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9/22

瑞沢義姉弟

洗面所には、まだ夜の冷気がわずかに澱のように残っていた。


窓の外では夜明けの光が世界の輪郭をゆっくりと塗り替え始めているにもかかわらず、その白く薄い明るさは部屋の隅々まで届くことはなく、鏡の縁や壁際には、まるで闇そのものが名残を惜しむように静かな影を張りつかせている。


優心はゆっくりと洗面台へ歩み寄ると、白い陶器の縁へ両手を預けるように置き、ほんの僅かに身体を前へ倒しながら静かに息を吐き出した。


鏡の中には、自分自身が立っていた。


毎朝見慣れているはずの顔。


しかし、その瞳の奥に宿るものだけは、未だに見慣れることができない。


あの夜を境に、自分という存在の内側へ、何か人間ではない異質な気配が沈み込み、それが時折、水底から泡のようにして浮かび上がってくる感覚に襲われるからだ。


そして、無意識だった。


視線は自然と首元へ落ちる。


首元から、わずかに覗く包帯。


制服の襟元に隠しきれない白が、やけに浮いて見えた。


包帯の下に眠っているものを、優心は知っている。


それは、あの日までは存在しなかった痣である。


皮膚へ刻み込まれた黒い紋様は、生き物の血管にも、大樹の根にも、あるいは夜空に浮かぶ星々を結ぶ不可解な星図にも似た形状をしており、その輪郭は人間という生物が本来持つべき法則から僅かに逸脱していた。


時折、その痣を見つめているだけで、そこには存在しないはずの潮騒が耳の奥で微かに響くことがある。


誰もいないはずなのに、海の底から何者かがこちらを見上げているような錯覚に襲われることもある。


触れれば冷たいはずなのに、指先へ伝わる感覚だけは奇妙な熱を帯びており、それは皮膚の表面ではなく、もっと深い場所─────肉でも骨でも魂でもない、人間という存在のさらに奥底で脈動しているように思えた。


(・・・本当に、ただの火傷なのか?)


その問いは、ここ最近になって何度も胸の奥を巡るようになっていた。


なぜなら、その痣はあまりにも不自然だった。


形も、色も─────いや、存在そのものが。


まるで、自分の持ち物と示すべく、直接刻み込まれた「印」であるかのように。


だからこそ優心は、毎朝欠かすことなく包帯を巻く。


丁寧に、慎重に。


一周、また一周と布を首へ重ねながら、その白さの下へ自分だけの秘密を押し込めるように。


誰にも見られないために。


誰にも知られないために。


だが、その努力とは裏腹に、学校という場所は秘密を許してくれるほど静かな世界ではなかった。


「おい瑞沢、またそれかよ」


「なにそれ、かっけぇじゃん。厨二全開じゃん」


「もしかして能力でも封印してんの?」


そんな軽口が、教室では当たり前のように飛んでくる。


笑い混じりの声。


悪意があるわけではない、と優心だけは思っている。


ただ何も知らないだけ、だと。


あの夜に何が起きたのかも、自分の身体へ何が残されたのかも、そしてこの世界の常識では測れない何かが、人知れず現実の裏側で蠢いているという事実さえも。


だから怒る理由などない。


そう何度も自分へ言い聞かせてきた。


だがそれでも、包帯へ視線が集まるたび、胸の奥へ細く鋭い棘が静かに沈み込んでいく感覚だけは、どうしても消えてくれなかった。


(・・・別に、気にしてないけどな)


そう思う一方で、指先はいつの間にか包帯へ触れていた。


布越しに伝わる僅かな温もり。


その感触と同時に、記憶の底で閉ざされていた扉が、音もなくゆっくりと開いていく。


思い出すのは義父となった男との、あの日のやり取り。


まだ、この傷の意味も、自分の立場も、何もかも曖昧だった頃の記憶だ。



「優心、いいかい?」


その声は、決して大きくはなかったが、まだ小学生な優心にふざけた言葉を重ねさせない状況を作り出すだけの、静かな重みを確かに帯びていた。


瑞沢誇大は、いつものように穏やかな表情を浮かべていたし、声色も決して荒げてはいなかったけれど、それでもその眼差しの奥には、子供相手だからといって誤魔化すことを選ばない大人だけが持つ、奇妙なほど鋭い真剣さが宿っていた。


