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19/22

遭遇8

屋上へと続く重たい鉄扉を押し開けた瞬間、校舎の内部へ閉じ込められていた温度を根こそぎ奪うような冷たい風が吹き込み、優心の頬と、首元に巻かれた白い包帯を容赦なく撫でていった。


秋も終わりへ差しかかった夕刻の空気は乾いており、肌へ触れる冷たさには、間もなく訪れる冬の気配が混じっている。


生徒たちの声や椅子を引く音で満ちていた校舎から、薄い鉄扉一枚を隔てただけだというのに、屋上はまるで人間の生活から切り離された空白のような静寂に包まれている。


聞こえるものといえば、フェンスを細かく震わせる風の音と、遠くの街から届く輪郭の曖昧な喧騒くらいだった。


フェンスの向こうには、夕陽に染まり始めた街並みが広がっている。


校舎や住宅の屋根は鈍い赤に照らされ、そのさらに彼方では、沈みゆく太陽が空と地上の境界を焼き焦がすように、暗い朱色の光を滲ませていた。


その景色を背負うようにして、咲須麗華はすでに屋上の中央に立っていた。


風に長い髪を揺らされながら、彼女は優心が来たことへすぐに反応するでもなく、フェンスの向こうに広がる街を静かに見下ろしている。


その横顔は夕陽を受けてもなお冷たい。


優心は背後で鉄扉が閉まる重い音を聞きながら数歩だけ近づき、それでも互いの間に一定の距離を残したところで足を止めた。


「・・・それで、話って何なんだよ」


呼び出された側としては当然の問いだったが、麗華はすぐには答えない。


そして優心もまた、その沈黙に耐えかねたように軽く肩をすくめて言葉を続けた。


「わざわざ屋上なんかに呼び出してまで、俺に言わなきゃいけないことって何だ?普通に教室で言えば済む話じゃないのか?なんなら、実技前のあの場で言ってくれてもよかっただろ」


責めてるわけではない。


ただ、理由も告げられないまま半ば強制的に呼び出されたことへの戸惑いを、冗談めいた口調で軽くしようとしただけだった。


しかし、麗華は笑わなかった。


ゆっくりと顔を動かし、視線だけを優心へ向ける。


その瞳は、夕陽の赤さを映しているにもかかわらず、冬の水面のように冷たかった。


「・・・ねぇ」


前置きもなく、麗華は口を開いた。


「前からずっと思っていたんだけど、あなたって・・・わざと、自分が不幸になるように動いているの?」


唐突すぎる問いに、優心は一瞬だけ目を瞬かせた。


「・・・いきなりだな」


何とか苦笑いを作り、困ったように額へ手をやる。


「藪から棒っていうか・・・前置きなしでそんなことを言われると、さすがにどう答えたらいいのか分からないな」


「いいから、答えなさい。私は、あなたが自分をどう思っているのかを聞いているのよ」


麗華は優心の戸惑いなど意に介さず、靴底を硬い床へ鳴らして一歩近づいた。


「だって、そうでしょう?何でもかんでも真面目にやって、教師から頼まれたことは断らず、どれだけ面倒でも、嫌な顔一つしないで引き受ける。誰かに何を言われても笑って流して、自分が損をすれば丸く収まると思っている」


一つずつ罪状を読み上げるような口調だった。


「今日だってそうよ。茶羅木のあんな誘い、普通なら断るでしょう。あいつが何を考えてあなたを誘ったのか、まさか本当に分からなかったわけではないわよね?」


「それは・・・」


「私が止めなかったら、あなた・・・自分がどうなっていたか分かっているの?」


麗華の声が、僅かに強くなる。


「あいつは体調なんて悪くなかった。あなたを練習相手にしたかったわけでもない。ただ、抵抗できない相手を一方的に叩きのめして、楽に単位を取ろうとしていただけよ。あなたがそれを受け入れていたら、今頃は保健室のベッドの上で無様に寝かされていたに決まっているでしょう」


