第19話 同じ印章、違う名前
「はい」と、ミレーネは答えていた。
仕事の相談ではない。二人で飯を食いたい。そう言い直したレオルへ、考えをまとめるより先に、返事が出た。
それから、二人で簡単な夕食を取った。
豆と堅いパン、それに白湯。特別な料理はない。エッダの帰った工房で、作業台を挟んで向かい合っただけだった。
それでも、パンを割る音まで、いつもと違って聞こえた。
食事を終えると、ミレーネは空いた椀を重ねた。今夜はここで終わりにしてもよかったが、時刻を決めて引き受けた仕事が一つ残っている。
エッダから預かった、恩給の却下通知だった。
退役兵本人たちが受け取った通知で、照合に使うことと、工房での取り扱いに同意を得てある。持ち主ごとの封筒に、預り日と返却条件が記されていた。
今夜整理するのは一束だけ。決めた鐘までに終わらなければ、明日へ回す。
ミレーネは通知を並べ、受給者名、通知番号、却下日を書き写した。レオルは隣に座り、紙には触れず、目で確かめた名と番号を読み上げる。
ミレーネが書き、復唱する。レオルが原文と照らす。
炉の火は落ちていた。余熱だけが、煉瓦の奥に残っている。昼の槌音が消えた工房では、紙をめくる音と、レオルの低い声がよく響いた。
その声の間隔が、少しずつ遠くなる。
書き写す手が重い。文字の線が、一つだけ長く伸びた。ミレーネは筆を置こうとして、置く前に瞼を閉じていた。
気づくと、頬に粗い布が触れていた。
頭が、レオルの左肩へ預けられている。負傷した右上腕の装着部とは反対側だった。
眠っていたらしい。ほんの短い間だろう。レオルの作業着に残る煤の匂いと、布越しの体温が近い。肩が呼吸に合わせて、ゆっくり上下していた。
レオルは、姿勢を変えていなかった。
腕がなくても、身体をずらすことはできる。声で起こすこともできる。少なくとも、ミレーネが目覚めるまで、その声はかけられなかった。
なぜ動かなかったのかは、ミレーネには分からない。都合よく決めることもできなかった。
ミレーネは、すぐに離れたくないと思った。
あと一息だけ、この体温のそばにいたい。仕事が終わったあとにも、名前を呼ばれたい。今日のように、理由を仕事へ隠さず食事へ誘ってほしい。
その望みを認めるには、二度の呼吸で足りた。
触れていてよいか、まだ尋ねていない。ミレーネは身体を起こした。離れたくないという気持ちまで、なかったことにはしなかった。
「――すみません。眠ってしまって」
「いや。俺も、止める時刻を言うのが遅れた」
レオルは責めず、近さの意味も決めなかった。
匙を作った恩があるからではない。助けるべき相手だからでもない。
橋で限界を越えたことを謝り、次の手順を考えたこと。できない仕事を契約へ書くと選んだこと。粉屋の客を遠ざけず、その人の仕事が進むのを見届けたこと。
そういう選択をするレオルに、ミレーネは惹かれていた。
好きなのだ、と、ようやく分かった。
ミレーネは通知へ向き直った。だが、筆を持つ指は、さっきまでと同じようには動かなかった。
通知を日付順に並べるはずが、名の順へ一枚だけ入れた。書き写す欄も一つずらした。気づいて線を引き、訂正者と時刻を書き添える。
「今夜は、ここまでにします」
声が少し早くなった。
レオルが、残りの通知番号を読み上げる。ミレーネは枚数を確かめ、持ち主ごとの封筒へ戻した。原本には何も書き込まず、訂正したのは工房の照合票だけだった。
欠けも、紛失もない。二人で確認してから、保管箱を閉じた。
翌朝、エッダが通知の束を広げた。
「ちょいと、これを見な」
車輪付きの椅子を作業台へ寄せ、三通の通知を朝の光へ向ける。
「受給者の名前も、住んでいた村も違う」
エッダの指が、最初の通知の印章で止まった。
「だが、この傷は同じだ。印章の外縁、左上。針の先で欠いたような形をしてる」
二通目、三通目にも、同じ位置の欠けがあった。
ミレーネは印章同士を重ねなかった。薄紙へ外縁と傷の位置だけを写し、通知番号を書いて並べる。どの写しも、欠けの角度と長さが重なった。
「同じ傷を持つ印影です」
同じ印章を使ったのか、同じ印影を写したのか。そこまでは、受取人側の通知だけでは決められない。
「それだけじゃないよ」
エッダが、今度は却下日を指した。
名も村も違う申請が、同じ週へ集中している。さらに理由欄には、同じ一文が並んでいた。
『戦闘能力を欠くため、支給対象外と認む』
句読点まで同じだった。
定型文を使うことだけなら、あり得る。日付が近いことだけでも、まとめて審査したと説明できるかもしれない。
だが、同じ印章傷、同じ週、同じ理由文が、異なる受給者の通知へ重なっていた。
ミレーネは新しい照合票を出した。
確認できた事実と、まだ確認できないことを、欄で分ける。
「偽造の疑いはあります。でも、これだけでは決められません」
誰が、何のために行ったかも分からない。ハーゲンや中央の名を、推測で書き足しはしなかった。
「本人たちが受け取った通知と、発行側が保管する原本。それから、申請をいつ、誰が、どう処理したかを記した台帳が要ります」
原本の印章傷は同じか。通知日と処理日は一致するか。理由文は台帳にも同じように記録されているか。
異なる出所の記録を並べなければ、疑いを事実にはできない。
エッダがうなずき、預り記録を開いた。通知番号、持ち主、預り日、照合目的、返却条件を、一通ずつ再確認する。薄紙の写しにも作成者と日付を入れ、原本とは別に綴じた。
「これは、レオル一人の話ではありません」
ミレーネは、異なる名前の並ぶ通知を見渡した。
「同じように恩給を止められた、全員の話です」
レオルに近くいたい気持ちと、この記録を調べる理由を、混ぜてはいけない。彼が工房を去ったとしても、照合は続けるべきだった。
そのとき、エッダが別の綴りを開いた。
労働時間と、装具代の残額を記した相殺帳だった。
「話は変わるが、日付が来たから伝えるよ」
エッダは、残額と明日の仕事札を並べた。
「レオル。明日の労働分で、義手代は完済だ。昨日使った軽量保持具の調整も、前に承認した範囲へ入ってる。勝手に借りを増やしはしない」
明日の記録へ双方が署名すれば、道具代を労働で返すために結んだ契約補助員の契約は終わる。
道具を取り上げる条件はない。工房から追い出す条件もない。ただ、労働でここへ来る約束が、なくなる。
ミレーネの筆が止まった。
注文は幾つもある。新しい仕事を相殺の欄へ書けば、契約を延ばす口実にはできる。
だが、本人が選んでいない借りを増やすことはしなかった。ミレーネは空いた欄へ、何も書かなかった。
レオルの作業台を見る。
自分の台の隣に置いた、二つ目の台。明日の仕事札が、その上で待っている。
明日の労働が終われば、そこが空になるかもしれなかった。




