遭遇1
十月二十一日、昼休み。
本来であれば、生徒たちが教室で弁当を広げ、ある者は友人と机を囲み、ある者は午後の実技授業への不安を笑い声で誤魔化し、またある者は自分の席に突っ伏して短い眠りへ逃げ込むはずの時間帯だ。
だが、優心はそのどれにも属することはなかった。
そして彼は教室ではなく職員室の隅に立ち、教師から頼まれたプリントの仕分けと書類の整理を、昼休みという限られた時間を削り取られていることに対する不満を一切顔に出さないまま、黙々とこなしていた。
作業そのものは雑務と呼ぶにふさわしい単純なものであった。
クラスごとに分けられたプリントを確認し、必要な枚数を揃え、提出された書類を番号順に並べ、足りないものがあれば付箋を貼って脇へ寄せるだけの、誰がやっても結果に差など出ないように見える仕事だ。
それでも優心はそれを雑に扱うことなく、一枚一枚を丁寧に確認しながら、淡々と進めていった。
「・・・よし。いやぁ、本当に助かったよ、瑞沢」
最後の束を受け取った教師は、まるで肩に乗っていた重しが一つ外れたように深く息を吐き、それから心底安堵した表情で優心を見た。
「この量を一人で片づけるのは、正直なところ昼休みだけでは無理だと思っていたんだが・・・お前が手伝ってくれたおかげで、どうにか午後の授業に間に合いそうだ。本当に助かった」
「いえ、これくらいなら全然大したことありませんよ」
優心は軽く首を振り、手元に残った数枚の書類を揃えながら答えた。
「いつも先生方には授業や実技で色々と教えていただいていますし、こういう形で少しでも返せるなら・・・俺でよければ、いつでも手伝います」
その言い回しはどこか形式的で礼儀正しく、教師に対する返答としては模範的ですらあったが、そこには媚びるような響きも、点数を稼ごうとする浅ましさもない。
教師はそんな優心を見て、感心したように何度も頷いた。
「本当に、お前は優秀な生徒だな。いや、優秀という言葉だけでは少し足りないかもしれない。成績もいいし、態度も真面目で、教師の頼みを嫌な顔一つせず引き受けてくれる。今どき、なかなかいないぞ?」
「そんな、大げさですよ」
「大げさじゃない。そうだ、そういえば、この前の筆記テストの結果だがな」
教師は何かを思い出したように声を弾ませた。
「理事長が直々に目を通されていてな。わざわざ口にして褒めておられたぞ!」
「・・・そうなんですか」
優心は顔を上げずに答えたが、褒められて嬉しくないわけではない。
ましてやそれが、義父である瑞沢誇大の言葉であれば、なおさら何も感じないはずがない。
だがしかし、その言葉を素直に受け取るには、優心はまだ足りないものが多すぎるのだ。
「学年五位とは大したものだ。胸を張っていい結果だし、周りからもっと評価されてもおかしくない。少なくとも、筆記に関してはお前は十分すぎるほど上位にいる」
教師はそう言ってから、ほんの僅かに言葉を迷わせた。
「それに、あの生徒会長の・・・その・・・だから余計に、な」
無意識に漏れた本音だった。
比較してしまっている自覚は、きっと教師本人にはないのだろう。
いや、もしかすると途中で気づいたからこそ、その先の言葉を飲み込んだのかもしれない。
しかし、職員室の隅に置かれた沈黙だけは、優心の前に静かに横たわるのであった。
寧と比べれば、御八家の次期当主である義姉と比べれば、同じ瑞沢の名を持ちながらどうして─────という誰も最後まで口にしない言葉の続きが、優心の胸の奥へ深く突き立てた。
「先生」
優心は、静かにその言葉を遮った。
声を荒げるでもなく、怒りを滲ませるでもない
ただ淡々と、それでいて確かに、これ以上先へ進むなと告げるように。
名前ではなく役職だけを呼ばれた教師は、ハッとしたように顔を上げ、口を開きかけたまま言葉を失った。
そして一瞬の沈黙の後、慌てたように手を振る。
「す、すまない!いや、その、悪気は全くなかったんだ。決してお前を貶めるつもりはなくてだな・・・ただ、もったいないというか・・・その・・・あくまで、評価として・・・」
言い訳は、言葉を重ねるほど空回りしていき、それが悪意ではないことを優心は分かっていたからこそ厄介だった。
