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八年前4

「さぁ、早くこれを食べろ」


優心の身体を支えながら、男は焦りを滲ませる声で言った。


男が差し出すのは銀色の丸薬だ。


「ゆっくりでいい。だが、よく噛んで飲み込め。水は――ほら、俺の水筒を貸してやる」


言われるまま優心は震える手でそれを受け取り、ゆっくりと咀嚼した。乾いた喉を潤すように、どこから取り出したのか分からぬ水筒に口をつける。


中身はただの水のはずなのに、わずかに薬草のような独特の匂いが鼻を掠めた。口内にこびりつく嫌な感覚を洗い流すにはちょうどよかった。


(・・・こんな物で、どうにかなるのかな)


助けてもらった身で抱くには不遜な感想だと、優心は内心で自嘲する。


――だが、効果は即座に現れた。


胃の奥に灯がともるような温かな感覚が広がる。

暴走しかけていた身体の熱は、潮が引くように静まっていき、骨の奥を這い回っていた痒みも嘘のように治まっていった。


「な・・な、に・・・これ・・・」


掠れた声で漏らすと、男は安堵したように息を吐く。


「間に合ったか」


その一言で死がどれほど近かったのかを悟る。


「おっ、そうだった。いきなりで悪いが、これをお前に渡しておく」


男は思い出したように懐へ手を入れ、古びた紙片を取り出した。黄ばんだそれには、優心が見たこともない文字が墨で刻まれている。


「・・・何これ。ゴミ?」


優心が眉をひそめると、男は苦笑しながら額を小突いた。


「ゴミじゃない。護符(ごふ)だ。札ってやつだよ」


そう言って、真顔になる。


「これがお前を守ってくれるはずだ。肌身離さず持ってろ。絶対だぞ?」


その声音には、冗談の欠片もなかった。


優心は札を受け取り、指先でそっとなぞる。

妙に温かい。


まるで、生きているみたいに。


「・・・そんなにすごい物なの?」


「まぁな。いつか必ず役に立つよ。お前自身と、お前が守りたいって思う人のために、な」


男はそこで言葉を切り、絶妙な――いや、最悪のタイミングで起き上がったダゴンと向き合った。


ぬらりと巨体が持ち上がる。


ダゴンの瞳孔がかっと見開かれ、憤怒に震えている。


先ほどまでとは明らかに違う。


空気そのものが重く沈み、優心の背筋を氷のような悪寒が走った。


本能が告げていた。


――今のこいつは、本気で殺しに来る。


「とっとと渡してといて正解だったな・・・・・・・・・優心、走れ! 学校へ向かうんだ! お前を助けてくれる人が待っている!」


男が振り返らぬまま叫ぶ。


「え・・・? 俺の名前、なんで・・・ていうか、あなた誰なんだよ!」


男はふっと笑った。


「俺は正義のヒーローだ」


冗談めいた口調なのに、その背中は不思議なほど頼もしかった。


そして男は、肩越しに最後の言葉を投げる。


「優心――運命(さだめ)の果てで、また逢おうな!」


その瞬間。


「グォオオオオオオオオオオッ!!」


ダゴンが咆哮した。


鼓膜が裂けそうな雄叫びと共に、大地が爆ぜる。


「走れッ!!」


男が地を蹴ると同時、ダゴンが襲いかかった。


優心は弾かれたように走り出した。


後ろでは――


轟音。


閃光。


剣戟にも似た金属音。


振り返るな。


そう思うほど、振り返りたくなるが彼の想いに応えるべく優心は我武者羅に走るのであった。



未来へと駆けていく少年の背中を、ヒーローは振り返らなかった。


振り返る必要がないと、分かっているからだ。


あの背中はもう守られているだろう────と、そう思えるくらいには、学校で優心を待つ男をヒーローは信頼していた。


だからこそ――ここからは、切り離す。


自分と、この化け物の時間を。


闇の中。


そこに立つのは、圧倒的な“異質”。


ダゴン。


互いに距離を取り、空気が凍りつく。


