遭遇10
十月二十三日。
朝の空気は、ひどく澄んでいた。
校舎へ続く緩やかな坂道の両脇では、夜の名残を抱えた草葉が朝陽を受けて淡く輝き、遠くの木立から聞こえてくる鳥の声さえ、冷たく透き通った大気の中を遮られることなく渡ってくる。
本来ならば、それは眠気や不安を穏やかに洗い流し、これから始まる一日を静かに受け入れさせてくれるような朝であるはず─────なのだが、優心の胸の内だけは、その澄み切った空気から取り残されたように、鈍く濁った重さを抱えていた。
昨夜も、優心は机へ向かい続けた。
ここ数日、授業で出される課題は難しいものが多い。
解法の糸口さえ見つけられない問題へ何度も手を止め、そのたびに参考書を開いて、書き損じた式を消しては新たな考えを書き加えながら、日付が変わろうとする時刻まで粘り続けた末に、どうにかすべてを終わらせた。
途中で投げ出さなかった。
分からないからと言って課題から目を逸らさず、自分なりに考え、最後までやり切った。
それは間違いなく努力と呼べるものだった。
だがしかし、朝を迎えた今、その胸に達成感らしいものはほとんど残っておらず、代わりに沈んでいるのは、どれだけ手を伸ばしても目指す場所には届かないという焦燥と、自分だけが同じ場所へ取り残されているかのような、形の定まらない不安だった。
自分は、真面目にやっている。
授業も居眠りなどせずに受けている。
出された課題もこなし、教師から頼まれた仕事も、可能な限り嫌な顔をせず引き受けている。
昨日より今日、今日より明日へ少しでも前へ進むため、毎日の時間を惜しまず積み重ねてきたつもりだった。
それなのに足りない。
どれほど勉強しても、どれほど身体を鍛えても、どれほど人の役に立とうとしても、自分の中に決定的な空白が残されており、その空白一つによって、他のすべてが意味を失っていくような感覚が消えなかった。
昨日、測定石は何も示さなかった。
教師は、優心へ戦創師を諦めるよう告げた。
麗華からは、自分自身を軽んじるような生き方を容赦なく責められ、最後には”大嫌い”とまで言い切られた。
誰の言葉も、完全に間違っているとは思えない。
だからこそ反発だけで切り捨てることもできず、それぞれの言葉が抜けない棘となって胸の奥へ残り、歩みを進めるたびに、わずかな痛みを返してくる。
努力しているはずなのに、前へ進めている気がしない。
自分の足元だけが深い泥に沈み、周囲の者たちはコスモという光を携えながら、こちらを振り返ることもなく遠くへ進んでいくような感覚が、朝からずっと優心へまとわりついていた。
それでも、優心は足を止めることだけはしなかった。
立ち止まれば休めるかもしれない。
諦めてしまえば、これ以上傷つかずに済むのかもしれない。
だが一度でも立ち止まれば─────本当に、二度と追いつけなくなるような気がした。
そして何より、自分を助けたあの夜以来一度たりとも姿を現さない仮面のヒーローが、世界の何処かで嘆いているようにも思えたから。
優心は校門を抜け、朝の冷気が残る昇降口で上履きへ履き替えると、次第に増えていく生徒たちの流れへ混ざりながら廊下を進んだ。
自分の教室の前へ辿り着いたところで、一度だけ小さく息を吐く。
扉の向こうからは、いつもと変わらない朝の喧騒が聞こえている。
友人同士でふざけ合う声。
机や椅子を引きずる音。
昨日の課題が難しすぎたと嘆く声や、答えを写させてくれと冗談半分に頼み込む声。
誰かにとっては退屈で、誰かにとってはかけがえのない、どこにでもある朝の教室の音だった。
優心は制服の襟元へ僅かに触れ、白い包帯がずれていないことを確かめてから、引き戸へ手をかけた。
扉を開けた瞬間、教室の空気が流れ込んでくる。
大半の生徒は一度だけ優心へ目を向けると、すぐに元の会話へ戻ったが、その中で一人だけ、最初から彼が現れるのを待ち構えていたかのように、口元へ歪んだ笑みを浮かべた者がいた。
茶羅木だった。
彼は自分の椅子へ座ることもなく、机の上へだらしなく腰掛け、片足を退屈そうに揺らしながら、教室へ入ってきた優心を見つめている。
「おい、瑞沢」
教室中へ聞かせることを最初から意図した、よく通る声だった。
朝の雑然とした話し声は完全には消えなかったものの、何人かの生徒が会話を止め、何が始まるのかと二人へ視線を向ける。