悪意なら怒ればいい。
侮辱なら跳ね返せばいい。
けれど善意の皮を被った比較は、人を傷つけた後で、傷ついた側にまで「怒るほどのことではない」と思わせる。
「大丈夫ですよ、先生」
優心は苦笑した。
「慣れてますから、こういうの」
さらりと言ったその一言は軽く聞こえたが、その裏に積もったものは決して軽くなく、教師の表情がさらに曇る。
「・・・すまない」
今度の謝罪は先ほどよりもずっと小さく、優心は肩をすくめるだけだった。
悪気がないからこそ否定できないのだ。
純粋な善意、純粋な評価、そして純粋な比較という名の刃は、そこに悪意がないからこそ怒ることも責めることもできないまま、ただ受け止めるしかない。
そして、向けられる視線に混じるほんの僅かな哀れみは、何度経験しても決して慣れることのない不快な感覚だった。
■
職員室を出た直後のことだった。
昼休み特有のざわめきが廊下を満たし、教室からは笑い声が漏れ、階段の方からは購買へ向かう生徒たちの足音が響いていた。
そしてその平凡な騒音の中に、わざとらしく踵を鳴らすような足音が混じった瞬間、優心は振り返る前から相手が誰なのかを理解していた。
「よぉ、瑞沢」
軽薄な声だった。
「今日もせっせと雑用係か?いやぁ、ご苦労なこって。見てるこっちが涙ぐましくなってくるぜ」
優心がゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは茶羅木秀和だった。
数人の女子生徒を取り巻きのように引き連れ、廊下の中心を当然のように占有する。
軽薄な笑みを浮かべ続けるその男は、制服の着崩し方一つ取っても無駄に様になっていた。
茶羅木家。
御八家には名を連ねていないものの、それに準ずる名門とされる家系であり、莫大な資産と高いコスモ適性を兼ね備える。
そして、国政軍にも政界にも太い繋がりを持つ彼らは、いわば日本という国が作り上げた血統階層の上澄みに位置する名家であった。
父は国政軍の上層部に名を連ね、親族の多くが戦創師として第一線で活躍しているだけでなく、茶羅木秀和という青年自身もまた、その血筋に恥じないだけの実力を確かに持っていた。
コスモ保有量、制御精度、実技評価、そのいずれも学年上位なのだ。
よって、実力も、家柄も持ち合わせる彼は、周囲の大人たちがそういう人間に対してどこか慎重にならざるを得ないという構造そのものを、よく理解していた。
「・・・茶羅木。その言い方はないだろう」
後ろから教師が咎めるが、その声には叱責というには濃すぎる遠慮が滲んでいた。
茶羅木はそれを敏感に嗅ぎ取り、わざとらしく肩をすくめる。
「はぁ?俺、何か間違ったこと言いましたか?だって実際、瑞沢は先生方の手伝いをしてたんでしょう?偉いじゃないですか、俺は褒めてるんですよ」
そう言って周囲を見渡すと、取り巻きの女子生徒たちが茶羅木の意図を理解したようにくすくすと笑い、優心は小さく息を吐いた。
「先生、大丈夫です」
一歩前に出て、教師を制する。
「俺のことは気にしなくていいですよ。さっきも言った通り、こういうのはもう慣れてますから」
その声は淡々としており、怒りを抑えているというより、最初から怒ることを諦めている人間の声だった。
教師は何か言いたげに口を開きかけたが、優心はその前に言葉を重ねる。
「先生、次の授業、実技でしたよね?ここで時間を取っていると、他の生徒たちを待たせてしまいます。俺なら本当に大丈夫ですから、そろそろ行ってあげてください」
それは教師を逃がす言葉であり、同時に、この場にいる大人が茶羅木に強く出られないという事実を、それ以上晒させないための気遣いでもあった。
教師は一瞬だけ躊躇し、それから苦々しい表情で小さく頷いた。
「・・・すまない、瑞沢」
そう言い残し、教師は足早に廊下の向こうへ去っていった。
その背中を見送りながら、茶羅木が舌打ち混じりに吐き捨てる。
「けっ。ほんと気持ち悪ぃな、お前」
その声に、優心は視線だけを戻した。
「先公にいい顔して、優等生ぶって、ポイント稼ぎに必死ってわけかよ?コネ入学野郎は大変だなぁ!実力がない分、そういうところで媚び売らなきゃならねぇもんな?」
