第18話 近すぎる火
その男が肩を寄せたとき、レオルの足が、一歩前へ出かけた。
作業台の前で、ミレーネと男が並んでいる。
男は右の膝から下を失っていた。今日は、膝を柔らかな台へ預け、残った左脚で進む小型の運搬台を試している。粉屋の中で、小袋を棚から棚へ運ぶための注文だった。
砂を詰めた試験袋が、低い荷台に三つ載っていた。
男が左脚で床を蹴る。運搬台はまっすぐ進んだ。だが、棚を模した作業架の前で止まり、身体をかがめると、袋が前へ滑った。
「この動きです」
男が腰を曲げる。ミレーネも身体を低くし、肩のそばへ顔を寄せた。
近い、とレオルは思った。
胸の奥がざわついた。足は、考えるより先に動きかけていた。
戦場の警戒に似ている、と名をつけようとした。知らない者が味方へ近づきすぎたときの、あの張りだ。危険があれば、間へ入る。それだけのことだと。
だが、男に敵意はない。
床へ引いた安全線を越えていない。熱い炉へ背を向けず、試験袋より重い物も載せていない。ミレーネへ触れてもいなかった。
「腰の傾きを見ます。背へ触れてもいいですか」
ミレーネが尋ね、男がうなずいた。それから初めて、作業着の背へ指を当てた。
手順も、守られている。
この男を遠ざける理由は、どこにもなかった。
レオルは、前へ出かけた足を元へ戻した。元団長の声で割り込むことも、作業を止める口実を探すこともしなかった。
炉の熱が、いつもより頬へ強く当たる。仕事札へ目をやっても、同じ行を二度読んだ。足の置き場まで、落ち着かなかった。
「片脚で支える間に、荷が前へ流れるのが怖いんですね」
ミレーネは男の背から手を離し、荷台を指した。
「縁を高くすれば、袋は止まります。でも、高すぎれば棚へ移すとき邪魔になる。どのくらいなら越えられますか」
男が試験袋を一つ持ち上げ、仮の木片を越えさせた。
「これより半寸低ければ、持ち上げすぎずに済む」
ミレーネはその数字を記録した。正解を先に決めず、男の仕事の動きから高さを取る。
仮留めした低い縁でもう一度試す。今度は袋が止まった。だが、男が棚へ手を伸ばしたとき、運搬台そのものが半歩ほど前へ動いた。
「荷だけでなく、台も止める必要があります」
「手で止めると、袋を移せない」
「なら、左の踵で踏める位置へ、車輪の留め具を移します。膝を預けたまま届くか、次に確かめましょう」
男は、息を吐いてうなずいた。
「それなら、粉袋を抱えて転ばずに済みそうだ」
完成したふりはしなかった。今日決まったのは、荷台の縁の高さと、留め具を試す位置までだ。ミレーネは変更点と次の試験日を、男の控えと制作帳の双方へ書いた。
レオルは、その姿を見ていた。
匙のときも、扉のときも同じだった。ミレーネは、まず本人が何をしたいかを聞く。失敗を隠さず、使う者の言葉で道具を変える。
その真剣さは、自分だけへ向けられたものではない。目の前の男にも、赤子を抱いた母親にも、ここへ来る誰にでも、同じように差し出される。
それを、妨げたくなかった。
誰にでも向き合う、この人だからこそ、レオルは目を離せないのだと思った。
だが、それとは別の望みが、胸に残っていた。
自分は、ミレーネにとって特別な一人でありたい。
助けた客の一人でも、代金を返す補助員の一人でもなく。仕事が終わったあとにも、選んで名を呼んでほしい。
男を遠ざけたくない気持ちと、自分を特別に見てほしい気持ちは、同じではない。その二つを分けたとき、もう戦場の警戒とは呼べなかった。
俺は、ミレーネに惹かれている。
認めると、胸のざわつきは消えなかった。代わりに、どこから来るのかだけが、はっきりした。
男が次の試験日を確かめて帰ると、ミレーネは仮留めした縁の寸法を測り始めた。
「レオル。手が足りません」
振り向いたミレーネの手には、冷えた細い測り棒があった。
数日前、セシルが右上腕の装着部を診直していた。傷は塞がったが、圧へ慣らすのはこれからだという。保護当てを入れた軽量保持具を短時間だけ。冷えた軽い道具に限り、赤みや痛みが出たら中止する。
熱い工具、重い物、扉用の鉤、救助用の鉤爪は、まだ許されていない。
「許可された範囲で、測り棒だけです。右へ触れて、保持具を付けてもいいですか」
「ああ」
ミレーネは保護当ての位置を確かめ、右上腕へ軽量保持具を巻いた。測り棒を差し、先端が縁の印へ合うよう、角度を少しずつ直す。
「ここで止めます。肩を張りすぎないでください」
レオルは、目で棒の先を追った。触覚はない。肩と呼吸で位置を保ち、ずれは印との間隔で知るしかない。
ミレーネが、棒の反対側へ顔を寄せた。
編んだ灰みの栗色の髪。煤の付いた指。紙と棒の間で、彼女の呼吸が、レオルのすぐ前にあった。
近かった。
先ほどとは違い、なぜ胸が騒ぐのかを、もう知っていた。
息を止めれば肩が固くなる。深く吐けば棒が動く。レオルは短く静かな呼吸を選び、印から目を離さなかった。
ミレーネの仕事を乱したくない。それでも、離れてほしくない。
相反する二つを抱えたまま、測り棒を支えた。
「決まりました」
ミレーネが紙へ寸法を書き、顔を上げた。近かった呼吸が離れる。
「ありがとうございます。助かりました」
「赤みを見ます。外してもいいですか」
レオルがうなずくと、ミレーネは保持具を外した。装着部に傷や強い赤みがないことを二人で確かめ、使用時間も記録した。
レオルは、残った仕事を最後まで乱さなかった。仕事札を読み上げ、冷えた部品の数を確かめ、終業の鐘で炉の周りに人がいないことを確認した。
やがて炉の火が落ちた。エッダは帳簿を締め、明日の受付票を揃えると、先に帰っていった。
工房に、二人だけが残った。
「ミレーネ」
レオルは呼んだ。
「今夜、飯を――」
言いかけて、仕事の相談へ逃がしそうになった。運搬台の留め具について話したい、と続ければいい。そうすれば、断られても仕事上の都合で済ませられる。
だが、それは、いま伝えたいことではなかった。
「いや。仕事の相談じゃない」
ミレーネが、帳面から顔を上げた。
「ただ、ミレーネと飯を食いたい。二人で。それだけだ」
言い終えると、自分の呼吸が浅いことに気づいた。橋の綱を握ったときとも、人前で証言したときとも違う緊張だった。
琥珀色の目が、こちらを見ている。何を考えているか、レオルには読めない。都合のよい答えを、勝手に見つけることもできなかった。
炉の余熱が、二人の間で低く揺れていた。
レオルは動かず、ミレーネの返事を待った。




