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15/22

遭遇4

軽めの夕食を済ませた優心は、自分の食器を流しへ運んだあと、すぐに二階の自室へ戻った。


そして机の上に広げた教科書とノートの前へ腰を下ろし、今日起きた茶羅木との一悶着を、今だけはすべて紙面の外へ追いやるように、シャープペンシルを握った。


カリ、カリ、と、芯が紙の上を引っ掻く乾いた音だけが、夜の静寂に沈んだ部屋へ規則正しく響く。


窓の外ではすでに街の大部分が闇の中へ没していたものの、時折道路を横切っていく車のヘッドライトが、カーテンの隙間から淡い光を差し込ませていた。


授業で出された課題は、普段のものより明らかに難易度が高かった。


教科書へ記載された公式を当てはめれば解ける単純な問題ばかりではなく、複数の知識を組み合わせなければ解法への入口すら見つからないものや、意図的に紛らわしい条件を混ぜることで思考の精度を試すような設問まで含まれていたのだ。


優心は一つの式を書いては消し、参考書の該当箇所を探しては教科書へ戻り、時には数分前に自分で書いた途中式を最初から見直しながら、出口の見えない迷路を手探りで進むような試行錯誤を繰り返していた。


(・・・難しいな、今日のは)


小さく息を吐き、凝り始めた首を軽く回す。


それでも、手を止めようとは思わなかった。


答えに辿り着けないことそのものより、分からないまま途中で投げ出すことの方が、優心にとってはずっと気持ちが悪かったからだ。


ふと脳裏を過ぎったのは、同じクラスに在籍している茶羅木の姿だった。


茶羅木は、このような課題をまともに提出することがほとんどない。


そして、教師から注意されても悪びれる様子すら見せず、座学の授業中も机へ突っ伏して退屈そうに時間をやり過ごしている。


そのくせ、いざ実技となれば、その不真面目さを帳消しにして余りある成果を当然のように叩き出す。


コスモの保有量。


制御精度。


創技の威力。


戦闘における判断の速さ。


そのような戦創師として最終的に重視される能力において、茶羅木は紛れもなく優秀であった。


いかに素行へ問題があろうとも、その実力が学園にとって無視できない価値を持っている以上、教師たちも最後の一線では強く出きれない。


(・・・あいつはあいつで、あれで通用してるんだよな)


それは決して茶羅木への憧れではなく、羨望ですらなかった─────が、それでも、努力の向け方を間違えた瞬間に何も残らなくなる自分と、多少の不真面目ささえ実力によって押し通せる茶羅木との差を意識せずにはいられなかった。


だが、自分は茶羅木とは違う。


優心には、他者を黙らせるほどのコスモもなければ、たった一度の実技で周囲の評価を覆すような圧倒的な才能もない。


そして何より、この学園へ在籍していること自体を疑問視する者たちへ、自らの価値を分かりやすく証明する手段がなかった。


だからこそ授業へ真面目に取り組み、与えられた課題をこなし、教師から頼まれたことも可能な限り断らず、誰にでもできることを、誰よりも丁寧に積み重ねてきた。


それが戦創師としての資質を証明するものではないことくらい、優心自身が最もよく理解している。


だが、それでも積み重ねるしかなかった。


何か一つでも手を止めれば、その瞬間、自分がこの場所へ立っている根拠まで失ってしまうような気がしたからだ。


己の価値を才能ではなく、態度と結果と信用によって形作る。


それが、瑞沢優心という青年が、選ばれた者たちの集う学園で辛うじて確保した、自分なりの立ち位置だった。


そうして一問ずつ、亀の歩みのように課題を片づけ、最後の解答欄へ答えを書き込んだ頃には、窓の外を覆っていた闇はさらに深くなり、家の中から聞こえていた微かな生活音も、いつの間にかほとんど消えていた。


