八年前6
優心は走った。 走って、走って走り抜いた。
途中躓こうが、後方から爆発音と悪意の籠った笑い声が聞こえようが、振り返らない。懸命に腕を振って、足を一ミリでも先に伸ばし、跳ぶように駆ける。
そうして学校に辿り着く。
だがしかし、仮面のヒーローが言ったように、自分のことを助けてくれる人は愚か。人っ子一人、以前はよく校庭を駆け回っていた野良犬や野良猫すら見当たらない。
「そりゃ、そうか。・・・・・・都合よく大人がいるわけないもんな。みんなこの災害で、あの化け物に殺されたんだから」
縋りついた希望は空回りに終わる。
疲労が限界を迎えていた優心は力尽きて、その場に倒れ込む。
焼けた土の匂いが鼻を刺す。
荒い呼吸だけが、静まり返った校庭に響いていた。
「・・・もう、無理だ」
指先すら動かない。
その時―― カツン。
硬い靴音が、沈黙を割った。
優心は震える瞳だけを上げる。
昇降口の影。そこに、一人立っていた。
薄暗く顔は見えないのだが、その人物の周囲だけ空気が張り詰めている。
「やっと来たか」
低く、静かな声。
次の瞬間、後方より化け物の咆哮が轟く。
その人物はそちらに見向きもせず、片手を上げた。
『バリアドーム』
透明な光壁が展開し、迫る爆炎を弾き返す。
轟音。
衝撃。
「ふっ、ヒーローは苦戦しているようだ」
苦笑混じりにそう呟いた男は、焼け焦げた大地に力なく伏している優心の傍らへと静かに歩み寄った。未だ燻る火の粉が風に舞う中、その動きだけが妙に穏やかで、周囲の惨状から切り離されたかのように映る。
やがて男は片膝を立ててしゃがみ込み、慎重な手つきで優心の身体を仰向けにすると、そのまま胸元へと抱え込んだ。
荒々しい戦場の只中に似つかわしくないほど、その仕草は優しく、まるで壊れ物を扱うかのようだった。
焼けた空気と血の匂いが鼻を刺す中で、男の体温だけがやけに現実離れして温かい。
そして、その男は優心にだけ届くほどの、かすかな声で言った。
「よくここまで頑張った」
たった、それだけの言葉だった。
だがその一言は、激しい戦いの中で張り詰めていた優心の心を、音もなくほどいていくには充分すぎるほどだった。
胸の奥に溜まっていた恐怖も、痛みも、悔しさも、すべてがその一言に触れた瞬間、じんわりと溶け出していく。
言いようのない安心感が、全身を静かに満たしていった。
(ああ・・・助かったんだ)
理由なんて、分からない。
目の前の男が誰なのかも、何故ここにいるのかも、何一つ理解できていないはずなのに、ただこの人に抱き締められている限り、自分はもう大丈夫だと、そう確信できてしまう。
薄れゆく意識の中で、優心はわずかに力を抜き、男の胸元に身を預けた。
視界はぼやけ、音も遠のいていく。
だが、その最後に耳元で、確かに何かが囁かれた。
「・・・・は、生・・いる」
その言葉を聞き取る前に、ふっと世界が暗転する。
意識は完全に途切れ、優心の身体から力が抜け落ちた。
■
目を覚ました優心を迎えたのは、どこまでも白く、どこまでも無機質な天井だった。
視界の端には、規則正しく並ぶ機械の影。
そして、自身の腕や身体に幾重にも絡みつくように繋がれた、尋常ではない数の点滴の管。
まるで、自分という存在がこの空間に固定されているかのような錯覚。
息を吸うたび、消毒液の匂いが肺の奥にまで染み込んでくる。
「・・・ここ、どこだ」
掠れた声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
慌てて駆けつけた看護師の話によれば、優心は一か月ものあいだ昏睡状態に陥っていたらしい。
そして、今日目を覚まさなければそのまま意識が戻ることはなかった可能性が高い、と。
その事実は、まるで他人事のように、優心の頭の中をゆっくりと通り過ぎていった。
だが。
ぼんやりとした意識の中で、ひとつだけ、確かなものがあった。
手のひらに残る感触。
あの札。
視線を落とす。
そこには、ぼろぼろに傷み、今にも千切れてしまいそうな一枚の紙切れ。
黄ばみ、煤け、端は焦げ、触れれば崩れそうなほどに脆い。
それでも優心は、それを指先でなぞるように握りしめていた。
気づけば、毎日のようにそれを眺めて過ごしていた。
何をするでもなく。
ただ、見つめているだけで。
時間が過ぎていく。
札を見るたびに、蘇る。
あの夜。
焼け落ちる街に、崩れ落ちる家。
叫び声。
そして、自分の無力さと命の儚さ。
何も守れなかったという現実。
それでも。
脳裏に焼きついて離れないものが、もう一つあった。