「今日こそは、逃げんなよ?昨日みたいに真面目な顔だけして、結局何もできませんでした・・・なんて、つまんねぇ終わり方はやめてくれよな」
その声音は軽く、事情を知らない者が聞けば、親しい友人同士が冗談を交わしているだけにも思えたかもしれない。
しかし、その言葉に含まれているものは明白だった。
挑発。
嘲り。
昨日、測定石の前で何一つ示せなかった優心の傷へ、わざと指を差し込み、その反応を楽しもうとする悪意。
そしてそのさらに奥には、麗華の介入によって優心を練習相手にする機会を奪われたことへの、茶羅木自身にも抑えきれない鬱屈した苛立ちが燻っていた。
優心は一瞬だけ、茶羅木の視線から目を逸らしかけた。
恐怖がないわけではない。
茶羅木は口先だけで他人を威圧している人間ではない。
彼は、実際に学年上位のコスモ保有量と実技能力を持ち、昨日の測定では規定値を超えるほどの反応を示している。
対する優心は、コスモを持たない。
真正面から向き合えば、自分が圧倒的に不利であることは、考えるまでもなく分かっていた。
それでも、ここで俯けば、昨日までの自分へ戻ってしまう。
嘲笑を受け流し、傷ついていないふりをし、自分が我慢すればすべて丸く収まると考えていた、自分自身を誰よりも軽く扱う青年へ。
それでは何も変わらない。
麗華から向けられた怒りも、担任へ絞り出した拒絶も、結局はその場限りの言葉になってしまう。
優心は胸の奥に残る恐怖を飲み込み、ゆっくりと顔を上げた。
そして、机の上から見下ろしてくる茶羅木の目を、逃げることなく真っ直ぐに見返した。
「ああ・・・逃げるつもりなんて、最初からないよ」
声は大きくなかった。
むしろ、教室に残る話し声へ紛れれば、後方の生徒には聞こえないほど静かなものだった。
それでも、その言葉には昨日までの曖昧な受け流しとは異なる、確かな意志が宿っていた。
茶羅木の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「はは、いいじゃねぇか。その顔」
机の上で身を乗り出し、優心の表情を確かめるように目を細める。
「昨日までよりは、ちょっとだけマシになったんじゃねぇの?やっと、やる気ってやつが出てきたか?それとも・・・昨日あれだけ恥を晒して、今さら強がりたくなっただけか?」
教室の一角から、押し殺した笑い声が漏れる。
茶羅木はそれを聞いて満足そうに喉を鳴らすと、机から飛び降りることなく、獲物の値打ちを測る獣のような視線を優心へ注ぎ続けた。
「まあ、どっちでもいいけどよ。俺としては、最初から何もせず潰れるより、少しくらい粘ってくれた方が面白い。せっかく相手してやるんだから、昨日の測定石みたいに黙り込んで終わるのだけは勘弁してくれよ?」
「・・・言いたいことは、それだけか?」
「何だよ、ずいぶん余裕じゃねぇか」
「余裕なんてないよ。ただ、朝から同じ話を長々と聞かされても困るってだけだ」
一瞬、茶羅木の笑みが薄くなった。
これまでなら曖昧に笑い、何を言われても受け流すだけだった優心が、決して強い言葉ではないにせよ、自分へ明確に言い返したことが気に障ったのだろう。
「・・・へぇ」
茶羅木は片方の眉を上げた。
「昨日、先公に何か言われたのか?それとも、あの生徒会長様か咲須にでも慰めてもらって、少しは自信がついたのかよ?」
優心は答えなかった。
寧を出されても、麗華を出されても、茶羅木が期待しているような反応だけは返すまいと、黙って鞄を机の脇へ置く。
その態度が、かえって茶羅木の苛立ちを煽ったようだったが、彼が次の言葉を口にするより先に、教室の別の場所から戸惑いを含んだ声が上がった。
「・・・あれ?」
窓際にいた男子生徒が教室内を見回し、何かを確かめるように首を傾げる。
「咲須さん、今日来てなくないか?」
その一言によって、優心と茶羅木の間へ集まっていた視線の一部が、教室中央付近にある空席へ移った。
咲須麗華の席だった。
鞄は置かれていない。
机も椅子も整えられたままで、本人が登校した形跡はどこにもなかった。
「本当だ。あの子、いつも朝早いのに」
「珍しいな。咲須さんって、こういう実技の日こそ休まないタイプだろ」
「遅刻じゃないのか?」
「いや、咲須さんが連絡なしで遅刻なんてするか?体調不良か、家の用事じゃないか?」
小さなどよめきが教室の各所へ広がり、それまで何となく存在していた朝の秩序が、彼女一人の不在によって僅かに歪んでいく。