「優心の体に巻かれている包帯は、これから毎日、必ず巻き直すように。朝起きたら新しいものに替える。汗をかいたり、汚れたりしたらその都度替える。面倒だと思っても、これだけは絶対に怠ってはいけない」


「えー、毎日?」


まだ子供だった優心にとって、それはあまりにも面倒な命令にしか聞こえなかったため、彼は思わず顔をしかめながら、椅子の上で小さく身体を揺らした。


「だってさ、包帯って巻くの結構時間かかるし、ちょっと動くとずれるし、暑い時は蒸れるし、寝る時もなんか変な感じするし・・・一日くらいサボっても、別に大丈夫なんじゃないか?」


軽く言ったつもりだった。


子供らしい、ただの不満だった。


だが、誇大はその言葉を聞いた瞬間、ほんの僅かに眉を動かし、それからゆっくりと首を横に振った。


「ダメだ。絶対に、だ」


その短い否定には、優心がそれまで聞いたことのない硬さがあった。


優心は思わず口を閉じる。


誇大は、決して怒鳴らない人間だった。


どれほど優心がわがままを言っても、どれほど子供らしく拗ねても、彼は一度言葉を飲み込み、それから分かるように説明してくれる人だったからこそ、その一言が持つ異様な強さは、幼い優心の胸へ小さな恐怖にも似た感覚を残した。


「・・・そんなに、ダメなの?」


「ああ。そんなにダメだ」


誇大は静かに頷き、それから優心の首元へ視線を落とした。


そこには、白い包帯が巻かれている。


事故の後、あるいは災害の後、医者や大人たちからは何度も「火傷の跡」だと説明されたが、優心にはその言葉がどこか遠く、薄い布の向こう側で響いているようにしか感じられなかった。


火傷。


傷跡。


大きな事故に遭った子供へ、大人が与えるには都合のいい言葉。


けれど、包帯の下にあるものを実際に見た時、幼い優心でさえ、それがただの火傷と呼ぶにはあまりにも奇妙な形をしていることを、ぼんやりと理解していた。


「かなり酷い火傷の跡らしくてね。見た目もそうだが・・・何より、あまり他人に見せて気分の良いものじゃない」


誇大はそこで一度言葉を切り、まるで自分がこれから口にしようとしていることが、優心を傷つける可能性まで考えているように、ほんの僅かに視線を伏せた。


「それに」


再び顔を上げた誇大の目は、真っ直ぐに優心を見つめていた。


逃がさないように。


しかし、優心を責めるためではない。


「優心も、自分の傷のことで誰かにからかわれたり、面白半分に見られたりするのは、嫌だろう?」


その問いかけに、優心はすぐには答えられなかった。


嫌だ。


その一言を口にするだけなら簡単だったはずなのに、それを認めてしまえば、自分が傷ついていることまで認めることになる気がして、幼い彼は唇を結び、視線を床へ落とした。


「・・・別に、そんなの気にしないし」


「本当に?」


「・・・まぁ・・・ちょっとは、嫌だけど」


最後の方は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。


誇大は、その弱々しい強がりを笑うこともなく、哀れむこともなく、ただ静かに受け止めた。


「なら、覚えておきなさい。これはただ傷を隠すためだけの包帯じゃない。君が余計な目に晒されずに済むためのものでもあり、君自身の心を守るためのものでもある」


「心を?」


「ああ。人は、自分では大丈夫だと思っていても、何度も同じ場所を突かれれば痛むものなんだよ。傷は皮膚にだけ残るわけじゃない。言葉や視線でも、人はちゃんと傷つく」


誇大の声は静かだった。


だが、その言葉は不思議なほど重く、優心の小さな胸の奥へ、ゆっくりと沈んでいった。


「だから、優心。面倒でも巻きなさい。嫌になっても巻きなさい。誰かに何かを聞かれても、無理に説明しなくていい。ただ、これは必要なものなのだと、自分で決めて身につけていなさい」