茶羅木の言葉で廊下の空気がわずかに冷えたのは、優心がこの学園に入学できた理由を疑う声が、決して少なくないからであった。
コスモの保有量がゼロとされる人間が、御八家の管理する学園に在籍しているという事実そのものが、彼らにとっては異物であり、許しがたい違和感だった。
口に出すのが茶羅木であるというだけで、他の者たちはただ視線で語るが、その視線の方がよほど厄介だと優心は知っていた。
「言いたいことはそれだけか?」
優心がそう言うと、茶羅木は口角を吊り上げた。
「おいおい、何だその態度。ずいぶん偉そうじゃねぇか」
「別に偉そうにしてるつもりはない。ただ、昼休みは短いし、俺もまだ飯を食ってないから、用がないなら行くぞ」
「逃げるのか?」
「絡まれてるだけなら、相手にする必要はないだろ」
「へぇ・・・」
茶羅木は優心の身体を上から下まで舐めるように見た。
「そういやお前、相変わらずダッセェ包帯巻いてんだな。中学生で卒業しとけよ、そういう厨二臭ぇのは」
茶羅木の指摘に、取り巻きたちがまた笑う。
しかし、優心は何も言わなかった。
そして茶羅木はその沈黙を自分の優位だと受け取ったらしい。
「俺たちはもう高一だぜ?いい加減、現実見ろっての。まさか本当に、その包帯の下に封印された力が眠ってます、とか言うんじゃねぇだろうな?」
「・・・」
「おい、何とか言えよ。図星か?」
「茶羅木」
「あぁん?何だよ?」
「俺のことをどう言うかは勝手だ。コネ入学でも、雑用係でも、包帯野郎でも、好きに呼べばいい・・・けど、それでもう満足したろ?だから、もう行かせてくれ」
優心の声はまだ静かだったが、その静けさがかえって茶羅木の癇に障ったらしい。
茶羅木は一歩近づき、わざとらしく顔を近づけた。
「なぁ、その包帯─────あの“生徒会長さん”も巻いてんのか?」
ニヤリと口角が歪む。
「教えてくれよ、瑞沢くん。家じゃどうなんだ?あの完璧超人の生徒会長様は、弟くんの厨二病ごっこに付き合ってくれてんのか?」
取り巻きたちの笑い声が廊下に広がる。
「なんならさ、今度その包帯、俺にくれてもいいんだぜ? 生徒会長さんは、顔も身体も良さげだからよぉ」
下衆な笑みだった。
そして、露骨な含み。
優心の表情が変わった。
それまで浮かべていた愛想笑いが、すっと消える。
「やめてくれ、茶羅木」
低く、抑えた声だったが、その奥には確かな怒気があった。
「俺のことなら、好きなだけ馬鹿にすればいい」
一歩、優心が踏み出す。
「けどな、家族を巻き込むのだけはやめてくれ」
その視線が、真っ直ぐ茶羅木を射抜いた。
「それ以上踏み込むなら、相手が誰だろうと・・・俺は許さない」
廊下の空気が張り詰めた。
昼休みの喧騒は確かにそこにあるはずなのに、その一角だけが奇妙なほど静まり返り、遠巻きに見ていた生徒たちも、取り巻きの女子生徒たちも、茶羅木でさえも、一瞬だけ言葉を失った。
そして次の瞬間。
「ああん?」
茶羅木の眉が、ぴくりと動く。
「誰に向かってその口聞いてんだよ」
声が低くなり、先ほどまでの軽薄さが剥がれ、その下から、名門の血を盾にして他人を見下す者の本性が顔を覗かせた。
「名前だけの面汚しが」
茶羅木が一歩、前へ出る。
それだけで空気が重くなり、彼の内側でコスモが僅かに揺らぎ、目には見えない圧力となって周囲の空気を押し潰すように広がっていく。
「茶羅木家次期当主のこの俺に、舐めた口利いてんじゃねぇぞ」
「次期当主だから何だよ」
優心は退かなかった。
「家が凄いなら、それはお前の家が積み上げてきたものだろ。お前自身が凄いかどうかとは別の話だ」
「・・・てめぇッ!」
「それに、名前だけの面汚しなのは、俺も否定できない。だって、俺はまだ何も成してないし、胸を張れるほど強くもない。でも、だからって家族を馬鹿にされて黙っている理由にはならない」
優心の拳が静かに握られ、それは戦うためというより、自分の中に生まれた怒りを逃がさないための仕草だった。
「もう一度言う。俺のことだけにしてくれ、茶羅木」
その言葉に、茶羅木の表情から笑みが消え、廊下には目に見えない刃のような緊張だけが残っていた。