「・・・よし」


優心はシャープペンシルを机へ置くと、深く息を吐きながら椅子の背もたれへ身体を預けた。


だが、胸にあったのは大きな達成感というよりも、ようやく終わったという静かな安堵であった。


長時間同じ姿勢を続けていたせいで固まった肩を何度か回したあと、解き終えた課題を鞄へしまい、教科書と筆記用具を明日の時間割に合わせて整えた。


そして、時計へ目を向ける。


彼がまだ眠るにはまだ早い時間である。


優心は制服からジャージへ着替えると、屈伸をして軽く身体をほぐし、机の脇へ置いてあったタオルを肩へかけようとして、洗面所に予備があったことを思い出した。


自室の扉を開けると、廊下は薄暗かった。


壁際の足元灯だけが、夜の家の輪郭を最低限照らす。


昼間には何の変哲もないはずの階段や扉が、光の届かない部分だけ別の形を隠しているようにも見えた。


優心は洗面所へ立ち寄り、引き出しの中から畳まれたタオルを一枚取り出したあと、なるべく大きな足音を立てないよう、一段ずつ静かに階段を降りていった。


別に、誰かが眠っているわけではない。


それでも夜の静けさを壊すことに、どこか後ろめたさを感じた。


リビングへ足を踏み入れた瞬間、視界の端で動いたものがあった。


顔を向ける。


テーブルに座っていた寧と、目が合った。


時間にすれば、ほんの一瞬だった。


だが、互いが互いの存在へ確かに気づき、何かを言おうとすれば言えたはずの、決して短すぎない間であった。


それでも次の瞬間には、優心も寧も、何事もなかったように視線を逸らしていた。


「・・・」


「・・・」


言葉はなかった。


気まずさを表情へ出すことさえせず、互いに相手がそこへ存在している事実だけを確認したあと、最初から何も見なかったように自分の行動へ戻っていくのだ。


それは喧嘩をしている者たちの沈黙ではない。


怒りによって閉ざされた関係であれば、まだ怒りが消えた時に言葉を取り戻せるかもしれない。。


しかし、二人の間に横たわっているものはもっと静かで、もっと長い時間をかけて積み重なった、理由さえ曖昧になりつつある距離だった。


優心は何も言わないまま冷蔵庫へ向かい、扉を開けると、冷気の中からアクエリアスを一本取り出す。


そしてさらに冷凍庫の奥へ手を伸ばして、あらかじめ凍らせておいたウィダーインゼリーを引っ張り出した。


掌へ伝わる冷たさは明瞭だった。


それだけが、この場において確かな輪郭を持つ感覚のように思えた。


『これから、トレーニングしてくる』


昔なら、その一言くらいは自然に口へ出せていたはずだった。


しかし今の優心には、わざわざ報告するほどのことでもないという考えと、声をかけても素っ気なく返されるだけだろうという諦めと、が先に立つ。


結局、何も言わないまま玄関へ向かうことを選んだ。


しかし玄関へ続く廊下へ出るためには、寧の座るテーブルの横をもう一度通らなければならない。


優心は無意識に背筋を伸ばすと、自分でも馬鹿馬鹿しいと思うほど足音を抑えながら、彼女の背後を通り過ぎようとした。


すれ違う直前、ほんの一瞬だけ、優心は寧の様子を窺うように横目を向けた。


寧は課題へ没頭していた。


長い髪を肩の後ろへ流し、片手で資料を押さえながら、もう一方の手に握ったペンを紙の上へ走らせる。


視線は一度として揺らがず、机上に積み重ねられた複数の参考資料を必要な瞬間だけ正確に開いては、再び答案へ戻っていく。


ペン先が紙を擦る音。


ページをめくる音。


僅かに呼吸する音。


それ以外のものは、彼女の意識から完全に切り捨てられているように見えた。


その集中力は、優秀というありふれた言葉だけでは表現しきれないほど凄まじい。


(俺なんて、視界にも入ってないんだろうな)


