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3/22

八年前2

姉弟が慣れ親しんだ神成町の街並みは、もはや原形を留めていなかった。


悪い意味で、別世界だった。


優莉に手を引かれ、優心は歩く。


誕生日会の最中、あれほど荒れ狂っていた豪雨は、いつしか止んでいた。代わりに、火だけが勢いを増している。


見渡す限りの赤で、世界そのものが巨大な炉と化したようだった。


彷徨う姉弟に行く当てなどないし、進んでも生きられる保証はない。


かといってここで歩みを止めれば、たちまち業火に包まれ黒焦げになる。


周囲には、二人が立ち止まった場合の未来が転がっていた。


(あんな風には、なりたくない)


目を逸らしても、死は視界に入り込む。


両親を失い、家を失い、頼れる親戚もおらず、幼い姉と二人きり。今、自分たちがどの辺を歩いているのかさえあやふやで、助けられるイメージが湧かない最悪の状況。


そうなれば死んだ方がマシだと答える者は出てくるし、どの道、奇跡でも怒らないかぎり、幼き姉弟では忍び寄る死から逃れられることはできまい。


どうせ結末は変わらないのだったら。熱くて、息苦しくて、悲しい現実を無理に生きるぐらいなら。いっそのこと、全てを捨て去り楽になれる選択をしようと、誰も優心を責めはしないだろう。


だが、優心は黒焦げの死体になりたくないと思ったのである。


即ちそれは、優心がこの絶望的な状況で、まだ生きる希望を捨てていない証。


死が怖いからではない。


英雄になりたいからでもない。


ただ一つ。


(お姉ちゃんを、あんな姿にしてたまるか)


その想いだけが、彼を前へ進ませていた。


隣を歩く、少し背の高い姉を見上げる。


代わりなどいない、唯一無二の存在。


それが、今を抗う理由。



「酷い・・・これが、神成町。わたしたちの住んでた町、なの?」


優莉が呆然と呟く。


顔色は悪い。持ち直したように見えた心も、町の惨状を前に揺らいでいた。


今度は弟が手を引き、その手を弱々しく握るのは姉。そう、ついさっきまでとは真逆な二人の様子であった。


燃え盛る火の手を避けながら適当に歩く姉弟は、商店街跡まで辿り着いていた。黒と灰の瓦礫ばかりが並ぶ中、微かに残る懐かしい匂いだけが、ここがあの場所だと教えてくれる。