「・・・ヒーロー」
ぽつりと呟く。
あの仮面。
あの背中。
絶望の中で、ただ一人、立っていた存在。
「もう一度、会えたら・・・うん、ちゃんとお礼が言いたいな」
自然と零れたその願いは、どこまでも幼く、どこまでも純粋だった。
それからの日々。
病室の扉が開くたび、優心の心臓は小さく跳ねた。
もしかしたら、と。
あのヒーローが、ふらっと現れるのではないかと。
そんな、ありもしない期待を抱いて。
だが、夏が過ぎ。空気が少しずつ冷え始め、窓の外に秋の気配が差し込み始めても、その姿が現れることは、ついになかった。
否。
現れることが、できなかったのだ。
■
七夕の悲劇から三か月後。
ある日、優心のもとを一人の男が訪れる。
病室の扉が、静かに――まるで中にいる者を驚かせないよう細心の注意を払っているかのように――ゆっくりと、ほんのわずかな軋みを残しながら開いた。
外の光が細く差し込む。
その光の中から、ひとつの影が滑り込むように室内へと入ってくる。
「やあ」
低く、落ち着いた声。
無理に抑えているわけでもなく、自然とそうなっているような、穏やかな響きだった。
「君が新道優心くんだね」
ほんのわずかに間が置かれる。
相手の反応を待つような、あるいは言葉を選んでいるような、短い沈黙。
そして、ゆっくりと続ける。
「・・・生きていてくれて、本当によかった」
その言葉には、取り繕った響きはなかった。
義務でも、社交辞令でもない。
どこか、深いところから零れ落ちたような――安堵。
優心は、ゆっくりと顔を向ける。
まぶたが重い。
開こうとするたび、引き戻されるような感覚。
視界がぼやける。
輪郭が定まらない。
それでも。
焦点の合わない視線のまま、目の前の存在を捉えようとする。
じっと、見据える。
知らない男だった。
「・・・誰、ですか」
喉が掠れる。
言葉を出すだけで、胸の奥がひりつく。
それでもその声には、はっきりとした警戒が滲んでいた。
弱っていても、無防備ではない。
そんな意思が、わずかに感じられる。
男は、その様子を見て、ほんの少しだけ眉を下げた。
困ったように、しかしどこか安心したように、小さく苦笑する。
「そうだな」
一度、視線を外す。
言葉を探すように。
「いきなり現れて、信用しろって言う方が無理な話だ」
自嘲気味に肩をすくめる。
押し付けるでもなく、引くでもなく。
ただ、その場に立っている。
一歩。
ゆっくりと距離を詰める。
靴音が、静かな病室に小さく響いた。
「俺は、瑞沢 誇大」
名乗る声は、簡潔で、それでいて重みがあった。
そして、ほんのわずかに間を置いて。
「君の父上――誠の、古い友人だ」
「父さんの?」
優心の目が、かすかに揺れる。
ぼやけた視界の中で、その言葉だけが妙に鮮明に響いた。
誇大は、静かに頷く。
「ああ。誠とは学生の頃からの付き合いでな」
少しだけ視線を上げる。
遠くを見るように。
「馬鹿みたいなことで笑って・・・」
口元がわずかに緩む。
「あいつ、妙なところで負けず嫌いでな。どうでもいいことで張り合ってきてさ」
軽く息を吐く。
「くだらないことで本気の喧嘩もしたよ。それでも・・・気がつけば、また隣にいるような奴だった」
その言葉には、長い時間の積み重ねが滲んでいた。
懐かしむように、遠くを見る。
その横顔も、その語り口も、どれもが作られたものではない、自然な温度。
それを見た瞬間。
優心の胸の奥が、ほんのわずかに、痛んだ。
きり、と。
小さく、だが確かに。
(父さんを、そんな風に話す人。もう、いないと思っていた。)
沈黙が落ちる。
長く、重い。
逃げ場のない沈黙。
音が消えたような感覚。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
やがて。
優心が、ぽつりと口を開いた。
「・・・・・・俺さ」
声が小さい。
掠れている。
自分でも驚くほど、頼りない音。
それでも、確かに絞り出された言葉。
「うん」
誇大は、遮らない。
促すでもなく、急かすでもなく。
ただ、その先を待つ。
「ヒーローになりたかったんだ」
言い終えた後も、視線は宙を彷徨っている。
どこにも定まらない。
現実を見ていない。
過去を見ているのか、それとも、もう届かない未来を見ているのか。
分からない。
「テレビの中の、作り物じゃなくて」
少しだけ、言葉を足す。
「ちゃんと誰かを助けられる、本物のヒーローになりたかった」
声が、少しだけ揺れる。
