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16/22

遭遇5

玄関の扉を閉めた優心が向かったのは、敷地の外へ通じる門ではなく、本邸のすぐ隣にひっそりと建つ、年季の入った二階建ての倉庫だった。


昼間であれば風雨に晒された古い物置にしか見えない建物も、月明かりさえ雲に隠れた夜の中では、そこだけが周囲の時間から切り離されたように、奇妙な重い存在感を放っていた。


外壁には雨染みが残り、木材は湿気と乾燥を繰り返したことで僅かに反り返り、扉の蝶番や取っ手の周囲には赤茶色の錆が浮いている。


御八家の本邸に隣接する建物としては、あまりにも不釣り合いに見えるが、優心にとって、ここは不要な品々を押し込めるための倉庫などではなかった。


優心はジャージのポケットから小さな鍵を取り出し、使い慣れた手つきで鍵穴へ差し込んだ。


内部で錆びた金属同士が擦れ合う、ざらついた音が響く。


カチリ、と錠が外れた。


しかし、それだけで扉が開くことはない。


優心は取っ手を握ると、普通に手前へ引くのではなく、扉全体を斜め上へ持ち上げるように僅かな力を加え、それから身体の重心を後ろへ移した。


途端に、ギィィ・・・と、長い年月を苦しげに吐き出すような鈍い軋みを響かせながら、木枠へ噛み込んでいた扉がゆっくりとこちら側へ開いていく。


随分とガタのきている扉だった。


力任せに引けば、木枠へ噛み込んだまま少しも動かないが、蝶番の歪みと扉の重さに合わせて角度を変えてやれば、驚くほど素直に開いてくれる。


その癖を知っているのは、優心一人だけだった。


この倉庫が優心のための場所となったのは、彼が中学校へ進学して間もない頃のことである。


当時の優心は、今以上に必死になって身体を鍛えていた。


いや、鍛えていたという言葉だけでは、あの頃の姿を正確には表せないかもしれない。


身体を少しずつ強くすることを楽しんでいたのではない。


どこかを痛め、呼吸が続かなくなり、足腰が立たなくなるまで自分を追い込まなければ、一日を終える資格さえない、とでも思い詰めたように、来る日も来る日も何かに取り憑かれたような鍛錬を繰り返していたのだ。


そんな姿を見かねたのか、あるいは、その執念の奥に、本人さえ気づいていない可能性を見出したのか。


誇大は、長年にわたって集めてきた骨董品や古書、由来すら分からない異国の彫刻、古びた武具や美術品を別の保管場所へ移し、空になった二階建ての建物を丸ごと優心へ差し出した。


「好きに使っていい」


誇大が口にしたのは、ただそれだけだった。


なぜ自分のために、ここまでしてくれるのか。


これだけの収集品を移すために、どれほどの手間と費用をかけたのか。


本当に一棟すべてを、自分のような子供へ任せていいのか。


当時の優心は何度も尋ねようとしたが、誇大は詳しい説明をせず、ただ穏やかに笑いながら、その小さな鍵を彼の手の中へ握らせた。


鍵そのものは軽かった。


けれどそこには、何かに追い立てられるように自分を痛めつけている息子を無理に止めるのではなく、せめて心ゆくまで自分自身と向き合える場所を与えようとする、一人の父親の言葉にならない思いが込められていた。


その重さを、優心は今でも忘れていない。


だからこそ、この場所を大切にしていた。


扉の建てつけが悪くても、床板が軋んでも、冬になれば隙間から冷気が入り込み、夏になれば立っているだけで汗が噴き出すほど暑くなっても、誇大へ修理を頼むことはなかった。


自分だけが知っている扉の開け方も、床に刻まれた無数の傷も、錆と汗と古い木材が混じった匂いも、この場所で過ごしてきた時間の一部に思えたからだ。


何より、これ以上迷惑をかけたくなかった。


誇大たちは、住む場所も、日々の食事も、学校へ通う権利も、そして家族の名さえ与えて、すべてを失った優心を人並みの生活へ引き戻してくれた。


その恩に何一つ返せていない自分が、僅かな不便まで取り除いてほしいと求めることなど、優心はしたくなかったのである。


優心は、我慢することが得意な青年だった。


もっとも、それは生まれ持った美徳ではなく、あの夜を境に身につけたもの。


欲しいものがあっても口にせず、辛いことがあっても周囲へ心配をかけないように笑い、誰かへ不満を抱いても、相手にも事情があるのだと飲み込む。


そして、自分が少し耐えれば済むのなら、それでいいと考える。


ゲームや漫画といった歳相応の娯楽からも自然と距離を置き、友人たちが休日の予定について話している間も、自分は勉強と鍛錬を優先し、できる限り他人のために動ける人間であろうと努め続けてきた。


