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御八家

「この前の模試も、一位だったんだろ。ほんと、凄いよな、寧さんは」


焼き魚の身を箸でほぐしながら、優心はできるだけ何気ない調子でそう言ったつもりだった。


しかしその声の底には、純粋な感心だけではなく、自分ではどう足掻いても届かない場所へ当然のように立っている義姉への眩しさと、同じ家に暮らし、同じ食卓で味噌汁をすすり、同じ朝の空気を吸っているはずなのに、自分だけがどこか遠い場所へ置き去りにされているような、言葉にしづらい焦りが薄く滲んでいた。


味噌汁の湯気が二人の間でゆらゆらと立ち上り、テレビのついていない朝の食卓には、食器が触れ合う小さな音と、外から微かに聞こえてくる遠い車の走行音だけが静かに漂っている。


窓の外ではまだ冷たい朝の光が住宅街の屋根を淡く照らし始めているだけで、世界そのものが完全に目を覚ますには、もう少しだけ時間が必要なように思えた。


その静けさの中で、寧は箸の動きを止めることなく、いつも通りの落ち着いた声で答える。


御八家(ごはっけ)の次期当主として、当然の結果です」


その言い方には驕りも、照れも、必要以上の謙遜もない。


ただ、そうでなければならないものが、今回もそうであったと確認しているだけのような、揺るぎない静けさだけがあった。


「うん。今日の味噌汁は、少しだけ味噌を変えましたけど、悪くありませんね」


優心が肩をすくめると、寧はようやくこちらへ視線を向けた。


「そもそも、あなたも同じ学校に通っているのですから、もう少し自分の立場を意識した方がいいのではないですか?」


「意識はしてるよ。一応」


「一応、では困ります」


「そんなに困ることかな」


「困ります。優くんも瑞沢家の人間なのですから」


寧はそう言ってから、ほんの少しだけ声を柔らかくした。


「ただ、自分で自分を最初から低い場所へ置くのはやめなさい、と言っているのです」


その言葉に、優心は箸を止めた。


軽く流そうと思えば流せる言葉だったし、いつものように「はいはい」と苦笑いで誤魔化すこともできたはずだった。


だが、寧の声があまりにも静かで、そこに冗談でも嫌味でもない本気の響きが含まれていたから、優心はすぐに茶化すことができなかった。


「・・・別に、そんなつもりはないけど」


「あります。優くんはすぐに、自分は大したことがない、と卑下しがちですから」


「また顔に書いてある系?」


「そうですね。書いてあります」


「俺の顔、情報量多すぎないか?」


「分かりやすいだけです」


寧はそう言うと、再び箸を動かす。


その横顔は朝の光の中でも揺らがず、まるで自分が背負っているものの重さも、それに伴う孤独も、すべて最初から織り込み済みであるかのように静かだった。


優心は味噌汁をすすりながら、改めて彼女の言葉を思い返していた。


御八家。


今の日本において、その名は単なる名家や名門などという古びた言葉では到底語り尽くせず、それは血統であり、権力であり、軍事力であり、国家という巨大な生き物の骨格に深く食い込んだ、八本の柱の名だった。


始まりは、二〇一四年。


南シナ海で発生したアメリカ軍と中国軍の衝突を契機として、世界の均衡は大きく傾いた。


それまで日本の安全保障を支えていたアメリカ軍は、日本領土からの撤退を決定したのだ。


形式上の同盟関係こそ維持されたものの、日本はそれまで当然のように享受していた絶対的な後ろ盾を失うことになった。


そしてその瞬間、日本という国は初めて真正面から、自分たちの力だけで国を守れるのか、という問いを突きつけられた。


経済大国。


技術大国。


平和国家。


そうした看板は、一方的な侵略の意志を前にした時には、あまりにも薄い紙でしかない。


特にコスモと呼ばれる未知のエネルギーが軍事の中心に据えられて以降、国家間の戦力差は単純な兵器の数ではなく、どれだけ優秀な戦創師を保有しているかによって測られるようになっていた。


だが当時の日本は、コスモの軍事利用において各国に大きく遅れを取っていた。


しかしその遅れは技術不足によるものではない。


むしろ日本の技術者たちは優秀であった。


そして優秀であったのにもかかわらず、それまでの国際秩序の中で、日本が強力な戦創師育成やコスモを使用した兵器の開発を厳しく制限されていたことに原因があった。


世界は表向きには平和と秩序を語りながら、裏側では次の戦争に向けて静かに爪を研いでおり、そして日本だけが、その爪を削られたまま、荒れ狂う海へ放り出されようとしていたのである。


