第11話 食事を忘れる鍛冶師
昼鐘が鳴った。
ミレーネは顔を上げなかった。
作業台も床も、制作記録で埋まっている。私費で買った鉄と革の票。失敗した試作品の記録。鍬の添え金や扉の鉤に使った材料の控え。
査察から三日が過ぎ、公開試験まで七日だった。
「鍬は作業用。扉の鉤は生活用。失敗記録も、用途ごとに分ける」
ミレーネは紙束へ札を挟んだ。武器を作ろうとした記録は一枚もない。あるのは、食べること、出入りすること、畑の道具を直すこと。そのために試し、失敗し、直した跡だった。
異議申立書と設計図の写しは、すでに管理局へ出している。いま作っているのは、公開試験の場で民間用途を示すための証拠束だった。
紙の端を揃えようとして、左手の火傷が引きつれた。ミレーネは指を開き、また次の票へ手を伸ばす。
「ミレーネ」
呼ばれても、購入日の違う票を分け続けた。
「昼だ」
目の前へ、黒パンが差し出された。
レオルの右上腕には、短い保持具が付いている。査察の翌日、エッダが材料費と工賃の見積票を読み上げ、レオルが承認した試作品だった。
扉用の鉤と付け替え、軽い物だけを挟める。指はなく、触覚もない。肩と呼吸で角度を変えるため、まだ訓練中だった。
パンを挟んだのはエッダだ。それを隠さず、レオルはミレーネの前まで運んできた。
「昼鐘まで、何も食べていない」
「この束を分けたら食べます」
「規則九は、紙を分け終えた者だけが守る決まりか」
戸口の規則札には、エッダの字で「職人も休む」とある。あれを提案したのは、レオルだった。
「俺に痛みや眩暈を隠すなと言うなら、ミレーネも空腹を隠さないでくれ」
命令ではなかった。レオルはパンを押しつけず、保持具を同じ位置で止めている。受け取るかどうかを、ミレーネへ残したままだった。
ミレーネは両手を紙から離した。
保持具を安定させるため、レオルは身体ごと近づいている。炉の余熱が二人の間にたまり、金具の縁が鈍く光っていた。
ミレーネがパンの端をつまむ。冷たい当て金が、指先のすぐそばにあった。レオルの肩が、重さを失った分だけわずかに下がる。
「ありがとうございます」
受け取ったあとも、指先に距離の近さが残った。
レオルもすぐには離れなかった。灰緑の目が、パンからミレーネの顔へ上がる。目が合うと、二人とも作業台の紙へ視線を戻した。
「食べながらでいい。聞いておくれ」
エッダが車輪付きの作業椅子を寄せた。膝の上には、私費購入票の束が載っている。
「これで分かるのは、誰の金で材料を買ったかまでだ」
エッダは鉄材の購入票を一枚抜いた。
「その鉄を誰へ渡し、何に使っているか。この票だけじゃ、そこまで分からない。ハーゲンなら、私費で軍務技術を作っただけだと言うよ」
ミレーネはパンをかじった。空腹は、一口食べてから急に形を持った。
「材料の出所と、道具の行き先は別の記録ですか」
「そうさ。違う出所の記録を、同じ品へ結びつける」
エッダは空の用紙を示した。品名、受領日、現在の用途、受領者の署名。その四欄が引かれている。
「鍬の添え金なら、受け取った農家に書いてもらう。曲がり釘や農具の修理も同じだ。工房の控えと、使っている本人の記録が合えば、一枚の購入票より強くなる」
生活用の器具には、レオルの契約書と制作記録がある。エッダの作業椅子にも、交換した労働の記録と本人の署名を添えられる。だが、作業用の鍬は、注文主の欄が「北畑の農家」としかなかった。
エッダが、購入票、制作帳、納品日の仕事札を一組だけ出した。制作帳には刃幅と添え金の継ぎ目も残っている。
「本人の鍬と照合します。品物、制作記録、本人の用途。その三つを同じ番号で結びます」
「日付は、本人の記憶だけに頼るんじゃないよ」
仕事札の日付を本人へ示し、思い出せなければ推測せず、不明と残すことにした。
「私が客の家を回ります」
「俺も行く」
レオルは言ったあと、保持具へ目を落とした。
「紙は運べない。知らない家の扉も、俺の鉤では開けられない。だが、用途を読み上げ、本人の答えを聞くことはできる」
できないことまで、できる顔はしなかった。
「では、二人で回りましょう」
ミレーネは役割を帳面へ書く。
「私が用紙を持ち、受領品と日付を照合します。レオルは用途を本人へ尋ね、回答の立会人になる。エッダは工房で、戻った署名と購入票を品ごとに綴じる」
「署名できない人には、代筆者と立会人を別にするよ」
エッダが書き足した。
三人の仕事が、紙の上で分かれた。
ミレーネは残りのパンも食べた。最後の一口を飲み込んでから、試験で使う道具の札を三枚並べる。
「生活、作業、救助」
生活には、匙保持具、扉の鉤、軽い物の保持具。作業には、ふいごと、修理した農具を置く。
三枚目の前で、指が止まった。
「救助は、まだ記録がありません」
「なら、試験のためだけの見世物にはできないね」
エッダの言葉に、ミレーネはうなずいた。
工房の壁には、井戸や荷崩れに備えて描いた救助用鉤爪の下図がある。ロープの向きを鉤で変え、人の重さは地面の杭と複数人で受ける。装着者一人へ荷重を預けない設計だった。
試作の鉤爪とロープは、作業架の上に組みかけで置かれている。装着部の許容角度も、離脱の手順も、まだ試していない。
「救助用は、完成したふりをしません」
ミレーネは失敗記録の新しい頁を開いた。
「荷重を受ける杭、ロープを引く人、鉤で向きを保つ人。それぞれの役割と、中止する角度を決めます。試験で示すのは、戦う力ではありません」
レオルが三枚の札を見た。
「生活し、働き、誰かを助けるための道具か」
「ええ。あなた一人を見世物にもしません。使う人と、支える人と、記録を取る人まで含めて示します」
役に立てば国のものだという問いへ、戦える身体で答える必要はない。誰が選び、何に使い、誰と支える道具なのか。その全部を、記録と実演で示せばいい。
三人で、七日分の仕事を割り振った。
そのとき、工房の扉が激しく叩かれた。
村の男が、息を切らして立っていた。
「北の橋へ向かった荷馬車が、まだ戻らない。昼過ぎには着くはずだったんだ」