あの角には姉弟に良くしてくれたお婆さんの駄菓子屋。


向かいには母の日に二人でカーネーションを購入した花屋さん。


その角を曲がって商店街を抜けた先には、姉弟お気に入りのブランコが設置された公園。


しかしそれらは全てが崩れ落ち、二人の見てきた景色は、刻々と煉獄の如く燃えさかる赤に侵されていく。


「みんな・・・死んじゃったのかな?」


「かもね」


「そっか・・・・駄菓子屋のおばちゃん、良い人だったのになぁ。魚屋のおじちゃんだって、おつかいに行ったら奥さんに内緒でオマケしてくれたんだよ?」


「うん、良い人だった。八百屋のお兄ちゃん、学校の先生たち、クラスのみんなも。神成町の人たちはみんな良い人だった」


しばらくの沈黙を挟み、


「でも、もう会えないんだよね?」


と、優莉は言った。


その答えを口にするのを嫌がった優心。彼は歩く速度を上げると、優莉を引っ張るようにして、あるはずと信じるゴールを目指す。


優莉も弟の心中を察したようで答えを求めない。


代わりに、優莉は神成町の終焉を悠然と見下ろす天の川を見上げ、睨んだ。


「二人がようやく愛し合える日に、なんでわたしたちは全部を奪われたの?教えてよ、ねぇ。そこにいるんでしょ!」


恨みがましく吐き出した声は、夜に溶ける。


熱風に髪を吹き煽られながら、優莉が珍しく他を憎み、理不尽な怒りを、一年越しの再会を果たす男女にぶつけたのだった。


悪い夢ならどれほどよかったでしょう。


もう幾度、瞳を長い時間閉ざすことで、現実への帰還を願っただろうか。


優しく、暖かく、時には涼しい部屋で笑顔を弾ませている両親と弟、そして自分を想像するだけで小さな胸が締め付けられ、涙が零れた。


時折、夜空を走る星への願いは至極単純である。


─────悪夢よ、覚めて─────


だとすれば、その夢の終わりが訪れるまで、二人は死の闇に屈しまいと必死に抗うだろう。全てを悪夢として片付け、成人を迎えた暁には、今宵の悪夢を肴に杯を交わすのもまた一興。


「これからどうなっちゃうんだろ、わたしたち」


「どうなるか、だって?そんなの決まってるよ。二人でこの街から脱出するんだ。お姉ちゃんは俺の後ろについきて」


「ふふ、頼もしいね優ちゃんは」


優莉がニッコリ微笑む。


その笑顔をみて、優心も少しだけ救われたのか、彼の表情も和らぐ。


「二人で一緒にここから逃げられたら、何かお礼をしたいな。ねぇ、欲しいものとかある?」


「よしてくれ、俺はただ弟として当たり前の事をしているだから」


「でも」


「いいんだ。それに見返りが要らないって言った手前───」


と、言いかけたその時。


「お姉ちゃんッ、危ない!!」


姉の身体に飛びつくようにして地面に倒れ込んだ。

何事か、と戸惑う優莉であったが、優心の咄嗟の行動の意味を直ぐに知ることとなる。


轟音。


燃えた瓦礫が、さっきまで二人がいた場所へ落ちる。


間一髪。


「優ちゃんっ!!」


精神的に支えてくれて、命の危機も救ってくれた弟に対し、高ぶる気持ちが抑えきれない優莉。


刹那。


ドシン。


大地が鳴った。


ドシン。


ドシン。ドシン。


巨大な動物の足音のように鳴る地響き。


姉弟は足を止め、同時に呼吸を忘れた。


ドシンッ


巨大な何かの足音。


怪物の歩行。


『感じるぞ、主様の気高き鼓動を・・・・・・・・近い、主様の器よ。待っておれ、我らの悲願が果たされる時はもうすぐ傍に。ふははははは』


続いて聞こえてきたのは人ならざる者の声で、言語を絶する恐怖が後に続く。


『くとぅるふ、ふたぐん、おお、るるいえ・・・・・・・・ふははははは』


そいつの語る言葉の意味を姉弟は・・・・いや。


この時を生きる全ての者では、到底理解が及ばないだろう。


人ならざる者の声は一言一言が強制力を有し、言語を絶する恐怖が二人の身体を縛り付けた。


─────今すぐ、引き返せ。


(ん!?俺の声・・・・!?)


脱兎のごとく跳ね上がる心音に混じり、確かに優心は自分の声を聞いた。


─────この壁の向こう側に行くな。


(俺の頭の中で、俺が喋ってる!?)


─────そいつを見たら、必ず後悔するだろう。


一夜でいろいろとありすぎた。もう並大抵のことじゃ優心は驚かない。自分が警告してくれるなんて、有難い話ではないか。


だから、優心は。


(うん。絶対に行かない。絶対に俺はお姉ちゃんと生き延びる)