その危機感の中で、日本政府は既存の自衛隊を再編した国家政府軍─────通称・国政(こくせい)軍の強化に乗り出したが、それだけでは足りないと判断した。


足りないなら、作るしかない。


兵器を、制度を、そして人間そのものを。


二〇一四年九月八日。


後に日本の戦創師史における大きな転換点と呼ばれるその日、政府は優秀な戦創師同士の婚姻を国家主導で推進する政策を発表した。


それは現代社会においてはあまりにも時代錯誤な政策であり、当初は倫理的な批判を免れないであろう、と予想されていた。


だがしかし、政略結婚の推奨は日本という国に根強く残っていた血筋や家柄を重んじる古い価値観と、皮肉にも噛み合ってしまった。


優秀な戦創師同士を結びつければ、より優秀な子が生まれ、その子がさらに優秀な相手と結ばれれば、次の世代はさらに強くなる─────という、あまりにも単純で、あまりにも冷酷で、しかし国家という巨大な機構が採用するには十分すぎるほど合理的な理屈によって、人間を、血統を、未来そのものを、戦力として設計する試みが始まったのである。


それは表向きには、家の繁栄や国家防衛、という美しい言葉で飾られていた。


だがしかし、本質的には人という存在をより強力な器へ作り替えていく試みでもあり、その果てに生まれたのが、日本国内における最上位の戦創師血統である八つの家系─────御八家だった。


彼らは軍の中枢へ入り、政界へ根を張り、教育機関を支配し、国家の防衛戦略そのものへ影響を及ぼすようになった。


そして何より、御八家の直系に生まれた者たちは、コスモの適性が異常なほどに高かった。


体内に宿すコスモの保有量が多く、その濃度も高い。


流れが安定しており、通常の戦創師ならば何年もの訓練を必要とするコスモ操作を、幼い頃から呼吸のように扱うことができた。


量が多ければ、純粋な出力で敵を圧倒できる。


濃度が高ければ、イメージを現実へと変換する精度が飛躍的に高まる。


つまり、御八家の人間は単に強いのではない。


強くなるように、生まれる前から全てが整えられているのである。


それは才能という言葉よりももっと冷たく、もっと根深い、血の中に刻まれた国家戦略であり、家系の奥底へ沈められた使命であり、コスモという人類が完全には解明しきれていない力を人間の身体へ馴染ませるために積み重ねられてきた、長い実験の結晶だった。


