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20/22

遭遇9

西へ傾いた夕陽が校舎の窓ガラスへ反射し、橙色の光を人気の薄れた廊下の奥まで長く引き伸ばしている。


生徒の多くが既に帰宅しているこの時間帯に聞こえてくるものといえば、一日の役目を終えつつある校舎が呼吸するように軋む音くらいだった。


そんな時刻にクラスの担任から呼び出しを受けた優心は、職員室の一角、教材や提出書類が整然と積み重ねられた机の前に立っていた。


対する担任は椅子へ深く腰を下ろし、胸元で腕を組んだまま、すぐには何も言おうとしなかった。


ただ、優心を見ていた。


今日の適性検査で何一つ反応を示さなかった生徒としてでも、教師の言うことへ素直に従う優等生としてでもない。


これから自分が告げようとしている言葉を、果たしてどのように受け止める人間なのかを見極めるように、その顔をじっと見つめていた。


「・・・瑞沢」


やがて担任は、長い沈黙を破って口を開いた。


低く、慎重な声だった。


「お前はな、学業面での成績については申し分ない。筆記試験の順位も安定して上位にいるし、授業態度も真面目で、提出物に不備があったこともほとんどない。それに、教師から何かを頼まれれば、どれほど面倒な雑務でも嫌な顔一つせず引き受けてくれる」


一つひとつ、優心という生徒の長所を確認するように並べていく。


「正直に言えば、我々のような教える側からすれば、理想的な生徒だ。お前のような人間ばかりなら、教師という仕事も随分と楽になるだろうな」


「・・・ありがとうございます」


優心は小さく頭を下げた。


だが、担任の声色に称賛だけではない何かが含まれていることには、既に気づいていた。


褒め言葉をいくつも重ねてから、最後に本当に伝えたいことを置く。


それは相手を傷つけまいとする大人が、言いづらい現実を告げる時に用いる”優しさ”という名の予防線だった。


「だからこそ、先生はな・・・」


担任は一度視線を逸らし、机の上へ置かれた書類の端へ目を落とすと、言葉の形を慎重に選ぶように間を置いた。


「瑞沢は、普通の学校で教職員を目指す道に向いているんじゃないかと思っている」


静かな声だった。


だが、その言葉は何の障害もなく優心の胸の奥へ入り込み、そこへ冷たい異物のように突き刺さった。


「・・・普通の学校、ですか」


聞き間違いであってほしいと願ったわけではない。


ただ、その言葉が何を意味しているのかを本人の口から明確に告げさせるため、優心はゆっくりと問い返した。


「ああ、普通の学校だ」


担任は頷いた。


その顔には悪意も侮蔑もない。


優心の将来を真剣に案じている者の誠実さが浮かんでいるからこそ、その言葉は茶羅木の嘲笑よりも拒絶しづらかった。


「何も、普通であることが悪いわけじゃない。それどころか、立派な道だと先生は思っている。子どもたちへ知識を教え、その成長を見守り、社会へ送り出していく仕事は、この国にとって必要不可欠なものだ」


組んでいた腕を解き、机の上で指を重ねる。


「お前の性格なら、生徒一人ひとりへ真摯に向き合えるだろう。人の痛みを無視できないし、努力している者を見下すこともしない。きっと生徒から信頼される、いい教師になれる」


その言葉は、決して嘘ではなかった。


優心の長所を正しく認め、彼が別の場所で生きる未来を真剣に考えた上での提案なのだろう。


しかし、どれほど美しい言葉を並べられても、その中心にある意味までは隠せない。


お前がいるべき場所は、ここではない。


お前は戦う側ではなく、戦う者たちを見送る側へ行くべきだ。


担任は、そう告げているのだ。


「・・・分かるだろう?」


優心が何も答えないのを見て、担任は僅かに声を落とした。


「この学園へ入学できたからといって、全員が戦創師になれるわけじゃない。むしろ、ここへ入ることなど始まりに過ぎないんだ。在学中に才能を伸ばせなかった者、適性が基準へ届かなかった者、実戦に耐えられないと判断された者は、途中で別の道へ進むことになる」


