表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
両腕を失った英雄に「死ぬための剣をくれ」と頼まれた女鍛冶師は、生きるための手を作る  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/54

第19話 同じ印章、違う名前

「はい」と、ミレーネは答えていた。


仕事の相談ではない。二人で飯を食いたい。そう言い直したレオルへ、考えをまとめるより先に、返事が出た。


それから、二人で簡単な夕食を取った。


豆と堅いパン、それに白湯。特別な料理はない。エッダの帰った工房で、作業台を挟んで向かい合っただけだった。


それでも、パンを割る音まで、いつもと違って聞こえた。


食事を終えると、ミレーネは空いた椀を重ねた。今夜はここで終わりにしてもよかったが、時刻を決めて引き受けた仕事が一つ残っている。


エッダから預かった、恩給の却下通知だった。


退役兵本人たちが受け取った通知で、照合に使うことと、工房での取り扱いに同意を得てある。持ち主ごとの封筒に、預り日と返却条件が記されていた。


今夜整理するのは一束だけ。決めた鐘までに終わらなければ、明日へ回す。


ミレーネは通知を並べ、受給者名、通知番号、却下日を書き写した。レオルは隣に座り、紙には触れず、目で確かめた名と番号を読み上げる。


ミレーネが書き、復唱する。レオルが原文と照らす。


炉の火は落ちていた。余熱だけが、煉瓦の奥に残っている。昼の槌音が消えた工房では、紙をめくる音と、レオルの低い声がよく響いた。


その声の間隔が、少しずつ遠くなる。


書き写す手が重い。文字の線が、一つだけ長く伸びた。ミレーネは筆を置こうとして、置く前に瞼を閉じていた。


気づくと、頬に粗い布が触れていた。


頭が、レオルの左肩へ預けられている。負傷した右上腕の装着部とは反対側だった。


眠っていたらしい。ほんの短い間だろう。レオルの作業着に残る煤の匂いと、布越しの体温が近い。肩が呼吸に合わせて、ゆっくり上下していた。


レオルは、姿勢を変えていなかった。


腕がなくても、身体をずらすことはできる。声で起こすこともできる。少なくとも、ミレーネが目覚めるまで、その声はかけられなかった。


なぜ動かなかったのかは、ミレーネには分からない。都合よく決めることもできなかった。


ミレーネは、すぐに離れたくないと思った。


あと一息だけ、この体温のそばにいたい。仕事が終わったあとにも、名前を呼ばれたい。今日のように、理由を仕事へ隠さず食事へ誘ってほしい。


その望みを認めるには、二度の呼吸で足りた。


触れていてよいか、まだ尋ねていない。ミレーネは身体を起こした。離れたくないという気持ちまで、なかったことにはしなかった。


「――すみません。眠ってしまって」


「いや。俺も、止める時刻を言うのが遅れた」


レオルは責めず、近さの意味も決めなかった。


匙を作った恩があるからではない。助けるべき相手だからでもない。


橋で限界を越えたことを謝り、次の手順を考えたこと。できない仕事を契約へ書くと選んだこと。粉屋の客を遠ざけず、その人の仕事が進むのを見届けたこと。


そういう選択をするレオルに、ミレーネは惹かれていた。


好きなのだ、と、ようやく分かった。


ミレーネは通知へ向き直った。だが、筆を持つ指は、さっきまでと同じようには動かなかった。


通知を日付順に並べるはずが、名の順へ一枚だけ入れた。書き写す欄も一つずらした。気づいて線を引き、訂正者と時刻を書き添える。


「今夜は、ここまでにします」


声が少し早くなった。


レオルが、残りの通知番号を読み上げる。ミレーネは枚数を確かめ、持ち主ごとの封筒へ戻した。原本には何も書き込まず、訂正したのは工房の照合票だけだった。


欠けも、紛失もない。二人で確認してから、保管箱を閉じた。




翌朝、エッダが通知の束を広げた。


「ちょいと、これを見な」


車輪付きの椅子を作業台へ寄せ、三通の通知を朝の光へ向ける。


「受給者の名前も、住んでいた村も違う」


エッダの指が、最初の通知の印章で止まった。


「だが、この傷は同じだ。印章の外縁、左上。針の先で欠いたような形をしてる」


二通目、三通目にも、同じ位置の欠けがあった。


ミレーネは印章同士を重ねなかった。薄紙へ外縁と傷の位置だけを写し、通知番号を書いて並べる。どの写しも、欠けの角度と長さが重なった。


「同じ傷を持つ印影です」


同じ印章を使ったのか、同じ印影を写したのか。そこまでは、受取人側の通知だけでは決められない。


「それだけじゃないよ」


エッダが、今度は却下日を指した。


名も村も違う申請が、同じ週へ集中している。さらに理由欄には、同じ一文が並んでいた。


『戦闘能力を欠くため、支給対象外と認む』


句読点まで同じだった。


定型文を使うことだけなら、あり得る。日付が近いことだけでも、まとめて審査したと説明できるかもしれない。


だが、同じ印章傷、同じ週、同じ理由文が、異なる受給者の通知へ重なっていた。


ミレーネは新しい照合票を出した。


確認できた事実と、まだ確認できないことを、欄で分ける。


「偽造の疑いはあります。でも、これだけでは決められません」


誰が、何のために行ったかも分からない。ハーゲンや中央の名を、推測で書き足しはしなかった。


「本人たちが受け取った通知と、発行側が保管する原本。それから、申請をいつ、誰が、どう処理したかを記した台帳が要ります」


原本の印章傷は同じか。通知日と処理日は一致するか。理由文は台帳にも同じように記録されているか。


異なる出所の記録を並べなければ、疑いを事実にはできない。


エッダがうなずき、預り記録を開いた。通知番号、持ち主、預り日、照合目的、返却条件を、一通ずつ再確認する。薄紙の写しにも作成者と日付を入れ、原本とは別に綴じた。


「これは、レオル一人の話ではありません」


ミレーネは、異なる名前の並ぶ通知を見渡した。


「同じように恩給を止められた、全員の話です」


レオルに近くいたい気持ちと、この記録を調べる理由を、混ぜてはいけない。彼が工房を去ったとしても、照合は続けるべきだった。


そのとき、エッダが別の綴りを開いた。


労働時間と、装具代の残額を記した相殺帳だった。


「話は変わるが、日付が来たから伝えるよ」


エッダは、残額と明日の仕事札を並べた。


「レオル。明日の労働分で、義手代は完済だ。昨日使った軽量保持具の調整も、前に承認した範囲へ入ってる。勝手に借りを増やしはしない」


明日の記録へ双方が署名すれば、道具代を労働で返すために結んだ契約補助員の契約は終わる。


道具を取り上げる条件はない。工房から追い出す条件もない。ただ、労働でここへ来る約束が、なくなる。


ミレーネの筆が止まった。


注文は幾つもある。新しい仕事を相殺の欄へ書けば、契約を延ばす口実にはできる。


だが、本人が選んでいない借りを増やすことはしなかった。ミレーネは空いた欄へ、何も書かなかった。


レオルの作業台を見る。


自分の台の隣に置いた、二つ目の台。明日の仕事札が、その上で待っている。


明日の労働が終われば、そこが空になるかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