そう考えると、優心は時折、御八家という存在そのものに言いようのない不気味さを覚えることがあった。


彼らは人間だ。


寧も、もちろん人間だ。


交わす言葉は以前に比べると少なくなってはいるが、同じ食卓で味噌汁を飲み、少しだけ不器用に気遣いを隠そうとする、どこにでもいる優秀な姉のようにも見える。


けれどその血の奥には、日本という国が未来への恐怖から作り出した巨大な仕組みが流れており、その仕組みは時に、人間の意志や幸福など容易く押し潰してしまう。


その重さを、寧は理解している。


理解した上で、逃げようとしていない。


だからこそ彼女は、トップであり続けることを誇らない。


ただ、当然だと言う。


それが自分の役目だから。


それが、自分に流れる血の責任だから。


「でもさ、そういうの・・・なんか、疲れないのか?」


優心は言いながら、少しだけ後悔した。


踏み込みすぎたかもしれないと思ったし、朝食の席で何気なく触れていい話題ではなかったのかもしれないとも思った。


だがしかし、口にしてしまった言葉はもう戻らず、味噌汁の湯気の向こうで寧がどんな顔をするのかを、優心は少しだけ身構えながら待つしかなかった。


けれど、寧は怒らなかった。


ただ、味噌汁の器を静かに置き、少し考えるように目を伏せた。


「疲れないと言えば、嘘になります」


その答えは、優心の予想よりもずっと率直だった。


「でも、疲れるからやめる、という選択肢はありません。私は瑞沢の人間であり、いずれ家を背負う立場ですから」


「・・・そういうもんか」


「そういうものです」


「俺だったら、逃げたくなるかもしれない」


「優くんは、逃げる前に余計なところで立ち止まると思います」


「何それ?」


「逃げたいと思っているくせに、誰かが困っていたら放っておけなくて、結局自分から面倒な方へ戻ってくるタイプです」


「・・・そんな良いもんじゃないよ」


「良いか悪いかは別として、そういう人です」


寧は淡々と言い切り、優心は返す言葉に困って、焼き魚の身を無駄に細かくほぐした。


「・・・なんか、寧さんってたまに変なところで俺の評価高いよな」


優心がそう言うと、寧はわずかに眉を動かした。


「・・・そういう言い方をされると、少し腹が立ちますね」


「なんでだよ?」


「まるで、私が優くんのことを気にかけているみたいに聞こえるからです」


「違うのか?」


「・・・違いませんけど」


小さくそう言ってから、寧は咳払いをした。


「・・・それに、あなたは充分努力をしています」


それは優心には聞こえないほど小さな呟きであった。


だから優心はその言葉に気づかないまま再び箸を動かした。


御八家の話は重い。


国家の話も、血筋の話も、戦創師という存在の話も、考えれば考えるほど自分たちの日常から遠く離れた巨大なものに思えてくる。


だがそれでも、その巨大なものの中心に、これから立っていかねばならない寧は、今こうして目の前で味噌汁を飲み、焼き魚の骨を丁寧に取り分けている。


その事実が、優心には少しだけ不思議だった。


国家の未来を背負う血筋の者も、食卓につけば茶碗の位置を直し、味噌汁の温度を気にし、言いにくい心配を小言の形に変えて投げてくる。


そして、どれだけ大きな運命が背後にあろうと、人は結局、目の前の一日を生きるしかないのだという当たり前の事実が、なぜか今の優心には妙に重く感じられた。


「ごちそうさまでした」


不意に寧が箸を置き、食器の触れ合う小さな音が朝の食卓に澄んで響いた。


「私は先に行きます。今日も朝から用事がありますので」


「また生徒会?」


「そうですね。生徒会と・・・先生方から頼まれている資料の確認です。それと、放課後には家の件で少し連絡を取らなければいけません」


寧は椅子から立ち上がり、食器を流しへ運びながら、いつもの調子で続けた。


「あなたも、遅刻しないようにしてください。私の面子にも関わってきますから」


「いや、そこ俺関係ある?そもそも俺、遅刻したことないけどさ」


「あります」


即答だった。


「私の弟という立場である以上、あなたの評価は少なからず私の評価に繋がります。特に、あなたはただでさえ悪目立ちしやすいのですから、せめて時間くらいは守ってください」


「悪目立ちって言うなよ。俺、別にそんなに目立ってないだろ」


「首元に包帯を巻いて登校している時点で、普通よりは目立ちます」


その言葉に、優心は一瞬だけ首元へ手をやり、寧はそれに気づいたが、すぐには何も言わず、ただ少しだけ声を落とした。


「・・・もちろん、それを外せと言っているわけではありません。必要だから巻いているのでしょうし、私もそれを否定するつもりはありません」


「・・・ああ」


「でも、だからこそ他の部分では余計な隙を作らないこと。優くんがそういうことをしていないのは知っていますが、遅刻、忘れ物、授業中の居眠り、そういう小さな積み重ねが、いらない噂や評価に繋がるので、気をつけてください」


その言葉は、朝の小言にしては少しだけ重かった。


優心は思わず寧を見る。


寧はもう鞄を手に取っていた。


「だから・・・せめて“普通”でいてください」


「ハードル低いようで、けっこう高いこと言うな・・・」


寧は玄関へ向かう直前で足を止め、ほんの少しだけ振り返った。


「無理に、誰かと同じになる必要はありません。あなたはあなたのままでいいです。ただ、余計なことで自分を傷つける必要はないと言っているだけです」


優心は言葉を失い、寧はそれ以上何かを言うのが照れくさくなったのか、すぐに視線を逸らした。


「・・・では、行ってきます」


「あ、うん。行ってらっしゃい」


「優くんも、食器は水につけておいてください。あと、戸締まりと火の元の確認も忘れずに」


「分かってるって」


「分かっている人は、昨日みたいに玄関の鍵を忘れません」


「あれは寧さんがすぐ帰ってくると思って」


「言い訳しない」


「はい」


「返事はいいので、行動で示してください」


「厳しいなぁ・・・」


優心が苦笑する間もなく、寧はさっさとリビングを出ていった。


そして、玄関の扉が開く音と共に冷たい朝の空気が一瞬だけ家の中へ流れ込むと、それから扉が閉まる音が静かに響いた。


後に残されたのは、食卓の上に漂う味噌汁の匂いと、まだ少しだけ温かい茶碗と、寧がいなくなったことで僅かに広く感じられる朝の静けさだけだった。


「・・・相変わらずだな」


優心はぽつりと呟き、けれどその口元はわずかに緩んでいた。


御八家の次期当主。


国家の血統戦略が生み出した、選ばれた者。


日本の未来を背負うことを当然のように求められている存在。


そう聞けば、寧という人間はどこか遠く、手の届かない場所にいるように思える。


しかし、優心にとっての寧は、朝から味噌汁の出来を確認し、弟の生活態度に小言を言い、少し照れくさそうに心配を隠そうとする、ただの家族でもあった。


そのことが、優心には少しだけ嬉しかった。


そして同時に、ほんの少しだけ怖かった。


なぜなら、自分の首元に巻かれた包帯の下で、あの黒い痣が今も静かに眠っている限り、この穏やかな朝がいつまでも続く保証などどこにもないように思えたからである。


世界とは、目に見えているものだけで成り立っているわけではないのだ。


食卓の湯気の向こうにも、学校の廊下のざわめきの奥にも、国家という巨大な仕組みのさらに底にも、人間がまだ名を与えきれていない暗い深淵が口を開けているのだと、優心はまだはっきりとは知らない。


ただ、包帯の下に刻まれた痣だけが、遠い海底から届く微かな鼓動のように、彼へ告げている気がした。


日常は、永遠ではない。そして、終わっていないものは、必ずまた姿を現す─────と。



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