机へ肘を置き、組んだ両手の上へ顎を乗せる。


「瑞沢が目指している戦創師という道は、誰にでも開かれているように見えて、実際には最初から入れる者は限られている、極めて狭い門なんだ」


担任は優心の目から視線を外さず、はっきりと言った。


「戦創師は、夢じゃない。選別だ」


その一言が、夕陽に染まった職員室の一角へ静かに落ちた。


才能。


適性。


コスモの保有量。


制御精度。


瞬間的な判断力と、相手を傷つけることへの躊躇を切り捨てる戦闘勘。


「才能、適性、コスモ量、戦闘勘・・・そのどれか一つでも致命的に欠けていれば、戦場で生き残ることはできない。本人だけではなく、隣で戦う仲間まで危険に晒すことになる」


担任は目を細めた。


「志だけで届く世界じゃないんだ」


職員室の外を、誰かが通り過ぎていく足音が聞こえた。


その音が遠ざかると、二人の間には再び沈黙が残り、壁へ掛けられた時計の秒針だけが、やけに明瞭な音を立てながら時間を刻み続けていた。


優心は俯かなかった。


担任の視線を受け止めたまま、胸の内側へ押し込まれた言葉を一つずつ噛み砕き、やがて静かに口を開く。


「・・・先生は、俺には無理だと、そう言いたいんですか」


担任は迷わなかった。


「違う」


短く否定する。


その答えにほんの僅かな希望を抱く余地を与えた直後、教師はさらに残酷な言葉を続けた。


「向いていない、と言っている」


逃げ道のない断言だった。


無理だと言われたのなら、努力によって可能へ変えられるかもしれない。


だが、向いていないという言葉は、能力だけではなく、瑞沢優心という人間の在り方そのものが、戦創師という存在と噛み合っていないことを意味している。


「お前は、優しすぎる」


担任の声は、あくまで淡々としていた。


「誰かを傷つけることを恐れ、自分が傷つけば済む場面では、迷わず自分を犠牲にする。今日の実技前の件も聞いている。茶羅木の意図に気づいていながら、お前はあいつの誘いを受け入れたそうだな」


優心の指先が、僅かに動いた。


「それは・・・」


「困っているように見えたからか?断れば相手の立場が悪くなると思ったからか?それとも、自分さえ我慢すれば余計な争いを起こさずに済むと考えたのか?」


担任は、優心の返答を待たずに続ける。


「どの理由であろうと、戦場では通用しない」


机の上へ置かれた手が、僅かに強く組まれた。


「戦創師は、誰かを守るために戦う存在だ。市民を守り、仲間を守り、この国を守る。お前自身の理念を否定するつもりはないんだ。お前が抱いている志も、本来なら称賛されるべきものだろう」


そこで担任は、意識的に言葉を区切った。


「だが同時に、戦創師は守るために殺す側にもならなければならない」


夕陽が僅かに傾き、窓から差し込む橙色の光が、担任の顔へ深い陰影を刻んだ。


「相手が助けを求めていても、それが罠なら斬らなければならない。敵にも家族がいると理解していても、背後にいる市民を守るためなら引き金を引かなければならない。昨日まで仲間だった者が敵へ回ったなら、躊躇なく止める覚悟が必要になる」


声を荒らげてはいない。


しかし、その言葉の一つひとつには、教科書には記されない戦場の現実が染み込んでいた。


「人を傷つける覚悟のない者に、誰かを守る資格はない。少なくとも、戦創師という立場においてはな」


優心の拳が、ゆっくりと握られた。


爪が掌へ食い込む。


その手は微かに震えていたが、それが悔しさによるものなのか、怒りによるものなのか、それとも自分の中へ押し込めてきた何かが限界へ達しようとしているからなのか、それは優心自身にも分からなかった。


「・・・それでも、俺は」


掠れた声を絞り出す。


しかし、その言葉が形を得るより早く、担任は静かに遮った。


「諦めろ、瑞沢」


その声音には、迷いがなかった。


「それがお前のためだ」


優心を傷つけるためではない。


未来を奪うためでもない。


無謀な道へ進み、取り返しのつかない傷を負う前に、別の可能性へ目を向けさせようとする、教師としての善意から出た言葉だった。


だからこそ、優心には耐え難かった。


茶羅木のような人間から向けられる嘲笑なら、相手にしなければいい。


測定石の沈黙なら、自分が努力を続けることで抗える。


だが、自分のことを認め、心配し、善意を持って接してくれる人間から「諦めろ」と言われることは、これまで積み重ねてきたすべてを”優しさ”の名のもとに、静かに否定されることに等しかった。


