第26話 戻らないと決めた男
灰色の義手の検分記録を綴じないうちに、村の若者が警備詰所へ駆け込んできた。
灰旗団を避けて脇の崖道を選んだ隊商が、路肩の崩れへ車輪を落とし、動けなくなっているという。傾いた荷馬車には人が残り、崩れは少しずつ広がっていた。
「騎士団の救助隊は」
ミレーネは尋ねた。
「主街道の警戒へ出ています」
ラウラが答えた。
「呼び戻しても、夕鐘までには着きません。警備隊は、いま出せる者を連れていきます」
レオルは、若者へ身体を向けた。
「荷馬車は何台だ。人は歩けるか。道の山側に、杭を打てる地面はあるか」
答えを一つずつ聞き、短く息を整える。
「まず、人を上へ逃がす。荷と車は、そのあとだ」
レオルはラウラを見た。
「俺は継火工房の救助員として行く。灰旗団の追撃はしない」
ミレーネは工具箱を閉じ、救助具と滑車を荷車へ載せた。騎士団への返答期限である夕鐘は、まだ鳴っていない。
崖道に着くと、隊商の先頭車が斜めに傾いていた。
外側の後輪が路肩から落ち、車軸の腹だけが土へ食い込んでいる。荷の重みで車体が軋むたび、小石が谷へ落ちた。後続の荷馬車も、狭い道で向きを変えられずに並んでいた。
荷台には、隊商の者が三人残っていた。動けば車体が揺れるため、山側の縁へしがみついている。
レオルが作業案を伝え、ラウラが公的な現場指示として引き取った。
「警備隊は両端を閉鎖します」
ラウラは隊員へ合図した。
「レオルさんが避難の順と合図を決める。ミレーネさんは、杭と滑車の荷重を確認。セシルさんは装着部と負傷者を見る。隊商の皆さんと村の方は、指示された綱だけを引いてください」
レオルは元団長の権威で命じず、工房の救助担当として計画を渡した。エッダとリタは村で記録と物資の準備を受け持ち、崖道へは連れてこなかった。
ミレーネは山側へ三本の杭を打ち、二つの滑車を通した。一本は人を移すための胸綱へ。もう一本は、荷を載せる低い運搬台へつなぐ。荷馬車を引く太綱は、さらに別の杭へ分けた。
一つが切れても、すべてが谷へ引かれない形だった。救助用鉤爪も持ってきていた。
橋の救助後、荷重制限と他者が操作できる離脱具を加え、砂袋で台上試験をした。だが、レオルへの通常使用は、まだ認められていない。
「使うなら、先にセシルさんの確認を」
ミレーネは言った。
セシルがレオルの前に立つ。
「右上腕へ触れてもいいですか」
「頼む」
保護当てを外し、皮膚の色、熱、可動を確かめる。擦れた箇所は閉じていた。セシルは痛みと肩の張りを本人へ尋ねた。
「いま痛みはない」
レオルが答えた。
「続けたい。ただし、中止はあなたの判断に従う」
「これは通常使用の許可ではありません」
セシルは念を押した。
「今日、この作業だけ。まず無負荷で動かし、次に軽い砂袋で確かめます。赤み、痛み、警告のどれかが出たら止めます」
ミレーネは許可を得て、右上腕へ救助用義手を装着した。
レオルが肩と背を動かし、呼吸を合わせる。鉤爪がゆっくり開閉した。角度を目で追い、小さな砂袋をつないで綱の向きを変えた。
セシルが装着部をもう一度確かめ、限定した使用を認めた。
主荷重は、杭と滑車と綱を引く者たちへ逃がす。鉤爪は、二本の綱の向きと張りを短く調整するだけだ。騎士団の高性能義手ではなく、工房で作り直した道具だった。
「荷台の三人からだ」
レオルが声を送った。
胸綱を一人ずつ回し、山側の道へ渡す。最初の者が動くと荷馬車が軋んだが、レオルは急がせなかった。息を合わせ、足を置く場所を声で知らせる。
三人が移ると、荷を小分けにして低い運搬台へ載せ、道の内側を滑車で引いた。
最後に、空になった荷馬車を上げる。
車輪の下へ板を差し、太綱を車軸へ回す。村人と隊商員が二列になり、隊員が杭を見張る。レオルは補助綱の向きを保ち、引く拍を数えた。
荷馬車が、半輪分だけ上がった。
そのとき、補助綱が見えない岩角へ引っ掛かった。車輪が板の端で滑り、綱の角度が一気に変わる。
救助用義手の警告板が激しく鳴った。
出力が上限を越えている。ミレーネが組み込んだ過負荷遮断が働き、鉤爪の力が落ち始めた。