逃げ道を塞ぐような視線を向けられ、優心は僅かに顔を逸らした。


「ああ・・・それは、確かにそうかもしれないな」


否定する材料はなかった。


茶羅木の意図には気づいていた。


自分が傷つく可能性も、分からなかったわけではない。


それでも受け入れた。


そして、自分の選択が正しくないことを自覚しているからこそ、優心は麗華の言葉に反発する代わりに、小さく息を吐いてから、ほんの僅かに口元を緩めた。


「・・・とにかく、さっきは助かったよ。ありがとな」


そう言って、軽く頭を下げる。


麗華は一瞬だけ目を細めた。


怒鳴り返されることを予想していたのか、それとも言い訳を並べられると思っていたのか。


素直な感謝を向けられたことが、かえって彼女の苛立ちを強めたようだった。


「・・・お礼を言えば済む問題じゃないでしょう」


低く吐き捨て、腕を組む。


「この際だから、遠慮なく言わせてもらうわ。あなたみたいに、何にでも首を突っ込んで、誰にでもいい顔をして、相手の悪意まで気づいてるのに自分が我慢すれば済むと思って、都合よく使われるだけの馬鹿を見ていると・・・」


一度、そこで言葉を切った。


風が二人の間を抜け、麗華の髪を大きく揺らす。


「すごく、イライラするの」


はっきりとした拒絶だった。


飾ることも、柔らかく言い換えることもない。


しかし、優心は怒らなかった。


優心は、自分の中で何かを確認したように、僅かに目を伏せて笑った。


「・・・やっぱり、そうだよな」


「何がよ」


「他人の目には、そう映っているんだなって思っただけだよ。何でも引き受ける都合のいいやつで、自分から損をしに行ってる馬鹿に見えるんだろうなって」


麗華の眉が、僅かに動く。


「ふーん・・・意外ね」


彼女は優心を値踏みするように見つめながら、組んだ腕に少しだけ力を込めた。


「てっきりあなた、自分が立派なことをしていると思い込んでいるタイプだと思っていたわ。人を助けている自分に酔って、自分だけは周囲より善良だと勘違いしている、自己満足の塊みたいな人間」


「ずいぶんな言われようだな」


「でも、違うみたいね。少なくとも、自分が周囲からどう見られているか、くらいは理解している」


優心は肩をすくめた。


「まぁな・・・俺だって、何も考えずに動いてるわけじゃないさ。自分がどう見られてるかくらいは分かるし、善人だと思われてるなんて考えたこともない。たぶん・・・馬鹿にされてることの方が多いだろうな」


「だったら、もっとやりようがあるでしょう」


麗華は大きく息を吐き、苛立ちを抑えるように優心を睨んだ。


「分かっていて、どうしてわざわざ損をする方ばかり選ぶの?頼まれたから引き受ける。絡まれたら耐える。利用されると分かっていても断らない。あなたは一体、そんなことを続けて何になりたいの?」


その問いを受けた瞬間、優心は苦笑いをやめた。


彼は答えを持っていなかったわけではない。


その答えは幼い頃から変わらず、彼の奥底に根を張り続けている。


ただ、それを他人へ口にすることには、今でも少しだけ勇気が必要だった。


「仕方ないんだよ」


優心は夕陽の向こうへ視線を移しながら、静かに言った。


「俺の夢に近づくためには、そうするしかないから」


「夢?」


麗華の目が細くなる。


「ああ」


「何よ、その夢って」


優心は一瞬だけ口を閉ざした。


だが、それは恥ずべき夢ではない。


誰かに理解されなくても、笑われても、彼が生き方を変える理由にはならない。


「・・・仮面のヒーローだ」


 風の音だけが、屋上を通り抜けた。


「・・・え?」


麗華の眉が、はっきりと歪む。


「えっと・・・仮面の・・・何?」


「ヒーローだよ」


優心は、彼女の反応を予想していたように苦笑した。


「仮面をつけて、誰にも知られない場所で人を助けて、困ってるやつがいたら迷わず手を差し伸べる。見返りも、感謝も、名前を覚えてもらうことさえ求めずに、ただ助けを必要としている人の前に立っていられるような・・・そんな正義のヒーローになりたい」


優心の視線は、沈みゆく夕陽の向こうへ向けられていた。


「それで、このどうしようもない世の中を、ほんの少しでも変えられたらって思ってる」


麗華は、しばらく何も言わなかった。


呆れたのか。


理解できなかったのか。


あるいは、その言葉に何か別のものを感じたのか。


やがて彼女は、感情の読めない声で短く息を吐いた。


「ふーん・・・随分とご立派な夢を抱えているのね」


優心は僅かに眉をひそめた。


「・・・笑わないんだな」


「何?」


「いや、大抵こういう話をすると、馬鹿にされるか、引かれるか、そのどっちかなんだよ。高校生にもなってヒーローなんて子供っぽいとか、現実を見ろとか・・・茶羅木みたいな反応が大半だ」