「・・・それって、ずっと?」


「少なくとも、君が自分で外していいと思える日が来るまでは」


「そんな日、来るのかな」


「来るかもしれないし、来ないかもしれない」


「何んだよそれ?大人ってそういう曖昧な言い方ばっかりするよな」


「曖昧なことを、曖昧なまま抱えて生きるのも、大人の仕事だからね」


その言い方が少しだけ可笑しくて、優心は拗ねたように唇を尖らせながらも、小さく息を吐いた。


「・・・わかった」


しぶしぶではあった。


だが、完全に納得していなかったわけではない。


「誇大がそこまで言うなら、ちゃんと巻く。毎日、忘れないようにする」


その言葉を聞いた誇大は、ほんの僅かに口元を緩めた。


安心したように。


救われたように。


けれど、その笑みの奥には、幼い優心にはまだ読み取ることのできない影が確かにあった。



鏡の前に立つ現在の優心は、包帯の端を指先で摘み、ゆっくりと位置を整えた。


あの頃は、誇大の言葉をただ「傷を隠すための忠告」だと思っていた。


だが今なら分かる。


あの言葉の裏側には、優心が知らされていなかった何かが、確かに隠されていたのだと。


包帯の下にあるものを、優心は誰よりも知っている。


それは、あの夜の名残だった。


そしてそれはきっと、まだ終わっていない。


人間の言葉ではない何かが、夢の底で自分の名を呼ぶような感覚を覚える度に、むしろ、それは始まりに過ぎなかったのではないか、と考える。


そしてそう考える度に、包帯の下に隠された痣が、皮膚の奥で微かに疼くような気がした。



包丁が、まな板を叩く。


トン、トン、トン───と、一定のリズムを刻むその音が、まだ完全には目覚めきらない朝の台所に、静かに、しかし確かに響いていた。


外は薄暗い。


カーテンの隙間から差し込む光は弱く、夜の名残を色濃く引きずっている。


肌に触れる空気はひんやりとしていて、吐く息がわずかに白く見える気さえした。


日が経つにつれて、確実に変化していく朝の寒さと、この時間帯特有の薄暗さ。それは、冬という季節がすぐそこまで来ていることを、否応なしに実感させるものだった。


そして優心は、この時間が嫌いではなかった。


むしろ少しだけ好きで、街も、人も、学校も、まだ完全には動き出していないこの僅かな時間帯だけは、世界が一枚の薄い膜に包まれているようで、どこか現実感が希薄になり、その希薄さは優心にとって不気味であると同時に、奇妙な安らぎでもあった。


だが、その静寂に日常のリズムを与えているのは優心ではなかった。


「・・・うん、今日の豆腐は崩れにくくていいですね。昨日のは少し柔らかすぎて、味噌汁に入れる前から自壊しかけてましたし」


小さく呟く声と共に、手際よく刻まれたネギがまな板の端へ寄せられた。


次いで、白い豆腐が包丁の刃によって整然と切り分けられていく中、エプロンを身につけ、長い髪は邪魔にならないよう軽くまとめられており、迷いのない動きで朝食の支度を進めているその人物は、優心の義理の姉であり、この春から優心と二人暮らしを始めている同居人─────瑞沢寧(みずさわねい)だった。


寧の所作には無駄がなく、豆腐を切る角度も、鍋へ具材を入れる順序も、味噌を溶かすタイミングも、米の蒸らし具合を確認する仕草も、そのすべてが日々の積み重ねによって磨かれたものであり、台所という狭い空間の中において、彼女はまるで自分だけの小さな神域を管理する巫女のように振る舞っていた。


そんな朝の光景を、優心はダイニングテーブルの椅子に座りながら、半分眠った頭でぼんやりと眺めていた。


「・・・今日も、やること早いな。俺が起きた時には、もう味噌汁が完成しかけてる」


寧は振り向かず、ただ鍋の中を確認しながら、いつもの淡々とした声で答える。


「いいえ、特別早くはありません。朝は時間との勝負ですから、起きてから何をするか考えている時点で負けなのです。起きる前から、今日の動きは大体決まっていなければなりません」


「味噌汁作ってるだけなんだけどな」


「味噌汁を侮る人間は、いずれ人生の段取りでも失敗します」


「味噌汁に背負わせるものが重すぎる」


 そこで寧は一度だけ包丁を止め、肩越しにちらりと優心を見た。


「優くんこそ、もうちょっと早く起きたらどうですか?ギリギリすぎるのです、毎回」


「いや、ちゃんと間に合ってるよ」


「“間に合ってる”じゃなくて、“余裕を持つ”のです。社会に出たら、その甘さで苦労しますよ?」


「まだ高校生なんだけど俺」


「その“まだ”という感覚が危ないと言っているのです。高校生だから許される、学生だから大丈夫、そうやって自分に猶予を与え続ける人間ほど、気づいた時には取り返しのつかない場所まで流されています」