それは願いであり、告白であり、そしてもう届かないものを掴もうとする、最後の抵抗のようでもあった。
誇大は、何も言わない。
ただ、静かに頷いた。
その沈黙が、否定ではないことだけは、確かだった。
「でも」
拳がぎゅっと握られると、点滴の管が微かに揺れた。
「だ、誰も・・・助けられなかった」
声が震える。
喉の奥で言葉が絡まる。
「コスモも使えない俺にッ・・・」
息を吸う。
うまく入らない。
「救える命なんて、一つも、なかった」
沈黙。
誇大は、何も言わない。
「そんなことはない」とも言わない。
「お前は悪くない」とも言わない。
ただそこにいるだけで、逃げない、目を逸らさない。
その“沈黙”が、優心の中の蓋をこじ開けていく。
「お姉ちゃん、言ってたんだ」
呼吸が浅くなる。
「隠れようって・・・逃げ、よ・・・うって」
「そうだよ・・・化け物は、俺を狙っていたんだ」
ここ最近は自分で思い出さないように霧をかけていたあの夜の光景が、徐々に、ゆっくりと着実に鮮明になってゆく。
「俺のせいで・・・町の人たちの人生を終わらせちゃったッ・・・・父さんも、母さんも死んだ!」
優心はゴシゴシと両目を手の甲で拭うが、一度流れた涙は本人の意志に反してただただ溢れるばかりだった
「だ、だがら、俺は・・・絶対に、間違えない、ように・・・・しなきゃい、いげながったの、に。お、お姉ぢゃんを、俺が殺じでッ・・・・」
脳内でフラッシュバックするあの夜の光景。強く、強く頭を、頬を掻きむしろうが消えてくれない、深くこびりついた錆のように。
「俺が・・・お姉ちゃんをッ・・・ううッ!」
最後まで言えない。
喉の奥で、声が潰れる。
嗚咽だけが残る。
壊れたような呼吸。
涙が止まらない、いや、止め方が分からない。
視界が歪む。
何も見えない。
ただ一つ残っているのは、自分が壊してしまったという、どうしようもない現実だけだった。
その時、誇大が静かに言った。
「辛かったな」
その一言が、優心の心を抉った。
「・・・何が・・・何が、分かるんだよ」
小さな声。
だが次の瞬間、爆発する。
「おじさんに何が分かるんだよッ!!」
無力な自分への失望はやがて怒りとなり、その矛先が誇大に向けられる。
が、振り上げた拳は優しく受け止められた。
優心の気持ちの全てを絶対に逃がさない、という確かな手で。
「殴って君が楽になれるのなら、気の済むまで俺を殴って構わない。次は防がんよ」
優心は歯を食いしばる。
震える。
だが、殴れない。
「・・・なんでだよ!腕が言うこと聞かないッ!」
「それはな、君が本当は分かってるからだ」
優心の手から力が抜ける。
「その拳はな、誰かを守るためのもんだ。だから自分を壊すために使ってはいけない」
沈黙。
長い沈黙。
やがて、優心の肩が小さく震えた。
「・・・俺・・・・・どうしたらいいんだよ」
その声は、もう怒りではなかった。
ただの、迷子の子供の声だった。
誇大は少しだけ息を吐き、
「提案がある」
と言った。
間を置いて。
「俺の息子にならないか」
優心が目を見開く。
「・・・え?」
「ちょうど、うちの娘も弟が欲しいってねだってたところでね。親バカと言われるかもしれないが、あの子は優しい心を持っている子だ。君のことを本当の弟のように可愛がってくれるだろう」
「でも、」
「君なら、きっとあいつと上手くやれる」
優心の視線が揺れる。
「俺・・・そんな資格、ないよ。だって、俺がお姉ちゃんを・・・」
「ある」
即答だった。
「むしろ、君にしかない」
「な、なんで?」
「それはな、痛みを知ってるからだ」
優心は顔を上げる。
誇大は真っ直ぐ見返す。
「君ならきっとやれる。瑞沢誇大の名にかけて保証しよう。君は幼いながらにして”痛み”を経験した。ヒーローを目指すなら、必ず知っておかなくちゃならないもの、それが”痛み”だ」
「ヒーローが知っているもの・・・」
「そうだ。痛みを知っているからこそ。他人の気持ちに寄り添えるし、見返りを求めない無償の優しさを分け隔てなく与えられる」
「ほら、君はもうそれを知ってるじゃないか」
「・・・う、うんッ」
「だから、もう一人で背負うな」
その言葉に、優心の涙が静かに溢れた。
「・・・いいの?」
「いいに決まってるだろ」
誇大は少し笑う。
「旅立ってしまった新道夫妻とお姉ちゃんの分まで、俺たち瑞沢家が君に愛を与えよう」
その言葉に、優心は堪えきれず、誇大にしがみついた。
熱い抱擁を交わす新たな親子。
その時、病室の扉が開いた。
「あの~病室ではお静かに・・・」