そう考えた瞬間、胸の奥で、何かが小さく沈んだ。


寧は昔から、何かへ没頭すると周囲が見えなくなるほど集中する人間だった。


課題や修練へ打ち込むあまり、食事を忘れ、時には日付が変わったことにさえ気づかず、優心から声をかけられて、ようやく自分の身体が疲弊していることを知ることもあった。


今夜はすでに夕食を済ませている。


だから問題はない。


何も心配する必要はない。


わざわざ声をかけて、集中を途切れさせるべきでもない。


優心はそう自分へ言い聞かせたが、それは彼女を気遣うための理屈であると同時に、自分が拒絶される可能性から逃げるための、都合のいい言い訳でもあった。


寧がどれほど優秀であるかを、優心は誰よりもよく知っていた。


私立第一戦創師官学園の生徒会長であり、御八家の一角を担う瑞沢家の次期当主である。


将来は家の人間だけではなく、日本という国家の行く末にすら影響を及ぼす立場となることを、周囲から当然のように求められている。


彼女に許される失敗は、普通の生徒より遥かに少ない。


もし、試験で一位を逃せば『体調が悪かったのか』ではなく『瑞沢家の教育に問題があるのではないか』と囁かれる。


もし、実技で僅かな判断ミスを犯せば、次期当主としての資質を疑われ、何気ない態度一つでさえ、他家や政界の人間に弱みとして記録される。


御八家にとって、後継者の失敗は個人の失敗ではない。


それは家そのものの綻びであり、競合する家々が指を差し込み、傷口を押し広げるための隙となる。


だから寧は、一つの課題であろうと手を抜かず、睡眠を削り、趣味へ費やせたはずの時間を捨て、自分自身のあらゆる部分を、瑞沢家の後継者として相応しい形になるよう研ぎ澄ませ続けている。


しかも彼女は、その苦痛を決して表へ出さない。


誰よりも努力しているにもかかわらず、それを努力とは呼ばず、ただ当然の責務として受け入れ、常に涼しい顔で結果だけを差し出してみせる。


(・・・すごいよな、本当に)


それは偽りのない尊敬だった。


寧は、優心の知る中で誰よりも努力している人間だった。


だからこそ、邪魔をしたくない。


彼女が積み上げているものを、自分の寂しさなどという曖昧で幼稚な感情によって崩したくない。


それは、紛れもない本心だった。


けれど同時に、こうして同じ部屋へ入り、すぐそばを通り過ぎても、自分の存在が最初からそこになかったかのように扱われている気がして、胸の奥には、冷たい水が少しずつ溜まっていくような寂しさが広がっていった。


(・・・そりゃあ、そうか)


優心は自嘲気味に考える。


(年頃の女の子が、血の繋がってない男と同じ家で暮らすってだけでも、普通は嫌だよな)


今、この家で暮らしているのは、優心と寧の二人だけだった。


義父である誇大たちは事情があって別の家を生活の拠点としていた。


優心を引き取り、コスモを持たない子供でありながら何の見返りも求めず育ててくれた彼らに対しては、どれだけ感謝してもしきれないほどの恩がある。


しかし、瑞沢家へ迎えられたからといって、すべてが新たな家族としての関係を結べた、とは言えなかった。


特に寧との間に生まれた距離だけは、優心がどれほど近づこうとしても埋まらなかった。


いや、正確には、最初から遠かったわけではない。


むしろ、かつての二人は今とは正反対だった。


瑞沢家へ引き取られてまだ間もなかった頃、同年代の子供たちが次々とコスモの発現を迎え、身体能力や適性検査の数値に変化を見せていく中、優心だけが何一つ持たないまま取り残されていた。


そして、誰にも相談できない焦燥と劣等感に苛まれていた優心の異変へ、誰よりも早く気づいたのは寧だった。


「優くん、今日は学校で何かあったのですか?」


最初は、そんな何気ない問いかけだった。


「・・・別に、何もないよ」


「嘘。何もない時の優くんは、そんな顔をしません」


寧はそう言いながらも、優心が話し始めるまで無理に問い詰めることはしなかった。


ただ隣へ座り、同じテレビ番組を眺め、同じ菓子を分け合いながら、彼が自分から言葉を出せる時を静かに待ってくれた。


事故の記憶が夢となって蘇り、夜中に目を覚まして眠れなくなった時にも、彼女は嫌な顔一つせず優心の部屋を訪れた。


そして、灯りをつけたまま眠ってもいいのだと伝え、時には朝まで同じ部屋にいてくれた。


「寧さん、明日も学校でしょ?もう寝ていいよ」


「優くんが眠ったら、わたしも寝ます」


「・・・俺、しばらく眠れないかもしれないけど」


「なら、しばらく起きています」


「ダメだよ。だって寧さん、もう眠たそうだし、起きてるのは難しいでしょ?」


「いいえ、簡単です。例え、どれだけ眠たくて辛くても・・・優くんが一人で震えてる方が、わたしは嫌ですから」


その頃の寧は、どれほど学校で誘いを受けても、どれほど家の稽古が忙しくても、可能な限り早く帰宅し、学校へ通えず家に閉じこもっていた優心のそばにいることを選んでくれた。


