第12話 英雄ではなく救助員
北の橋は、中央の橋板が落ちていた。
荷馬車は崩れた箇所の手前で傾いている。右の前輪が縁から半分はみ出し、川側へ沈むたびに、橋台の土がこぼれた。
荷台には御者と、小さな子どもが一人いる。馬は切れた引き綱を残し、姿を消していた。
「動かないでください!」
ミレーネは橋の手前から叫んだ。
子どもが身じろぎすると、荷台が軋んだ。前輪の下で、乾いた土がまた川へ落ちる。
知らせに来た男がロープと鉄杭を運び、もう一人の村人が槌を抱えてきた。ミレーネは組みかけの救助用鉤爪を持ち、レオルと並んで橋の縁を見た。
工房を出る前、エッダは別の者を警備隊の詰所と診療小屋へ走らせている。だが、ラウラの警備隊が到着するには、まだ鐘一つ分はかかるという。
「あの車輪は、あと鐘一つも待ちません」
橋板の継ぎ目が、一枚ずつ浮いている。荷を縛る綱も切れかけ、箱が川側へ寄っていた。
「鉤爪を使う」
レオルが言った。
「主綱を杭へ通し、俺の鉤で案内綱の向きを保つ。村の人に引いてもらえば、二人をこちらへ移せる」
「まだ、荷重試験をしていません」
「分かっている。だが、待てば荷馬車ごと落ちる」
完成品ではない。装着部が耐えられる角度も、離脱に必要な時間も測っていない。
それでも、何も決めずに使うより、いま決められる条件を作るしかなかった。
「使うなら、役割と中止条件を先に決めます」
ミレーネはレオルの正面へ立った。
「右上腕と肩帯へ触れます。鉤爪を付けてもいいですか」
「頼む」
軽い物の保持具を外し、右上腕の帯金へ鉤爪の基部を嵌める。胸背の肩帯へ補助革を回し、力が一点へ集まらないよう二か所へ逃がした。
レオルに鉤の触覚はない。目で案内綱を追い、肩と胴の向きで角度を保つ必要がある。
「人の重さは引かないでください」
ミレーネは橋から離れた固い地面へ、鉄杭を二本打たせた。主綱を杭の環へ通し、村人四人を引き手に置く。
「主な荷重は杭と引き手が受けます。あなたの鉤は、主綱へ結んだ案内綱が橋の縁に擦れないよう、向きを保つだけです」
肩帯の留め金へ、白墨で線を引いた。
「留め金がこの線を越えたら中止です。痛み、圧迫、肩の動かしにくさのどれかが出たときも止める。私が『止め』と言ったら、身体を右へ捻って案内綱を鉤から外してください」
「外れなければ」
「左へ一歩下がる。補助革が抜けます。私と、そこの二人が離脱を助けます」
レオルは手順を言い直した。ミレーネが、抜けているところはないとうなずく。
救う順番は、子ども、御者。荷と荷馬車は捨てる。
「聞こえるか!」
レオルの声が橋を渡った。
「御者は子どもの胸と腰へ綱を回せ。結び目は身体の横だ。荷台から降ろすときは、こちらの合図まで動かすな」
命令のための声ではなかった。怯えた人へ、次にする一つだけを届ける声だった。
御者が子どもへ綱を回す。震える指で二度失敗し、三度目に結び目ができた。
「主綱、張れ。まだ引くな」
村人が綱を張る。レオルは右肩をゆっくり動かし、鉤爪へ案内綱を掛けた。
「三つで引く。一、二、三」
子どもの身体が、荷台から浮いた。
主綱の力は杭へ流れている。レオルの鉤爪は案内綱を橋板から離し、子どもが崩れた縁へぶつからない角度を保った。
引き手が一歩ずつ下がる。ミレーネは肩帯の白線と、レオルの呼吸を交互に見た。
子どもの靴が橋板を擦り、こちら側の土へ届く。
ミレーネが腰を抱えて引き寄せた。子どもは咳き込みながらも、自分で地面へ座った。
「次は御者だ」
レオルは声を荒らげなかった。
御者が自分の胸と腰へ綱を回す。大人一人分の重さで主綱が張り、二本の杭が低く軋んだ。
「引き手を二人増やします」
ミレーネは見守っていた男たちを加えた。人数を増やし、一人が受ける力を減らす。
「一、二、三」
御者が荷台の端へにじり寄る。主綱が杭の環を滑り、案内綱がレオルの鉤爪を引いた。
留め金は、まだ白線の内側だった。
御者の脚が橋板へ届く。そのとき、荷馬車の前輪が崩れた縁から外れた。