優心の意思は固かった。


優莉と目を合わせる。


「優ちゃん、逃げよう」


小さな声だが、その目に迷いは無い。


それでいい。このまま息を潜め、ゆっくりでもいい。その先に待つ何かに見つからなければ、二人で明日を迎えられる。


そう、確信に近い予感がした。


が、


「「えっ!?」」


反して、姉弟の足は自然と奴へ向かっていた。


突然胸の奥で湧いた、説明のつかない強い好奇心に従うしかなかったのだ。


何らかの謎めいた束縛を受けた二人は息を殺して、瓦礫に身を潜めながら”奴が待つ”向こう側へ近づく。


その様は、操られた傀儡のように哀れなり。


相変わらずの業火は、街を支配する。吸い込む空気は燃えるように熱く、肺が焦げる思いが────するはず、なのに。


奴に近づくほど空気は冷えて、何処からか聞こえるのは水が流れる音。


あり得ない。


火の海の中で、水の音。


雨とっくに止んで、辺りに川などはない。


ドクン、

ドクン、


ドクン・・・トクン・・・トクン。


三つの心音が闇夜で響き。


一つの心音は、今まさに途絶えようとしている。



顔を覗かせた、その瞬間だった。


姉弟を襲ったのは、やはり激しい後悔。


覗かなければよかった。


そう本能が絶叫した。


かつて人の温もりで溢れていた商店街の惨憺たる光景を横目に、悪意が籠った笑い声の主に辿り着いた二人は、戦慄し、同時に視界を埋めつくした色に目を奪われる。


地も。


瓦礫も。


空気さえも。


赤。


紅 。


赫。


そこだけが、世界から切り離された異界だった。


その中心に、”それ”は立っていた。


一面の赤い世界に立つ異形の者。


凶悪なまでに大きな身体を持つそいつは、まさに生物としての到達点を歪めたような、冒涜的存在。


夜の闇に覆われたその化け物の容姿は、輪郭すら定かではない。闇そのものを纏っているかのように、境界が曖昧で、視線を向けるほどに形が崩れていく。だが確かに“そこにいる”という事実だけが、異様な重さで現実を支配していた。


そして何より――匂い。


かなりの距離があるはずの二人の元へと、ゆっくりと、確実に漂ってくるそれは、ただの血臭ではない。噎せ返るほど濃厚で、湿り気を帯び、肺の奥にまとわりつくような生々しさを持っていた。