誰かに強制されたわけではない。


誇大から遊ぶなと言われたことも、寧から努力を続けろと命じられたこともなかった。


ただ優心自身が、そう在るべきだと決めたのだ。


記憶の中には、今も一人の背中が焼きついている。


炎と瓦礫の向こうに立ち、自分よりも遥かに巨大で、人間の理解など最初から受け入れていない異形を前にしながら、それでも一歩も退かず、幼い優心を背後へ庇った仮面のヒーロー。


恐怖を感じていなかったはずはない。


勝てる確信があったとも思えない。


それでも彼は、自らの命を危険へ晒してでも、守るべき命の前へ立った。


あの背中が優心を救い、同時に、その後の人生を決めた。


誰かに救われた命なら、いつか誰かを救うために使いたい。


何もできず、ただ守られることしかできなかったあの夜の自分を、二度と繰り返したくない。


その願いは、優心を未来へ進ませる灯火であると同時に、自分だけが穏やかに生きることを許さず、立ち止まるたびに背中を押し続ける、目には見えない枷でもあった。


「・・・さて、始めるか」


誰へ聞かせるでもなく小さく呟き、壁際の照明スイッチを押す。


数度の明滅を経て白い蛍光灯が灯ると、使い込まれたダンベル、補修の跡が残るトレーニングベンチ、天井から吊り下げられたサンドバッグ、床一面を覆う黒いマットが、冷たい光の下へ浮かび上がった。


壁には、身体の構造や関節の可動域を記した資料が貼られ、その下には日々の訓練内容を細かく書き込んだノートが積み上げられている。


優心はタオルと飲み物を壁際へ置き、首や肩を回して筋肉をほぐすと、足首と膝の状態を一つずつ確かめ、すぐに日課のメニューへ取りかかった。


腕立て伏せ百回。


腹筋百回。


背筋百回。


スクワット百回。


それらを一セットとし、合計三セット。


炎を生み出すわけでも、大地を砕くわけでも、コスモによって人間の限界を踏み越えるわけでもない、あまりにも原始的で地味な反復だった。


それでも優心は、一回たりとも雑には行わない。


腕を曲げる角度、呼吸のタイミング、腰へ余計な負担をかけない姿勢、膝の向き、足裏へかかる重心まで意識し、疲労によって形が崩れ始めれば、速度を落としてでも一回ごとの正確さを保ち続けた。


