第20話 ここに残る契約
その日の炉の火を落としたあと、二通の契約書へ「返済完了」と記された。
最後の労働時間、相殺額、残額なし。エッダが読み上げ、ミレーネとレオルが照合して、それぞれ署名した。
道具代を労働で返すための契約は、今日で終了した。
ミレーネは工房保管分を帳簿棚へ収めた。もう一通は、レオル本人のものだ。使っている装具も、完済後はそのまま彼の所有になる。
隣の作業台から、今日の仕事札が外されていた。
明日の札を置く約束はない。低い台の上には、木目だけが残っている。
引き留める理由なら、幾つも思いついた。
恩給通知の照合が残っている。正式受注した仕事は待っている。利用者の望みを聞き、動線を組める者も必要だった。
だが、仕事があることと、レオルが残ることは別だった。
新しい債務を書かなかったのと同じように、雇用を先に差し出して、返事を縛ることもしたくない。道具を作った恩や、自分の好意を理由にすることは、もっと違う。
ミレーネは何も書かれていない作業台を見つめ、口を閉じた。
「ミレーネ」
レオルは、台の向こうに立っていた。
右上腕には保護当てだけがあり、軽量保持具は外してある。両肩をわずかに引き、一度、呼吸を整えた。
「ここに残って、働きたい」
ミレーネは顔を上げた。
「返済中に言えば、借りを返すためだと思われる。だから、終わってから言うと決めていた」
レオルは、空の作業台から目を逸らさなかった。
「返済の続きじゃない。道具を作ってもらった礼でもない。憐れんで置いてくれと言うつもりも、住み込みでただ働きするつもりもない」
一語ずつ、確かめるように続ける。
「俺は、ここで自分の仕事をしたい。その仕事に、対価を受け取りたい。雇ってもらえないか」
残ってほしい、とミレーネが言うより先に、レオル自身が選んだ。
胸の奥で動いたものを、雇用の返事へ混ぜないよう、一度息を置いた。
「どんな仕事を、自分の役割にしたいですか」
「利用者が何をしたいか聞く。訓練の動線を組む。救助なら、人と道具の役割を分け、現場で指示を出す。俺ができる記録の照合も続けたい」
「鍛冶職人としてでは、ありませんね」
「ああ。俺は鉄を鍛えられない。工房主でも、共同経営者でもない」
役割を大きく見せず、できないことも自分で言った。
ミレーネは、奥の帳簿台へ声をかけた。
「エッダ。新しい雇用契約を、一緒に作ってください」
車輪付きの椅子が、床板を鳴らした。エッダは白紙と台帳を膝へ載せて現れる。
「聞こえてたよ」
エッダは、まずレオルを見た。
「給金はいらない、という話なら追い返すところだった」
「受け取る。仕事を施しにしたくない」
「それなら、数字の話ができる」
エッダが紙の上部へ、雇用主ミレーネ・ヴァルカ、被用者レオル・アシュベルと書いた。
職名は、正式工房員兼救助担当。鍛冶職人でも共同経営者でもなく、工房の所有権と最終判断はミレーネにある。
「担当する仕事を、先に決めます」
ミレーネが読み上げた。
利用者の用途確認。訓練と生活動線の確認。救助計画、現場での指揮、関係者への手順説明。制作記録と受領記録の読み上げ照合。セシルが許可した範囲の軽作業。
「含めない仕事も書くよ」
エッダが、その下へ続けた。
鍛造、熱い鉄の保持、重量物の単独運搬、未訓練作業、単独救助。許可を受けていない装具の使用。
右上腕は、保護当て付きの軽量保持具を短時間使える段階だ。冷えた軽い道具だけ。熱い工具、扉用の鉤、救助用鉤爪は、セシルが改めて許可するまで使わない。
「正式に雇われても、身体の条件は変わらない」
ミレーネが言うと、レオルはうなずいた。
「変わったふりはしない」
固定給は、村の復興作業で同じ責任を負う補助員の相場を基準にした。障害を理由に、同じ仕事の単価を下げない。
成果配分は、レオルの担当記録がある救助具と救助依頼だけを対象にする。売上から直接材料費を引いた残りの一割を、月末に加算する。ただし追加分は固定給の半分を上限とした。
