9-2 悠星視点 抱きしめた理由なんて、言えない
(クソ、最悪だ……!)
その日は朝から人身事故の影響でダイヤが大幅に乱れていて、ホームも車内も見たことがないレベルの異様な大混雑になっていた。
いつもなら鈴木が乗ってくるドアでなんとか「壁」のポジションを取るはずが、押し寄せる人の波逆らえず、強引に車内の奥へと押し込まれてしまう。身動きなんて 1 ミリも取れない。
(おい、鈴木はどこだ!? 大丈夫か!?)
焦って周囲を見回した瞬間、人の波を掻き分けて飛び込んできた小柄なシルエットと、文字通り正面からぶつかり合う形になった。
(――ッ!?)
逃げ場なんてどこにもなかった。鈴木はちゃんとカバンを前に抱えてディフェンスしているのに、それを上回る周囲の圧倒的な圧力のせいで、気づいたときには俺たちは完全に「向かい合う位置」で固定されていた。
172cmの視線のすぐ下に、彼女の顔がある。あまりの近さに息が詰まりそうになった、その時。
ガタコンッ!!! と、電車が悲鳴を上げるように大きく揺れ、後ろから殺性的な質量が押し寄せてきた。
鈴木の身体が、一瞬で前へと崩れる。
(危ねぇ――っ!!)
それは、脳で考えるより先の、完全な反射だった。
俺の両手が勝手に動き、彼女の華奢な身体を包み込むようにギュッと引き寄せ、その衝撃を正面から受け止めた。
――一瞬だけ、二人の間の距離が完全に消え去る。
カバン越し、なんて生易しいものじゃない。鈴木の小さくて柔らかい身体のすべてが、俺の胸の中にすっぽりと収まり、密着した。
「……っ」
腕の中で、鈴木の息が止まる気配がダイレクトに伝ってくる。
(あ、ヤバイ。やってしまった――)
その瞬間、弾かれたように頭が冷えた。
守るためとはいえ、不可抗力とはいえ、これは完全に「抱きしめて」しまっている。彼女の身体から手を離さなきゃいけないのに、なぜか、どうしてもすぐに手が動かなかった。
コンマ数秒、俺は無自覚に腕の力を強めて彼女をさらに抱きすくめていた。
――何やってんだ!俺は……!
今度こそ我に返った俺は、慌てて彼女の身体から手を離した。
心臓が頭のてっぺんで鳴っているんじゃないかってくらいドクドクと暴れている。言い訳なんて何も思いつかない。ただ、犯してしまった自分の過ちに対する罪悪感で破裂しそうだった。
「……ごめん」
短く、でもはっきり。それだけをどうにか口から搾り出す。
すると、鈴木は一瞬きょとんとした顔をして、上目遣いに俺を見つめてきた。
「え?」
「今の……」
言葉が続かない。今の、お前を抱きしめちまった。怖がらせたよな、気持ち悪かったよな――そんな言葉が喉まで出かかって、全部つっかえる。
気まずくて苦しい、短い沈黙。
だが、鈴木は小さく首を横に振った。
「なんで謝るの?」
「……え」
今度は俺の思考が完全にストップした。
「私こそ……ごめん」
鈴木はふっと視線を少し落とし、耳のあたりをほんのり赤くしながら、消え入りそうな声で続けた。
「寄っちゃったし」
一瞬、電車の騒音が遠のき、二人の間の空気だけがピタリと止まる。
(……なんで、怒ってないんだよ……)
俺は何も言えなかった。
鈴木の優しさに救われたのか、それとも別の意味なのか、頭の中がぐちゃぐちゃで処理が追いつかない。
ただ、自分がどれだけ鈴木を意識しているか、それとも彼女がどれだけ俺を信頼してくれているのかが、痛いくらいに伝わってきて胸が苦しかった。
結局、それ以上は離れるスペースもなくて、俺はさっきより距離を取ろうとはしなかった。いや、正直に言えば、離れたくなかった。
電車は何事もなかったかのように、ガタゴトと次の駅へ向かって進んでいく。
だけど、俺たちの間を流れる空気は、さっきまでの「ただのハプニング」と同じ距離には、もう二度と戻らなかった。