二セット目へ入る頃には、腕と腹部の奥へ熱が溜まり始めた。


三セット目には、汗が黒いマットへ幾つもの染みを作り、肺はより多くの酸素を求めて激しく動いていたが、それでも優心は、決めた回数を終えるまで止まらなかった。


苦しさに負けて足を止めた瞬間、あの夜と同じように、恐怖の前で何もできずに立ち尽くした自分へ戻ってしまうような気がするからだ。


最後のスクワットを終えた頃には、シャツが背中へ張りつき、全身の筋肉が荒い呼吸に合わせて熱く脈打っていた。


優心は壁へ背を預けるように腰を下ろし、五分間の休憩へ入ると、程よく溶けたウィダーインゼリーを口に含んだ。


「・・・っ、生き返るな」


冷たいゼリーが、火照った口内から喉へ流れ込んでいく。


優心はアクエリアスも少しずつ飲み、脈拍と呼吸の回復を確かめながら身体を休めたが、完全に冷えるほど長く休むことはせず、五分が過ぎると同時に立ち上がった。


次は、三十分間のシャドーボクシング。


床の中央へ戻った優心は、左右の足を開いて重心を落とし、顎を引きながら両拳を構えた。


正面に敵はいない。


それでも彼の意識の中には、自分より一回り大きな相手が確かに立っていた。


放たれた右拳を上体を沈めて潜り抜け、懐へ踏み込みながら脇腹へ左拳を打ち、続けて顎を狙った右の掌底へ繋げる。


相手が下がっても深追いはしない。


一度距離を測り直し、横から迫る蹴りを前腕で受け流して体勢を崩す。


すべては想像に過ぎないが、ただ闇雲に拳を振るうだけでは意味がない。


どの距離で攻撃を避け、どこへ反撃し、それを防がれたなら次にどう動くのか、一つ一つの動作へ明確な意図を持たせながら、存在しない敵との攻防を繰り返していく。


拳を振るうたび、優心の脳裏には、否応なくあの夜の光景が蘇った。


炎に包まれた町。


崩れ落ちていく建物。


鼻を突いた血と煙の臭い。


差し伸べながら届かなかった手と、自分を庇って帰らなかった家族、そして絶望の真っ只中で自分の前へ立った仮面の男。


あの時、優心は何もできなかった。


幼い子供だったのだから当然だと、誰もが許してくれるだろう。


だが、他人が許してくれたところで、自分自身が納得できるかどうかは別の問題だった。


もう二度と、誰かが失われていく光景を、ただ見ているだけの存在にはなりたくない。


その思いが、一つ一つの拳を前へ押し出していた。


現代は、コズミック・エネルギ─────通称コスモと、それを制御・増幅する兵装コスモ・コンダクター、すなわちCCUによって、戦闘の在り方そのものが塗り替えられた時代である。


人は自らの内側に宿るコスモを武器へ流し込み、鋼鉄の刃へ戦車砲すら凌駕する破壊力を与える。


肉体へ纏わせれば、常人には捉えられない速度を獲得し、炎や水、風や大地といった現象すら、己の意思で現実へ引きずり出すことができる。


優心も、瑞沢家から正式なCCUを与えられていた。


だが、本来の力を引き出すことはできない。


理由は、あまりにも単純だった。


優心の体内には、コスモが一片たりとも存在しないからだ。


どれほど才能に乏しい者であっても、大多数の人間は微弱ながらコスモを宿しており、CCUによる補助さえあれば、最低限の出力を得られる可能性を持っている。


しかし優心は、何度検査を繰り返しても、完全なゼロという結果しか示さなかった。


使用者のコスモを受け取り、その流れを整え、増幅することで力を発揮するCCUも、流し込むものを持たない優心の手では、精密な機構を内蔵した重い金属にしかならない。


だから周囲は、身体を鍛えても無意味だと言う。


筋力も持久力も、コスモによる身体強化の前では誤差に過ぎない。


どれほど拳を速くしても相手には追いつけず、どれほど頑丈な身体を作っても創技を受ければ一撃で終わる、と。


その理屈が正しいことを、優心も痛いほど理解していた。


それでも、鍛えることだけはやめなかった。


コスモを持たない自分に、何ができるのか。


何を身につければ、この世界で戦えるのか。


学友たちと同じ道を歩いても、そもそも入口へ立つことさえできないのなら、自分だけの道を探すしかない。


コスモへ頼らない身体操作。


僅かな予備動作から攻撃を読む観察力。


極限状態でも思考を止めない精神力。


痛みと恐怖の中でも、守るべきものの前から退かない意志。


前例も教本も存在しない以上、自らの身体を実験台としながら、一つずつ積み重ねていくほかなかった。


どれだけ鍛えれば届くのかも、そもそも届く場所が存在するのかさえ分からない。


それでも、何もしないまま諦めるよりは、遥かにましだった。


優心は仮想の拳を左へ受け流し、懐へ踏み込むと、顎を狙って右拳を振り抜き、壁際の鏡へ触れる寸前で止めた。


「・・・まだまだ、だな。あの人は、もっと速かった」


肩を大きく上下させ、鏡に映る汗まみれの自分を見つめながら呟く。


優心が追い続けているのは、仮面のヒーローが見せた速度や強さだけではない。


恐怖を前にしても迷わず、自分より弱い命を守るために一歩も退かなかった、その在り方だった。


「足りないなら・・・もっとやるだけだ」


届かないのなら、届くまで近づけばいい。


優心は再び拳を構えた。


夜の倉庫に、拳が空気を切り裂く音が響く。


一度。


さらに一度。


白い蛍光灯の下で、優心は誰にも見られることなく、存在しない敵へ向かって拳を振るい続けた。


いつか本当に、誰かを守れるその日まで。

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