対象番号と計算は、支払日の前にレオル本人が帳簿で確認する。
「工房全体の損失や仕入れ不足まで、あんたへ背負わせない」
エッダは線を引いた。
「この配分で、所有権も経営権も生じない。増えるのは働いた分の給金だけだ」
「それでいい」
訓練と装着部の確認は勤務時間へ入れた。昼の休憩と、七日に一日の休養日を定める。痛み、赤み、眩暈、装具のずれがあれば、本人または立会者が作業を止められる。
業務範囲の変更には、ミレーネとレオル双方の同意が要る。
レオルは理由を問わず退職を申し出られ、罰金はない。未払給金は契約終了時に精算し、個人用装具は取り上げない。
工房側の都合で終了する場合は、一支払期前に書面で通知する。重大な安全違反がある場合も、事実と記録を示し、未払分の精算は省かない。
「辞められない契約は、雇用じゃない」
ミレーネは言った。
「残ることを選び直せる形にします」
レオルが、その文を目で追った。
「ああ。俺も、その形がいい」
契約書は二通作った。ミレーネが雇用主として署名する。
次に、レオルの右上腕用署名補助具を用意した。
「右へ触れて、保護当てと補助具を付けます。いいですか」
「頼む」
短い鉛筆を保持溝へ収める。レオルは触覚のない先端を目で追い、肩と呼吸で線を引いた。
一通目へ署名したところで休み、皮膚を確認する。強い赤みがないことを確かめてから、二通目へ同じ名を書いた。
エッダが作成者兼立会人として署名し、日付と時刻を記す。各自が条件を読み返し、二通の内容が同じことを確かめた。
一通はレオルへ。もう一通は、旧契約とは別の雇用契約綴りへ収めた。
レオルは本人分を、空になるはずだった作業台下の棚へ収めた。エッダが、台の上へ明日の仕事札を置く。
「これで、正式工房員兼救助担当だ」
エッダは台帳を閉じた。
「仕入れの締めをしてくる。雇用に入らない話があるなら、勤務時間の外でやりな」
戸口が閉まり、二人だけが残った。
日が落ちかけ、火を落とした炉の煉瓦が、まだわずかな熱を返している。
ミレーネは、新しい契約書から手を離した。
「先に、はっきりさせます」
レオルの灰緑の目を見る。
「これから言うことへ、どんな返事をしても、雇用契約は変わりません。給金も、仕事も、退職の条件もです」
「分かった」
「仕事に必要だから、ではありません」
昨夜、左肩の体温から離れたくないと思った。その気持ちを、仕事の言葉へ逃がさない。
「私が、レオルにいてほしい。あなたの選び方や、働き方が好きです。仕事の外でも、一緒にいたい」
言い終えると、胸の内側が静かになった。
レオルは、しばらく黙っていた。呼吸が一度、深くなる。
「俺も、道具の礼や借りとは別のところで、ミレーネといたい」
低い声が、炉の前へ落ちた。
「必要とされる役目があるからでもない。ミレーネが好きだ。恋人として、俺と付き合ってほしい」
「はい」
今度の返事は、考えるより先ではなかった。自分で選び、レオルの目を見て答えた。
少しの間、どちらも動かなかった。
「口づけても、いいか」
レオルが尋ねた。
ミレーネは一つ息をして、うなずく。
「はい」
互いに半歩ずつ近づいた。
レオルが身体をかがめ、ミレーネも顔を上げる。短く唇が触れた。一度だけで離れた。
炉の火はない。それでも、頬に上がった熱は、しばらく引かなかった。
レオルも何か言いかけ、結局、小さく息を吐いた。灰緑の目が、わずかに細くなる。
ミレーネは笑った。
「明日の朝から、何が変わるでしょう」
「仕事が始まれば、工房主と工房員だ」
レオルも、少し笑っていた。
「恋人だからと、仕事札の順を変えないでくれ」
「変えません。休養日も、中止条件も同じです」
「なら、変わらないものは多いな」
レオルが、火を落とした炉へ目を向けた。
「点火の鐘も、今までと同じだ」
「ええ。同じ時刻です」
二人は、明日から変わることと、変えないことを少しだけ思い描いた。
それから同時に笑い、同じ時刻に火を入れる約束を、明日の朝へ残した。