その静寂を、濁った嗤いが破った。


「・・・くく・・・・はははッ・・!」


喉を震わせ、ダゴンが笑う。


その笑いには、怒りと興味が混じっていた。


「それで逃がしたつもりか?」


一歩、踏み出す。


地面が軋み、空気が歪む。


「人間一匹で、この我の前に立つとは・・・身の程知らずも甚だしい」


ゆっくりと腕を持ち上げる。


「まさか、お前一人で我を止めるつもりか?それとも――」


目が細くなる。


「この我を殺すなどと、愚かな夢を見ているわけではあるまいな?」


次の瞬間。


爆ぜた。


ダゴンの巨体が、視界から消える。


遅れて、衝撃だけが押し寄せた。


空間ごと叩き潰すような一撃が、ヒーローのいた場所を粉砕する。


だが。


「いや」


その声は、すでに別の位置から響いていた。


瓦礫の上に立ち、ヒーローは静かに肩をすくめる。


「そういう役目じゃないんだよ、俺は」


ダゴンが舌打ちし、再び踏み込む。


今度は速い。


連続する拳撃が、空間を裂く。


一撃ごとに衝撃波が生まれ、周囲の建物を崩壊させていく。


ヒーローはそれを、紙一重で避け続けた。


最小限の動きで。


一歩、半歩、わずかな傾きだけで。


「えぇぃ!ちょこまかとッ!」


苛立ちが滲む。


その一瞬の隙。


ヒーローは踏み込んだ。


すれ違いざま、掌を叩き込む。


「――そこだ」


鈍い衝撃音。


圧縮された力が、ダゴンの胸部で弾ける。


巨体がわずかに仰け反る────が、止まらない。


「効かぬわッ!!」


咆哮。


振り払うような一撃が、ヒーローを弾き飛ばした。


地面を滑り、砂塵が舞い上がる。


それでもヒーローはすぐに体勢を立て直した。


口元の血を親指で拭い、軽く息を吐く。


「・・・やっぱり、まともにやり合う相手じゃないな」


小さく呟く。


だが、その目に焦りはない。


むしろ、確認した、という冷静さだけがあった。

ゆっくりと顔を上げる。


「俺の仕事は、ここまでだ」


ダゴンが動きを止める。


その言葉に、わずかな違和感を覚えたからだ。


「何?」


ヒーローは続ける。


「守るべきものは守った。あいつはもう、この場から離れてる」


一瞬だけ、少年の消えた方向を見る。


そして、再びダゴンへ。


「それにお前を倒すのは、俺じゃない」


ダゴンの瞳が細められる。


「・・・ほう?」


低く、探るような声。


ヒーローは、はっきりと言い切った。


「八年後だ」


風が止まる。


「八年後の、”あいつ”がお前を倒す。だからさ、それまで待っててくれよ」


その言葉には、確信があった。


揺るぎのない未来を、知っている者の声音。


ダゴンの表情が変わる。


怒りでも嘲りでもない。


理解に近い、歪んだ笑み。


「・・・なるほど。どうやら貴様は“越えてきた”ようだな」


問いではない。


断定。


ヒーローは肩をすくめる。


「察しがいいな。さすがは支配者(かみ)様だ」


軽く笑う。


だが次の瞬間、その表情が引き締まる。


懐へ手を差し入れる。


取り出されたのは、一枚の札。


それを二本の指で挟む。


────ボッ。


青白い光が、文字となって浮かび上がると、無数の術式が空間に刻まれていく。


ダゴンの気配が変わった。


「我を封じるつもりか」


低く唸る。


同時に、踏み込む。


今度は全力。


地面が抉れ、空間が歪むほどの加速。


だがヒーローは動かない。


ただ、札を掲げる。


「本当は俺だってもっと成長した自分の力を試したかったさ。けど、もう時間がない。だから、お前とはここまでだ」


ダゴンの拳が目前まで迫る。


その瞬間、ヒーローが、呟いた。


「それまで、眠っててくれ」


光が、弾けた。

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