一人や二人ではない。


積み重ねられた死の気配。


乾ききることのない、幾重もの“終わり”の残滓。


それだけで、この化け物がどれほどの人間を手にかけてきたのか────想像するまでもなく理解させられる。


二人は動けない。


視界の奥で、闇が、わずかに脈打った気がした。


それが“呼吸”なのか、“意思”なのか、あるいは――



「・・・お前も違う」


化け物は悪意が滲み出る声で呟く。


化け物は何かを探している様子であった。


だが知りたくない。


知れば終わる。


そう本能が告げる。


化け物の一挙手一投足に神経を研ぎ澄まして観察する。


そこで、優心はあることに気づいた。


化け物が人形のように片手で掴むのは、優心とよく遊んでくれた八百屋の一人息子だ。


意識を失っているのか、あるいは既に事切れているのか分からない。


しかし、確実に言えることはある。


もし生きていたとして、青年の命はそう長くは持たない。


「あいつ・・・・お兄ちゃんをッ!」


ヒーローに憧れる愚かな少年は、躊躇わず助けに入ろうと試みた。


そんな優心の肩を優莉が抑えた。


「お姉ちゃんっ、離してよ!」


「優ちゃん・・・行っちゃダメ。お願いだからじっとしてて」


「何でだよ!?お兄ちゃんはまだ生きてるかもしれないんだ!」


「ダメ。絶対にダメよ」


「何でさ!?助けられる命があるのに、無視するなんて俺にはできない!それにいつものお姉ちゃんなら俺よりも先に飛び出してるだろ?」


「分かってちょうだい!例えあの化け物の目を欺いて、奇襲を仕掛けたとするわ。でもね、それまでよ。万が一にもわたしたち二人に勝ち目はないの」


”優心に”対しては滅多に怒らない優莉が怒鳴った。


声が震えている。


それでも必死だった。


「ましてや、優ちゃんはコスモを使えないのよ?そんな自殺行為をお姉ちゃんが許すはずないでしょ!」


優心は葛藤した。


自分の意思を通して無謀な賭けに出るか。


それとも、姉の意思を尊重し、二人で生きる道を歩むか。


彼が決断に要したのは、時間にしてほんの三秒足らず。


体から力を抜く優心。


分かってくれた、と優莉は安堵する─────がしかし。


「ごめん、やっぱり俺は黙って見過ごせない。だって・・・・ヒーローはそんなことを絶対にしないから!」


「あっ・・・!待って、優ちゃん!!」


優莉の必死の説得も虚しく、優心は飛び出した。


彼は己の正義を突き通したのだ。


若さ故の過ち。それが、一生取り返しのつかない悲劇を生むと。今後、彼を後悔の念で苛ませることになろうとは、当然本人は知らない。


「おい化け物!お兄ちゃんを離せ!」


化け物の前に躍り出た優心は、恐怖心を噛み殺して声を荒げた。


実力に見合わない無謀な勇気は、時に大事なものを失う悲劇へ繋がりうる。


そして、


巨影がこちらを振り返り、乱入者の存在を視認すると─────嗤った。


「ッ・・・・!?」


その瞬間、今しがたの威勢は跡形もなく消し飛び、優心の身体は硬直してしまった。指一本動かない。


まるで、蛇に睨まれた蛙。


いや。


支配者(かみ)に見下ろされた人間。


失敗した、理由もなく優心の本能がそう告げる。


「ほう、これはこれは」


深海の底から響くような声。


「捜し物自らが我の元に訪れるとは、なんと幸運であろう。これも全ては主様のお導きによるものか」


主様。


その単語だけで世界が冷えた。


「少年。名を名乗れ」


巨影は優心に問う。


しかし、優心は答えない。


否、答えられない。


言うことを聞かない身体は呼吸さえもままならず、優心は異常な速さで脈打つ心臓の鼓動を感じながら化け物と対峙せざるを得ない。


それは神への畏れ。


これが原初の恐怖。


地球における至高の恐怖が具現化された化け物を前に、一瞬にして優心は思い知らされたのだ。


自分たち人間では、この化け物に敵わない。


「答えぬか」


化け物が嗤う。


「そうか話せないのだな、我としたことが。このダゴンの名において、少年の発言を許可しよう」


途端に、拘束が解けて空気が肺に流れ込む。



「お、お前は誰だ!捜し物って何だ!?神成町をこうしたのは、お前の仕業なのか?」


優心の頭の中では、夥しい数の殺され方が次から次へと思い浮かぶ。少しでも気を抜けば恐怖で泣いてしまいそうになるが、それを悟られてはならない。


それでも優心の心情などお見通しなのか、ダゴンは口元に弧を描く。


「いかにも」


肯定。


あまりにも軽く。


そしてダゴンは掴んでいた青年を放り投げる。


優心の目的は果たされたが、既に彼の頭の中にその青年はいなかった。


「思いのほか主様の血が薄まり苦労しておったのだが、わざわざ器自らが出向いてくれるとは、探す手間が省けた」


器。


優心の背筋が凍る。


「さて、器よ。我と共に来い。あの地へ」


そうしてダゴンが手を差し伸べる。


その瞬間。


「うあああッ!熱い、熱いよぉぉ!!!!」


優心が呻き声をあげて地面をのたうち回った。


体の芯から燃えたぎるような熱に侵され、我慢できずTシャツを脱ぐ。露出された上半身は異常に赤く腫れ上がっており、痒みが止まらない。


脈打つそれは、まるで何かが目覚めようとするようだ。


「ふむ、我の氣に触れて主様の血が騒いでおるのだな」


ダゴンは見下ろす。


「が、壊れられては困る。儀式の時期はずらすしかあるまい」


そして、深淵の宣告。


「少年、じっとしていろ。今すぐあの地へ連れていってやろう」




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