第17話 戦えない道具
「赤ちゃんを、落とすのが怖いんです」
母親は、小さな声で言った。
左上腕の半ばから先がない。公開試験で匙保持具を使った母親だった。今日は、生まれて間もない赤子を、残った右腕だけで抱いている。
赤子の重みで右腕が震え、頭が肘の内側から少しずつ下がっていた。
「あの匙で、自分で食べられました。だから今度は、この子を安心して抱く方法がないかと思って」
ミレーネは、まず低い椅子を勧めた。母親が座り、赤子の頭を支え直すのを待ってから尋ねる。
「義手で赤ちゃんを握るものは、作りません」
赤子は滑り、動き、泣いて身体を反らす。触覚のない金具で挟むことは、安全から遠かった。
「腕の代わりに、身体へ重さを分けます」
幅広の布を、母親の前へ置いた。
肩、背中、腰へ回す抱っこ帯。赤子の背と腰を布で包み、頭と首を別の当てで支える。金具は赤子へ触れない外側へ置く。
「それと、装着するときの固定台です」
腰の高さの台へ、浅い受けを付ける。柔らかな布を張り、赤子を仰向けに寝かせたとき、頭と首が傾かない形にした。
「置き去りにする台ではありません。帯の位置を直し、残った手を留め具へ回す短い間だけ、身体を支えます」
片手用の留め具は、一度押してから横へ滑らせる。二つの動きを順に行わなければ開かず、帯を引いただけでは外れない。
最初から赤子では試さなかった。
同じ重さの砂を布袋へ入れる。帯へ収め、母親自身に身につけてもらった。
「肩と背中へ触れます。帯のねじれを見てもいいですか」
許可を得てから、布の位置だけを直す。締める前にも、どこへ力がかかるか伝えた。
「胸が苦しいです」
母親の言葉で、一度外した。背の帯を一寸下げ、腰側へ荷重を移す。
「今度は、袋が低すぎます。顔を見るつもりだと、首を曲げないといけない」
前側の布を短くする。
見える高さ、呼吸のしやすさ、肩へ食い込まない位置を、母親の言葉で決めていった。
片手で留め、片手で外す。金具が途中で止まった場合の緊急解除も三度試した。布袋を入れたまま座る、立つ、半歩屈む。
母親が固定台から布袋を帯へ移そうとすると、内側の布が丸まった。右手は布袋を支えており、折れた部分を広げられない。
「ここは、一人では直せません」
母親は無理に続けず、布袋を台へ戻した。
ミレーネは、赤子へ触れない帯の外縁へ、薄い革の案内輪を縫い付けた。右手の指を輪へ入れて引けば、丸まった布だけを広げられる。硬い端は布で二重に包み、肌側へ出ない。
もう一度、固定台から移す。今度は母親が右手だけで布を開き、袋を身体の中央へ収められた。
「これなら、自分で始められます」
使っている途中だけでなく、使い始める動作にも道具が要る。その変更も、制作記録へ加えた。
「次は、家の中の動きを見ます」
レオルとリタが、模擬の動線を作った。
レオルの右上腕には、保護の当てと簡易固定具しかない。物を運ばず、扉、机、水差し、休む椅子の順を、声と床札で組み立てた。
「机の角を広く避ける。水差しを持つ前に、ここで一度立ち止まる。苦しければ、すぐ椅子へ戻る」
リタは弁償雑用の範囲で、空の籠、軽い台、冷たい水を半分入れた水差しを運んだ。炉、刃物、熱い物から離れた場所だけを使う。
エッダは、今日の一刻と、弁償の残り時間を帳面へ記した。リタはまだ見習いではない。
母親が布袋を帯へ入れ、動線を歩く。
扉を抜け、机の角を回り、水差しの前で止まった。右手は空いている。だが、机を避けたとき、袋が少し横へずれた。
「腰の帯を、もう少し動かないようにしたいです」
母親の希望で、腰側へ滑り止めの布を足す。もう一度歩くと、袋は身体の中央へ残った。
「赤ちゃんで試しますか。それとも、今日はここまでにしますか」
「座ったまま、試したいです」
母親が選んだ。
固定台へ赤子を仰向けに寝かせる。ミレーネは頭と首、背、腰が支えられていることを確かめた。顔を覆う布はない。顎が胸へ押しつかず、呼吸が見える。
「帯へ入れます。続けていいですか」
「お願いします」
母親は右手で金具を留めた。赤子の頭は首当てへ収まり、顔は母親から見える位置にある。
まず座ったまま、短い時間。赤子の呼吸、母親の肩と腰、帯の食い込みを確かめる。
「続けます」
母親は自分で決め、ゆっくり立った。
動線を一度歩き、休む椅子へ戻る。異常がないことを確かめたあと、二度目に水差しを持った。
赤子を帯で抱いたまま、冷たい水を半分入れた差しを、机まで運ぶ。
右腕は、赤子と水差しの重さを一緒に受けていない。赤子の重さは肩、背、腰へ分かれ、水差しだけを右手が持っている。
机へ置くまで、帯はずれなかった。
母親が赤子の顔を覗き込む。赤子は目を閉じ、小さく息をしていた。
「この子を抱いて、水を運べました」
声が震えていた。水差しを置くまで、右腕の震えは先ほどより小さかった。
ミレーネは、帯の縫い目と、赤子の呼吸を見た。
刃も、打撃面もない。人を傷つけるための動きは、一つも付いていない。
戦えない道具だった。
その言葉を、価値が低いという意味で使わなくてよいのだと思った。赤子を落とさず、母親の右手を暮らしへ戻す。そのために作る理由が、目の前にあった。
「最初は短い時間だけ使ってください」
ミレーネは使用記録へ書く。
「肩や腰の痛み、皮膚の赤み、息苦しさ、赤ちゃんの顔が見えない位置になったら、すぐ外します。糸のほつれや金具の緩みも、使うのを止める合図です」
赤子は成長する。重さと身体の位置が変われば、帯も再調整が要る。勝手に縫い縮めず、工房へ持ち込むことにした。
製品番号、工房の連絡先、初回点検日、使用中止条件を、母親用と工房用の控えへ書く。
支払いは、見積もりをもう一度確認したうえで、母親が分割払いを選んだ。訓練と初回点検の費用も、最初から明細へ入っている。
帰り際、母親は扉の前で振り返った。
「次は、この子と一緒にパンを焼きたいんです。もう少し大きくなったら、そばで見てもらいながら、私の右手で粉をこねたい」
失った腕を元へ戻す望みではなかった。これから、子どもとしたいことだった。
「そのときは、竈から離れた位置へ子どもの場所を作って、鉢を動かないようにする道具を考えましょう」
母親は赤子を帯で抱き、空いた右手で扉を開けた。
朝の光の中へ、新しい望みを連れて出ていった。




