夢と八年後
その晩、優心はこれまでに見たことのない奇妙な夢を見た。
見たのは、壮大な巨石造りの都市にまつわる夢。
夢の中の都市は、陰鬱なテュロスよりも瞑想にふけるスフィンクス、庭園に取り囲まれたバビロンよりも古い都市。
現代の建築技術を持ってしても、再現不可能と思わせる、巨大な石塊や天を衝く独立石から成る都市で、あらゆるものから緑色の泥が滲みだし、言いようのない恐怖を暗示する邪悪な感じを漂わせていた。
象形文字で覆われた壁と柱をぼんやりとした思考で眺めていると、唐突に、下方から声ならぬ声が聞こえてきた。
混沌としたその声は、優心が初めて英語を教えてもらった時と似ている感覚を呼び起こす。
優心は発音の困難な言葉をどうにかこうにか寄せ集め、一つの言葉を導き出した。
その言葉とは─────
「クトゥルフ」
そして夢の最後に登場したのは、奇怪な生物であった。
高さが何メートルもある巨大な生物が重々しく動いたり歩いたり。
ぐにゃぐにゃで触手の生えた頭部が、貧弱な翼をもつ、グロテスクで鱗に覆われた胴体の上に乗る。
そのぞっとするような恐ろしい姿は優心の脳裏に深く刻まれた。
その生物を注意深く見守っていると、不意にこちらへ顔を向けて、優心と目が合った。
怪物の顔にはモヤがかかり、詳しく観察するには叶わなかったが、何故かそのモヤは優心の背筋を凍らせた。
怪物はその大きな口を動かし、何かを囁く。
優心に伝えているように感じる謎めいた響きの、地底から発せられる声は最後まで聞き取れなかった。
例え夢が覚めて永い年月が経とうが、この夜の夢の中で目の当たりにした奇妙な映像を忘れることはないだろう。
だが、彼は誰にも話すつもりはない。
こんな精神異常者のような夢を誰かに話したところで、良くて笑い飛ばされるのがオチだ。最悪、今度は精神病院に入院するはめになることも十分に考えられる。
そして、もし話してしまえば、新しくできるはずの家族を再び手放すことにもなるだろう─────そんな気がしたから。
だから優心はこの夢を誰にも話さず、自分の胸の奥へ封じ込めた。
■
そしてあれから、八年という歳月が流れた。
あの夜の炎も、悲鳴も、崩れ落ちた世界も、時間という名の波に洗われ、表面上は静かに沈んでいった。
だが、完全に消え去ったわけではない。
優心の中では今もなお、確かに“続いている”。
瑞沢家に養子として迎えられた優心は、現在、高校一年生。
かつては何も守れなかった少年は、十六歳という年齢を迎え、少しずつだが確実に、自分の足で立とうとしていた。
新しい家族。
新しい日常。
そして、それでも変わらない“目標”。
それらに囲まれながらも、あの夜の記憶だけは、決して薄れることがなかった。
夢として。
あるいは、現実以上に鮮明な何かとして。
断片的にではあるが、確かに残り続けている。
あの異形の都市。
緑に滲む石。
理解できない言葉。
そして、名状し難き存在。
優心は、未だにそれを忘れることができない。
忘れてはいけないと、本能が告げているかのように。
まるでそれが、これから訪れる何かへの予兆であるかのように。
神が栄えたとされる遥か古の時代より、人知れず紡がれ続けてきた、長い長い物語。
それが今ようやく、瑞沢優心という一人の青年を中心に、再び動き始めようとしていた。
静かに。
確実に。
避けることのできない運命として。
その日まで、残された時間。
運命の十月二十三日まで、あと────二日。