沈黙が落ちた。


時計の秒針だけが、変わらぬ間隔で音を刻んでいる。


優心は俯いたまま、しばらく動かなかった。


担任は、それを自分の言葉が届いた証だと思ったのかもしれない。


あるいは、優心が現実を受け入れるまで、黙って待とうと考えたのかもしれない。


やがて優心の口から、低く、小さな声が漏れた。


「・・・嫌です」


それは聞き逃そうと思えば、聞き逃せるほど静かな声だった。


だが、その中には、これまで教師の言葉へ従い続けてきた優心が初めて示す、明確な拒絶があった。


担任の眉が、僅かに動く。


「・・・何だと?」


優心はゆっくりと顔を上げた。


その瞳には、先ほどまで浮かんでいた迷いも、傷つけられた者の弱々しさもない。


長い時間をかけて押し殺してきた熱が、堰を切ったように宿っていたのだ。


「無理だと決めるのは、先生じゃありません」


担任の視線から、一歩も退かない。


「俺です」


声は決して大きくない。


それでも、今までのどの言葉よりも明確に、職員室の静寂を震わせた。


「先生の言っていることが、間違ってるとは思いません。才能が必要なのも、コスモがなければ戦えないのも、志だけで人を守れるほど現実が甘くないのも分かってます」


握り締めた拳は、まだ震えている。


だが、今度はそれを隠そうとはしなかった。


「今日、測定石が何も示さなかったことも、俺が戦創師に向いていないように見えることも、全部分かってます。分かっているからこそ、俺は毎日鍛えて、勉強して、自分に何ができるのかを探してるんです」


「・・・瑞沢」


「それを諦めるかどうかまで、他人に決められたくない」


優心の言葉には、これまでのような愛想笑いも、相手へ不快な思いをさせまいとする遠慮もなかった。


「それに、人を傷つける覚悟がなければ守れないなんて・・・そんなことは、もう小学生の時には学んでます」


担任の表情が変わった。


言葉そのものの強さではない。


その裏に何があるのかを、初めて意識した者の顔だった。


小学生の頃。


七夕の悲劇。


家族を失い、人ではない何かが命を奪っていく光景を目の前で見ながら、ただ守られることしかできなかった少年。


優心が、なぜ人を守ることへ執着するのか。


なぜコスモを持たないと分かっていながら、戦創師という道へしがみつくのか。


教師はそれまで、その理由を理想に憧れる少年の幼さとしてしか見ていなかったのかもしれない。


だが、目の前にいる優心の瞳には、幼い悪夢だけでは説明できない、焼けついた記憶の色があった。


「俺は、殺すことが怖くないなんて言いません」


優心は続けた。


「誰かを傷つけるのが正しいとも思わないです。できることなら、誰も傷つけずに終わらせたい。でも、それで守れない命があるなら・・・その時に何を選ばなきゃいけないのかくらい、分かってるつもりです」


一度、息を吸う。


「それでも俺は、できる限り誰も見捨てたくない。それが戦創師に向いていないと言われる理由なら、向いていないままで強くなります」


それは合理的な答えではなかった。


戦場の現実を知る者からすれば、あまりにも青くて、危うく、いずれ本人を破滅へ導きかねない理想論だった。


だが同時に、誰かから借りた言葉でも、英雄譚に浮かされた子供の虚勢でもない。


瑞沢優心という青年が、自分の痛みと、失った者たちの記憶から選び取った、生き方そのものだった。


担任は言葉を失った。


目の前にいるのは、これまで従順で、礼儀正しく、扱いやすい生徒だと思っていた青年ではない。


相手を立てるために自分の意見を引っ込め、傷ついても笑って済ませるだけの、物分かりのいい子供でもない。


譲れないものを胸の奥へ抱え、そのためならば教師の言葉さえ正面から拒絶し、自らの意思で道を選ぼうとする一人の人間だった。


窓の外では夕陽がさらに沈み、橙色だった光が次第に深い赤へ変わり始めている。


その赤い光の中で、担任は初めて瑞沢優心という青年を、生徒名簿に記された経歴や適性検査の結果ではなく、一人の戦創師を志す者として見つめ直すように、長く沈黙した。

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