「朝食中に人生論を展開するなって。重いんだよ、話が」


「優くんが軽すぎるのです」


「はいはい、優等生は言うことが違いますね」


優心が半ば降参するようにそう言うと、寧は鍋の火加減を調整しながら、少しだけ目を細めた。


「何ですか、それは。嫌味ですか?」


「褒めてるんだよ。一応」


「一応、という言葉がついた時点で、褒め言葉としての純度はかなり落ちています」


「細かいなぁ」


「それなら、優くんこそ“一応”優等生だと先生方がおっしゃっているのでしょう?」


「・・・ごめんなさい。俺が悪かったです」


優等生という言葉に、優心は露骨に苦い顔をしたが、その反応を見た寧の口元はほんの僅かに緩んでおり、整った顔立ちに落ち着いた雰囲気をまといながらも、その内側には妙に芯の強い頑固さがあって、優心がどれほど軽口を叩いても、結局のところ主導権は寧の手の中へ戻っていくのだと、改めて思い知らされる。


(・・・ほんと、出来すぎなんだよなぁ)


成績は学年トップで、家事もでき、誰に対しても礼儀正しい。


それでいて必要な時には相手を容赦なく叱ることもできる寧は、家族の贔屓目を抜きにしてもどこに出しても恥ずかしくない姉であった。


そして、それに比べて自分はどうかと考えると、どこへ出しても恥ずかしくないどころか、出せば出すほど恥の上塗りをするだけの存在。


優心は小さく自嘲気味に笑った。


「・・・何を一人で微妙な顔をしているのですか。朝から変な自己完結をしないでください」


「してないよ」


「していました。今、『自分は姉に比べてどうしようもない弟だ』みたいな顔をしていました」


「なんで分かるんだよ」


「顔に書いてあります」


「書いてないだろ」


「書いてあります。しかもかなり大きめの文字で」


「俺の顔、掲示板か何かなの?」


「時々、そうですね」


「ひどくない?」


「本当のことを言っているだけです」


 優心が抗議するように眉を寄せると、寧は味噌汁の味見をしてから納得したように小さく頷き、何事もなかったかのように続ける。


「それに、優くんは別にどうしようもなくはありません。少し抜けていて、少し危なっかしくて、少し目を離すと余計なことをして、少しだけ自分を軽く見すぎているだけです」


「少しが多すぎる」


「総合すると、かなり手間のかかる弟です」


「結局けなしてるだろ」


こういうやり取りも、今ではもう日常の一部になっている。


この春から始まった二人暮らしは最初こそどこかぎこちなく、互いに踏み込んでいい距離を測りかねるような時間が続いていたが、今では偶にではあるがこうして軽口を叩き合える程度には、生活の形が整い始めていた。


もっとも、台所に関してだけは、最初から最後まで寧の絶対領域だった。


「ねぇ、優くん」


「ん?」


「そこにあるフライパン、触らないでくださいね」


「・・・まだ何もしてないんだけど」


「“まだ”でしょう?その顔は、これから手伝おうとしている顔です」


「顔で判断するなよ。それに、手伝うならいいじゃないか」


寧は真顔のまま、鍋の中の味噌汁をかき混ぜており、そのあまりにも淡々とした光景が妙に可笑しくて、優心は思わず笑いそうになったが、笑えばまた何か言われる気がして慌てて口元を押さえた。


「今、笑いましたね」


「笑ってない」


「笑いました」


「笑ってないって」


「笑いました」


「・・・はい、笑いました」


「素直でよろしい」


優心は確かに、人並み程度の料理ならできるし、少なくとも自分一人が食べる分には問題ない程度には作れるため、何もできないというわけではないのだが、寧と比べてしまえばそれはあまりにも拙く、彼女の料理は手際も味も安定していて、何より食べる側の体調や予定まで考えられているからこそ、優心は強く出ることができなかった。