「止めて!」
ミレーネが叫ぶ。
「中止です」
セシルの声も重なった。
レオルは荷馬車を見た。今回は、止めろという声を聞き流さなかった。
「止める。離脱を頼む」
レオルは、すぐに言った。
隊員が離脱具を引いた。鉤爪が補助綱から外れ、主荷重は杭と太綱へ移る。レオルは下がり、セシルの指示で義手を外した。
右の装着部には赤みが出ていた。肩の筋肉も細かく引き攣っている。セシルは変形や出血がないことを目で確かめ、冷やした布を当てた。
「今日は、もう着けません」
「分かった」
レオルは重い作業へ戻らなかった。
「補助綱を、もう一本の滑車へ移す」
地面へ座ったまま、道の内側から合図を出す。
隊商の男が鉤爪のあった位置へ回り、村人が別系統の綱を張り直す。引く人数を増やし、短い距離ごとに杭を確かめた。
作業は遅くなった。それでも、空の荷馬車は少しずつ道へ戻った。
後続の車も荷を減らし、一台ずつ安全な道幅を通した。人も荷も車も、谷へ落ちなかった。
杭と滑車、隊商員と村人、警備隊と工房。それぞれが、持てる重さを持った結果だった。
日が傾き、夕鐘までの時刻が迫っていた。
レオルは、ラウラへ声をかけた。
「騎士団への返事を、いま伝える」
右上腕は布で冷やしたままだ。署名補助具は使わない。
「俺は戻らない。復帰要請を、正式に辞退する」
ラウラは控えへ本人の口述として書き、最初から読み上げた。レオルが内容を確認し、ミレーネが立会人の名と時刻を記した。
「理由を、聞かせてもらえますか」
ラウラが尋ねた。
「戦う地位も、動員で別の任務を命じられる身分も、俺は選ばない」
レオルは、崖道に残る綱を見た。
「暮らしを守る救助の仕事を選ぶ。誰かに必要とされたからではない。俺が、今日のような仕事を続けたい」
一度、息を継いだ。
「騎士団の仕事を否定する気はない。今日も、あんたの隊が道を閉じてくれたから救助ができた。これからも、公の警備と工房の救助で組めるはずだ」
ラウラは、すぐには答えなかった。やがて控えを閉じ、まっすぐレオルを見る。
「残念です」
声を濁さずに言った。
「ですが、決めるのはあなたです。辞退を受理します。次の現場でも、必要なら協力を頼みます」
その言葉を聞いたあとで、夕鐘が遠く鳴り始めた。
ミレーネは安堵した。けれど、それを、自分のために残ったのだとは受け取らなかった。
レオルは、自分が続けたい仕事を選んだ。その選択を、自分への褒美にしてはいけなかった。
「工房へ戻ったら、もう一度診てもらいましょう」
「ああ」
レオルは、短く答えた。
工房へ戻ると、セシルが右上腕を冷やしている間に、停止した救助用義手を検分した。
レオルの同意を取り、時刻と停止時の出力をエッダが記録する。ミレーネは調整部から覆いを外した。
調整部品は、購入控えが残る正規の払い下げ品だった。仕入れ日、売り手、数量も帳面と合う。
「拾い物でも、出所不明でもないよ」
エッダが控えを示した。
「こっちは、代金を払って買ってる」
過負荷でずれた薄板の下に、小さな刻印があった。
円い検品印の外縁が、一か所だけ欠けている。偶然の打ち損じではなく、刻印具そのものに傷があるような形だった。
「ラウラさん。今朝の照会で届いた、倉庫の検品印見本を見せてください」
ラウラが、発行元と照会番号の入った写しを広げた。ハーゲンが管理する軍需倉庫で使われている検品印。その外縁にも、同じ位置、同じ形の欠けがある。
ミレーネは二つの印影の寸法を測り、エッダが購入控えの部品番号と照合した。ラウラも、欠けの位置を記録へ写す。
「同じ傷のある刻印具で押された可能性が高いです」
ミレーネは言った。
「うちが民間で正規に買った部品が、ハーゲンの管理倉庫で検品された可能性がある」
それだけでは、誰が部品を外へ出したのかは分からない。ハーゲン本人が命じたのか、記録を偽ったのか、盗まれたのか。灰旗団との関係も証明しない。
ただ、工房の購入控えと、倉庫の正式な印影。その二つを、同じ欠けの傷が結んでいた。