麗華は不愉快そうに鼻を鳴らした。


「人の夢を笑うようなやつはね。馬に蹴られて、そのまま犬にでも食べられればいいのよ」


あまりにも平然と言ってのけるので、優心は思わず吹き出した。


「ははっ、やめろって。そんなものを食わされたら、今度は犬が腹を壊すだろ」


麗華は一瞬だけ目を瞬かせた。


それから、呆れたように息を吐く。


「・・・冗談に決まっているでしょう」


「そういう顔で言われると、冗談に聞こえないんだよ」


「あなたが勝手に真に受けただけよ」


ほんの一瞬だけ、二人の間に張り詰めていた空気が緩んだ。


だが麗華はすぐに表情を引き締め、優心を真っ直ぐに見据え直す。


「ヒーロー、ね」


先ほどよりも低い声音だった。


「志そのものは、立派だと思うわ。困っている人間を助けたいという考えを、私は否定するつもりはない」


そして、一切の躊躇いもなく告げる。


「でも、あなたには無理よ」


分かっていた。


そう言われる可能性が高いことも。


コスモを持たない自分が、戦創師を目指していると知れば、誰もが同じような結論へ辿り着くことも。


それでも、実際に目の前で断言されると、優心の肩は僅かに落ちた。


「はは・・・手厳しいな」


いつものように笑って流そうとする。


しかし麗華は、その笑みを見逃さなかった。


「ねぇ」


声の温度が、さらに下がった。


「あなたは、悔しくないの?」


優心の表情が固まる。


「コスモがない。それが戦創師を目指す人間にとって、どれほど致命的な欠陥なのか、あなた自身が一番理解しているはずでしょう?今日だって、大勢の前で測定石に拒絶されて、教師から”諦めろ”とまで言われた」


一歩、麗華が距離を詰める。


「それでも笑って、何でもないような顔をして・・・まだ、ヒーローになりたい、なんて口にする。その神経が、私には理解できない」


「・・・別に、何も感じてないわけじゃない」


「だったら、どうして笑うの?」


その問いだけは、他の言葉よりも鋭かった。


「悔しいなら、悔しいと言えばいいじゃない。腹が立つなら、怒ればいい。傷ついたなら、傷ついた顔をすればいいでしょう?どうしてあなたは、何もかも自分の中へ押し込んで、周りには平気なふりをするの?」


「それは・・・」


「もしかして、自分のことを悲劇の主人公だとでも思っているの?」


冷たい視線が、優心を射抜く。


「誰にも理解されず、それでも健気に努力を続ける可哀想な自分。才能はないけれど、心だけは誰よりも綺麗で真っ直ぐな自分。そんな、物語の主人公にでもなったつもりでいるのなら、勘違いしないで」


麗華は一語ずつ、優心の胸へ打ち込むように言った。


「この世界でコスモを授からなかった人間は、あなた一人じゃない。創技を使えず、夢を諦めた人間も、才能の差に打ちのめされて別の道へ進んだ人間も、数え切れないほど存在するわ」


風が強く吹き抜け、フェンスが低く唸った。


「あなたの境遇は不幸かもしれない。でも、それだけで特別になれるわけじゃないわ。自分だけが世界から理不尽を押しつけられた被害者だなんて考えているなら、それはただの思い上がりよ」


優心は何も答えられなかった。


自分を特別だと思ったことなどない、と反論することはできた。


悲劇の主人公になったつもりもない、と否定することもできた。


だが、麗華が本当に怒っている理由は、言葉の表面とは別のところにある気がした。


彼女は優心の夢そのものを笑わずに、志は立派だと認めた。


それでも彼女は怒っている。


優心が傷つけられることを当然のように受け入れ、その痛みさえ笑って誤魔化し、自分自身の価値を誰よりも軽く扱っていることに。


しかし、そこまで理解したとしても、優心には彼女へ返す言葉が見つからなかった。


麗華は黙り込んだ優心を見つめていた。


その瞳に浮かんでいるのは、単純な侮蔑ではない。


怒り。


苛立ち。


失望。


そして、本人さえ認めたくない何かが、複雑に混ざり合っているように見えた。


「・・・私、あなたみたいな人」


麗華は、その細く整った眉を歪めた。


一拍の沈黙。


夕陽はすでに街の向こうへ半ば沈み、二人の足元から伸びる影を、屋上の床へ長く引き延ばしていた。


「大っ嫌い」


その一言だけが、冷たい風の吹く屋上へ重く落ちた。


声は決して大きくなかった。


それでもその拒絶は、どのような怒声よりも鮮明に優心の胸へ届き、逃げ道を与えないまま、深く突き刺さったのであった。

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