1-2 悠星視点 初めてのゼロ距離
4月。いつもより混んでる満員電車。
ただでさえ少し憂鬱な朝の車内で、桧山悠星は完全にキャパシティをオーバーしていた。
(……いや、これ、ヤバイだろ)
揺れる車内、人の波に押されて突っ込んできたのは、見覚えのある制服。
同じ高校、しかも同じ学年の女子。確か、鈴木りこ。
避ける隙も、スペースもなかった。
ドサリ、というよりは、もっと柔らかくて、質量のある衝撃が胸元にダイレクトにぶつかる。
気づいた時には、ほとんど悠星が彼女を正面から抱きしめるような、最悪(あるいは最高)の密着状態が完成していた。
(え?……待て待て待て)
脳が一瞬でフリーズする。
状況は100%理解できる。不可抗力。満員電車の事故。彼女に悪気なんて1ミリもない。
分かっている。分かっている、が。
(……柔らかっ……え、嘘だろ……?)
薄いシャツ越しに、明らかに男のそれとは違う、言葉にできないほど柔らかい感触が2つ、悠星の胸板にピタリと押し当てられている。カバンすら挟んでいない。文字通りのゼロ距離。
しかも、彼女が動こうと身じろぎするたび、その「形」と「弾力」が容赦なく皮膚感覚を刺激してくる。
「……ご、ごめんなさい」
下から聞こえた消え入りそうな声。
見下ろせば、耳まで真っ赤にした鈴木の頭頂部。
あまりの近さに、シャンプーなのか何なのか、女の子特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
(ヤバイ、視界の情報量も多すぎる……!)
悠星は慌てて視線を天井の路線図へと逸らした。
喉が異常に渇く。心臓がドクドクと嫌な音を立てて暴れだす。
「……大丈夫」
声が裏返らなかったのだけは奇跡だった。短くそれだけ返す。
内心は全然大丈夫じゃない。大パニックだ。
(いや、男として、正直めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいけど……これはヤバイって!!)
健全な男子高校生としての煩悩が、脳内で大合唱を始める。
今この瞬間、電車の急ブレーキか何かが来て、万が一にも手が変なところに触れてしまったら?
あるいは、自分の身体に「男としての自然な反応」が起きて、それが彼女に伝わってしまったら?
――社会的に死ぬ。完全にアウトだ。
(落ち着け。他、他のこと考えろ。昨日の晩飯何だっけ。ハンバーグ。美味かったな。じゃなくて。今日の1時間目なんだっけ、現国? 羅生門? 下人の行方は誰も知らない。俺の行方も誰も知らない。頼むから誰も知らないでくれ……!)
必死の精神統一。
しかし、そんな悠星の神聖な(必死の)努力を嘲笑うかのように、電車が大きくカーブに差し掛かる。
ガタガタッ、と大きく揺れる車内。
お互いの身体が一瞬離れ――次の瞬間、さらに強い圧力で、さっきよりも深く、隙間なく密着した。
(おわっ、ちょ……っ!?)
押し潰されるような感触。今度は彼女の小さな肩や、細い体全体のラインまでがしっかり伝わってくる。鈴木の呼吸に合わせて、胸元の感触がかすかに上下するのまで分かってしまう。
(無理無理無理! 理性が溶ける!!)
ポーカーフェイスを維持するだけで、全身から変な汗が出そうだった。
鈴木は完全に縮こまって、顔を上げられないでいる。彼女の心臓の鼓動が、自分の胸にまで響いてくるようだ。
(早く駅に着け……! いや、でもこのままでも……いやダメだ!!早く着いてくれ!!)
煩悩と理性の激しい殴り合い。
冷や汗を隠し、ただの「無口でクールな男子」を必死に装いながら、悠星は人生で一番長い数分間を耐え忍んでいた。