咲須麗華は、単に成績の良い生徒ではない。
筆記と実技の両方で学年首位を維持し、同学年の中では頭一つどころか、それ以上に抜けた実力を持ち、何かと暴走しがちな茶羅木に対しても正面から釘を刺すことのできる、数少ない人間だった。
誰もが彼女を好いているわけではない。
その冷たい物言いを苦手とする者もいれば、圧倒的な才能へ嫉妬を抱く者もいる。
それでも、彼女が教室にいるという事実そのものが、茶羅木のような者へ無意識の抑止を働かせることができる。
だからこそ、その不在はただ一人分の空席ではなかった。
優心も無意識に、麗華の席へ視線を向けた。
昨日の放課後、屋上で交わした言葉が蘇る。
冷たい眼差し。
胸の内側へ踏み込むような問い。
自分の夢を笑わず、それでも無理だと断言した声。
そして最後に突きつけられた、大嫌いという言葉。
(・・・休み、なのか)
体調を崩したのだろうか。
それとも、本当に家の事情なのか。
昨日の屋上での出来事と関係があるはずはないと思いながらも、理由の分からない不安が、優心の胸へ薄く広がった。
一方で茶羅木は、麗華の空席を見つめたあと、ゆっくりと肩をすくめた。
「へぇ・・・あの優等生様が休みかよ」
口元へ浮かんだ笑みは、欠席した同級生を気遣うものではなく、自分を縛っていた鎖が偶然外れたことを喜ぶ者のそれだった。
茶羅木は机から軽く飛び降りると、床へ着地した靴底を一度鳴らし、そのまま真っ直ぐ優心の方へ歩いてくる。
数歩の距離を詰め、互いの顔が近づいたところで、周囲へ聞かせるためではない低い声へ変えた。
「運がいいな、瑞沢?今日は、あいつがいねぇ」
優心の眉が、僅かに動く。
「・・・それが何だよ」
「分かってんだろ?」
茶羅木は、さらに口元を歪めた。
「いつもみたいに、俺に向かって偉そうに止めに入る奴がいない。お前が困った顔をした時に、勝手に間へ割り込んで助けてくれる奴もいない・・・つまり今日は、お前がどこまでやれるのか、誰にも邪魔されずに見られるってわけだ」
「俺は、咲須に助けてもらうつもりなんてない」
「昨日は助けられてたじゃねぇか」
「それは・・・」
「安心しろよ。今日は誰にも邪魔させねぇから」
茶羅木は囁くような声のまま、愉快そうに目を細めた。
「お前が昨日みたいに他人へ守ってもらわなくても、本当に俺の前へ立てるのか、きっちり確かめてやるよ!」
その言葉に、優心の胸の奥で何かが引っかかった。
麗華がいないこと。
その不在を確認した茶羅木が、あまりにも露骨に機嫌をよくしたこと。
昨日の適性検査で過剰な出力を見せつけ、教師から制止されても反省する様子を見せなかった男が、今日の実技を心待ちにしていること。
それらは一つひとつを切り離して考えれば、単なる偶然や茶羅木の悪趣味で済ませられるものだったが、胸の中では別々だった不安が互いに結びつき、言葉にするにはまだ輪郭の曖昧な、嫌な予感へ変わり始めていた。
「茶羅木、お前・・・今日、何をするつもりだ?」
「何って、実技だよ」
茶羅木は何でもないことのように答える。
「学校で習ったことを使って、正々堂々、お前の実力を確かめる。それだけだろ?」
正々堂々という言葉が、彼の口から発せられた瞬間だけ、ひどく歪んだ響きを帯びた。
優心がさらに問い返そうとした、その時だった。
始業を告げるチャイムが、乾いた音を立てて教室中へ鳴り響いた。
寸前まで続いていた生徒たちの話し声は強引に断ち切られ、立っていた者たちは慌ただしく自分の席へ戻り、椅子を引く音や教材を取り出す音が一斉に重なる。
茶羅木は優心から顔を離すと、すれ違いざまにその肩を軽く叩いた。
「楽しみにしてるぜ」
そして数歩進んだところで足を止め、肩越しに優心を振り返る。
「今日こそは、ちゃんと俺の相手をしろよ」
口元には笑みがあった。
だが、その目は一切笑っておらず、そこに宿っているのは、冷たく濁った愉悦だけだった。
優心は何も答えなかった。
ただ自分の席へ向かいながら、麗華の空席をもう一度だけ見つめる。
朝の光は変わらず教室へ差し込み、窓際の机や床を穏やかに照らしている。
教室も。
教師が現れる前の慌ただしさも。
これから始まる授業も。
すべては昨日までと何一つ変わらない、ありふれた一日の始まりに見えた。
それでも優心の胸の奥では、何かが確実に狂い始めているという予感だけが、消えることなく静かに脈打っていた。