しかし、何もかも任せきりにすることだけは、どうしても納得できない。


「だから、言ってるだろ?料理は寧さんに任せるから、それ以外は俺がやるって」


優心は椅子にもたれかかりながら、少しだけ真面目な声で続けた。


「洗い物も、掃除も、洗濯も、買い出しも、ゴミ出しも、重い荷物を運ぶのも、電球を替えるのも、そういうのは全部俺がやる。寧さんが飯を作ってくれるなら、俺はそれ以外でちゃんと釣り合いを取らないと、ただ食わせてもらってるだけになるだろ」


寧の手がそこで一瞬だけ止まり、味噌汁の湯気がゆっくりと立ち上って朝の冷えた空気の中で白く滲んだ。


「・・・そういうところは、妙に律儀ですよね」


「妙にって何だよ」


「普段は抜けているのに、変なところで頑固です」


「寧さんにだけ全部背負わせるのは嫌なんだよ」


その言葉を聞いた寧はすぐには何も返さず、ただ少しだけ目を伏せ、それから何事もなかったかのように再び鍋へ視線を戻した。


「・・・なら、今日のゴミ出しは?」


「あ」


「やっていないのですね」


「今から行ってきます」


「ほら、そういうところです」


「今から行くって言ってるだろ」


「言われる前に行っていれば、もう少し格好がついたのですけど」


「それは・・・すみません」


「まったく。優くんは、決意だけは立派なのに、実行が三歩くらい遅いのです」


「三歩で済んでるならまだいい方じゃないか?」


「開き直らない」


「すみません」


寧は呆れたようにため息をついたが、その声には本気の怒りはない。


優心は苦笑しながら立ち上がると、椅子の背にかけていた上着へ手を伸ばした。


そんな二人の関係を言葉にするならひどく難しい。


仲睦まじい姉弟と呼ぶには距離があり、冷え切っていると言うにはあまりにも互いの生活へ深く入り込みすぎていて、まるで熟年離婚寸前の夫婦が、なぜか一つ屋根の下で暮らし続け、時折、味噌汁やゴミ出しなどを巡って淡々と言い争いながらも、それでもお互いがお互いを拒絶する未来だけは想像できないでいるような、奇妙で、歪で、けれど確かな温度のある関係だった。


その穏やかな朝の光景は、どこにでもある家庭の一幕に見えた。


けれど、優心の首元には白い包帯が巻かれており、その下には人間の理解を拒む黒い痣が眠っていて、さらに世界の遥か底、人類がまだ名を与えることすらできない深淵の向こう側では、何かが静かに目を開けようとしていた。


優心はまだ知らない。


この朝の味噌汁の匂いも、寧の小言も、ゴミ袋を持って玄関へ向かうことも、いずれ戻りたくても戻れないほど遠い日常として、胸の奥に焼きつくことになるのだということを。


「ゴミ捨ててくる」


だから今の彼は、ただいつものように台所に立つ寧へ向かってそう声をかけ、玄関へ向かいながら思わず小さく笑った。


その笑みは、鏡の前で自分の痣を見つめていた時のものとは違っていて、軽く、どこか温かく、ほんの少しだけ救われたような笑みだったが、その瞬間、包帯の下に隠された痣が、脈打つように一度だけ微かに疼いた。


「ん・・・?」


優心は足を止め、首元へ手を当てた。


痛みではなく、熱でもなく、ただ遥か遠くの海底から響いてくる鐘の音のような、言葉にならない違和感が、ほんの一瞬だけ身体の奥を通り抜けた。


「優くん?」


台所から寧の声が飛んでくる。


「どうかしましたか?」


「・・・いや」


優心は首元から手を離し、何でもないように笑った。


「ちょっと寝ぼけてただけ」


「本当に?顔色、少し悪くないですか?」


「大丈夫だって。すぐ戻る」


「無理はしないでくださいね。優くんは昔から、大丈夫じゃない時ほど大丈夫って言うんですから」


「分かってるよ」


「絶対分かってない返事です、それ」


寧の呆れた声を背中に受けながら、優心は玄関の扉へ手をかけた。


扉の向こうには、いつもと同じ朝があるはずだ。


冷えた空気と、まだ眠たげな住宅街と、何も変わらない日常。


だが、扉を開けた瞬間に流れ込んできた風の中に、優心はほんの僅かに、海など近くにはないはずなのに、潮の匂いを感じた。


そしてその匂いは、一瞬で消えたにもかかわらず、包帯の下の痣だけは遠い呼び声に応えるように、もう一度だけ静かに疼いた。

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