車体が川側へ沈み、切れかけていた荷綱が弾ける。箱の角が主綱を横から打った。
主綱が跳ね、案内綱へ強い力が移る。
肩帯の留め金が、白線を一息に越えた。
「止め!」
ミレーネは叫んだ。
レオルが身体を捻りかける。だが、御者は崩れた縁を越える途中で、案内綱を外せば橋桁へ振られる位置にいた。
レオルは外さなかった。
「引け! あと一歩だ!」
六人が綱を引く。御者の身体が土の上へ転がった。
同時に、レオルの肩帯が激しく軋んだ。補助革が一段ずれ、右上腕の帯金が装着部へ食い込む。
ミレーネが補助革を抜いた。案内綱が鉤から外れ、レオルの身体が後ろへよろめく。
レオルは片膝をついた。右側をかばうように背を丸め、短い息を繰り返している。
御者も、子どもも助かった。
その事実と、レオルが中止条件を越えた事実は、別々に残った。
ラウラの警備隊が到着したのは、その直後だった。
隊員たちは残った荷を切り離し、橋の両端を封鎖した。診療小屋へ走った者と一緒に、細身の女も来ていた。
「セシル・ノアです。以前、従軍治療師をしていました」
女はレオルの前へ膝をついた。右上腕の帯金を見たとき、両手の指先が一度だけ震えた。
セシルは両手を膝へ置き、息を整える。それから、手順を一つずつ口にした。
「肩帯を外し、皮膚と肩の動きを確認します。触れてもいいですか」
レオルがうなずいた。
セシルは補助革、胸背の肩帯、右上腕の帯金の順に外した。赤く腫れた装着部の一部は、革に擦られて皮膚が破れている。
「痛みは、どこからどこまでありますか」
「上腕の外側から、肩の前だ」
「では、動かす前に止めます。痺れや、熱い感じはありますか」
答えを聞いてから、セシルは右肩をどこまでなら動かせるか尋ねた。レオルはわずかに動かし、顔をしかめる前に止めた。
「それ以上は要りません」
セシルは冷やした布を当て、傷へ清潔な布を重ねた。
「骨が折れた様子はありません。ただ、圧迫と擦れで炎症が出ています。少なくとも数日は、右の装着部へ何も付けないでください。保持具も、扉の鉤も、救助用の鉤爪もです」
「公開試験がある」
「試験の日に使えるかは、今日決めません」
セシルの声は静かだった。
「毎日、腫れと傷を確認します。使えることにして身体を合わせるのではなく、身体の状態を見て、使うか決めます」
工房へ戻ったあとも、処置は続いた。
レオルは装具を外したまま、低い椅子へ座っている。右上腕の傷には布が巻かれ、肩を動かさずに済むよう身体の横へ当てが置かれた。
ミレーネは、その姿の前へ立った。
「レオル。二人が助かって、よかったです」
安堵を、先に言葉にした。
「でも、私は『止め』と言いました。あなたは外さなかった」
喉が詰まりそうになる。ミレーネは一度息を吸い、怒りを安堵へ混ぜなかった。
「救えたから、あなたの傷をなかったことにはしません。肩を傷めても人を救ったことを、英雄だからと褒めるつもりもありません」
レオルは視線を伏せた。
「すまない。止めを聞いた時点で、外すべきだった」
「謝罪だけなら、記録になりません」
「ああ。次を変える」
レオルは顔を上げた。
「荷重を事前に測る。中止角度は数字と目印の両方で決める。合図から離脱まで、訓練して時間を測る。案内綱へ急な力が移ったときは、俺が残らなくても向きを保てる補助環を付ける」
一つずつ、ミレーネが帳面へ書いた。
「装着前と救助後に、身体を確認する人も要る。俺が大丈夫だと言うだけで、続けない」
成功、負傷、原因、中止条件への違反、村人六人の協力。ミレーネは、都合の悪いことも消さずに記録した。
役割欄には、「指揮・案内綱の保持」と書く。その横で一度筆を止め、「救助員――レオル」と加えた。
昔の階級でも、英雄の称号でもない。今日、誰と何をしたかを示す役割だった。
セシルは、布の上へ外した装具を用途別に並べた。
「道具だけ作っても、身体を診る人がいなければ続きません」




