続けない。誰か一人が遅れたら、全員で戻る。条件を先に記録した。
目的は、解除法や敵国の技を手に入れることではない。ダリオを生きて帰すことだった。
レオルの右上腕は段階復帰の途中だ。救助用義手も、戦闘用の道具も、この日のために解禁はしなかった。
拠点は、勘だけで決めなかった。
作業場に残った車輪痕の幅は、旧軍需輸送車の規格と重なった。灰と油と金属粉は、警備隊が保管していた放棄工場周辺の調査試料と似ている。夜に覆い付きの荷車を見た者の証言と、巡回記録の空白も、古い軍需輸送路へ続いていた。
要求書が指定した受渡し場所も、その道の途中にある。
異なる手がかりが重なった先は、休戦後に放棄された王国軍需工場だった。
「拠点である可能性が高い」
ラウラは、確定ではなく、そう記した。
この日は踏み込まなかった。まず外周を確かめ、人数と出入口を見る。
ミレーネはラウラの偵察班と、崩れた外壁の割れ目まで近づいた。レオルは隣で、警備の交替と退路を目で追っている。
高窓の下、覆いの隙間から内部の一角が見えた。
ダリオが柱際に座らされていた。胴と右手首、左の残った前腕を、別々の革帯で柱へ留められている。
大柄な男が、補聴具のない右側から何かを言った。ダリオは顔を正面へ向け直した。
「ヴァルド・ケインだ」
レオルが、ミレーネへ届く声で言った。元攻城兵で、灰旗団の副長だという。
ヴァルドは、机の上の灰色の義手を指し、外せと迫った。
ダリオは首を振らなかった。慎重に、分かるところから答えた。
帰還環らしい部品は、装着中の身体から単に抜けばよいものではない。不随意動作の途中で分解すれば、残った腕や関節、肩へ捻れと過負荷がかかる。発動条件も、個体鍵も、安全に止める手順も確かめずには外せない。
自分一人では、王国が今どう命令を送っているのかも、完全な止め方も分からない。装着者本人の状態と同意を無視して、実験のように試すことはできない。
ダリオは、何も完成させなかった。誰の義手も解除しなかった。
ヴァルドが焦れて、ダリオの襟をつかみ、柱へ強く押しつけた。
「敵国の技師なら、壊れても構わないだろう。国が先に奪った。取り返す相手を選ぶ必要があるか」
「やめろ、ヴァルド」
別の男が割って入った。右前腕を失い、灰色の国家義手を着けている。
ミレーネの隣で、レオルの呼吸が短く止まった。
「ガイルだ」
「壊せば、止め方も消える」
ガイルの言葉は、まだダリオ本人より、仲間の義手を止める方法へ向いていた。それでも、ヴァルドは襟から手を離さなかった。ガイルが一歩入り、二人の視線がぶつかる。
数呼吸ののち、ヴァルドはダリオを柱へ戻し、ようやく手を放した。従ったのではなく、次は譲らないと告げるような離れ方だった。
仲間を救うためなら敵国人の選択を奪ってよいのか。国に奪われたなら、別の人間から奪ってよいのか。二人のあいだに、その違いが初めて形を持った。
ミレーネは、ガイルを許せる気にはならなかった。ヴァルドを止めたことと、ダリオを攫ったことは別だ。
ダリオは、まだ柱につながれている。
撤退の合図が来た。ミレーネは、割れ目から身体を離した。
その直前、工場の奥に積まれた木箱が目へ入った。同じ形の規格部品が詰まっている。片方の箱には王国の刻印。もう片方には、帝国の刻印があった。
ミレーネは二つを目に刻んだが、意味は口にしなかった。同じ形だからといって、誰が、どこから、何のために買ったかまでは分からない。