何か特別な言葉をかけたわけではない。


失われた家族の代わりになれると、軽々しく約束したわけでもない。


ただ、そこにいてくれた。


優心にとっては、その事実だけで十分だった。


あの時期に寧が隣へいてくれなければ、自分が今のように学校へ通い、人と話し、笑えるようになっていたかどうか、優心には分からない─────がしかし、その関係は中学へ上がる頃を境に、前触れもなく変わってしまった。


挨拶をしても返事は素っ気なく、話しかけても必要最低限の言葉しか返ってこない。


それまで当たり前のように続いていた会話も、共有していた時間も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていった。


「寧さん、今日の夕飯って─────」


「ごめんなさい。今、忙しいので」


「あ・・・うん。ごめん」


「別に、謝らなくていいです」


そんなやり取りが積み重なり、やがて優心は、声をかける前に寧の表情を窺い、邪魔にならない話題を探し、何を言えば拒まれずに済むのかを考えるようになった。


自分から積極的に話しかけたこともある。


学校で起きたことを話そうとしたこともある。


二人で何かをしようと誘ったこともある。


しかし、そのすべては露骨な拒絶ではないにせよ、静かに、そして確実に遠ざけられた。


怒鳴られたわけではない。


嫌いだ、と明言されたわけでもない。


だからこそ優心には、何が原因だったのか分からなかった。


何か自分が彼女を傷つけたのか。


成長したことで、血の繋がらない弟と接することが嫌になったのか。


あるいは、コスモを持たず、瑞沢家の名に相応しい成果も残せない自分の存在が、次期当主である寧にとって重荷になったのか。


答えのない疑問ばかりが増えていく。


そしていつしか優心は、これ以上近づこうとすればするだけ寧を困らせるだけなのだ、と考えるようになった。


交わすとしても、今朝のような”仲睦まじい姉弟”と呼ぶには程遠い会話ばかりで、あれでも優心が何度も話しかけて、ようやく形になったやり取りなのだ。


今の二人は、一つ屋根の下で生活の場所だけを共有し、互いの領域へ踏み込みすぎないよう注意を払いながら暮らす、ただの同居人に近い。


(もう、無理なのかもな)


胸のどこかで、その結論はすでに形を持ち始めていた。


寧のことを嫌いになったわけではない。


むしろ、今も尊敬しているし、感謝しているし、かつてのように話せたならと願う自分もいる。


だが、近づくたびに拒まれ続ければ、人はいつまでも同じ勇気を持ってはいられない。


期待は失望を生み、希望は叶わない回数だけ痛みに変わる。


だから、自分から諦めて、最初から何も望んでいなかったことにするのだ。


様々な感情が入り混じり、胸の奥が重くなる。


これ以上ここにいれば、余計なことを考えてしまいそうだった。


優心は冷たいペットボトルと凍ったゼリーを強く握り直すと、足早にリビングを後にした。


扉が閉まる。


静かな音だった。


それにもかかわらず、夜の家には、その音が妙に大きく響いた。


まるで一枚の扉が閉じられたのではなく、かつて確かに存在していた二人の時間そのものが、決定的に隔てられてしまったかのように。


寧のペン先が止まった。


先ほどまで一度も乱れることのなかった文字の列が、途中で途切れている。


彼女はしばらく動かなかった。


閉じられた扉を見つめることすら怖がっているかのように俯いたまま、唇を僅かに噛み、机の上で握ったペンへ力を込めていた。


やがて、震えるような呼吸が一つだけ漏れる。


「・・・優くん」


小さな声だった。


扉の向こう側にいる優心へ届かせるつもりなど、最初からない声だった。


「・・・ごめんね」


ぽつりと零れ落ちた謝罪は、誰にも拾われることなく、広すぎるリビングの静寂へ沈んでいった。

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