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撤退

 モイラ王国は各地に退避命令を出した。それにより、この国に残っていた全ての民が他国へ流れることになる。それを見届けるまで魔王軍の侵攻を食い止めるのが連合軍の最後の仕事である。ラントフォード軍は激戦が予想されるであろう敵主力軍を食い止めることを引き受けた。数こそ少ないが選りすぐりの精鋭たちである。それに敵を引きつけてから逃げるのは得意だ。

 全国民が脱出するのにかかる時間は約一日半。すでに大半の民が避難しているため、残っているのは補給のために残っていた軍属の非戦闘員のみである。

 ラントフォード軍は平原に布陣し、向かってくる魔王軍三万と対峙した。いくら精鋭とはいえこの数に勝つのは不可能だ。しかし時間を稼ぐだけならいくらでもやりようはある。遥か大勢の敵軍を目の前にして兵士たちは全身の血を沸き立たせた。彼らは不敵な笑みを浮かべた。

「お前ら! 今日は邪魔者はいねえ! 好きなだけ暴れられるぞ!」

 ノアは剣を振り上げて突撃を開始した。同時に全軍の半数、五千騎が彼に続いた。遠距離から弓矢を浴びせ、前線を崩したところにウィクトリアが突撃する。その破壊力は凄まじく、何体かの指揮個体が倒された。血の雨が降り注ぎ、魔物たちの悲鳴が青空に木霊する。中でもラミナスの暴れ具合は魔物たちが逃げ出すほどだった。真っ黒な戦闘服を真っ赤に染め、それでも主の敵を屠り続ける。

 後方に布陣する魔族たちがウィクトリア兵に向けて一斉に槍を投げた。彼らの戦闘服にかけられた魔術でも投げ槍までは防げない。だが兵士たちは魔術もじくは武器で各々対処した。 

 ノアの雷が天から地へ駆け抜けた。それは轟音と赤い光を伴い、人ならざる者の生贄を一撃ごとに数多要求した。

 雷を放ち続けるノアの消耗も激しく、レナードはすぐに退却を命じた。追ってくる魔王軍はユミルの炎や兵士たちの抵抗によって撃退された。

 ノアが一度目の休憩に入る時にはすでに五千弱の魔王軍が倒れた。ノアの赤雷や黒衣の騎兵団、降り注ぐ矢の雨を警戒した魔王軍は動きを鈍らせ、密集陣形を組んで前進してくる。とはいえ人類軍が組む陣形と違ってただ密集しているというだけである。それに応じてラントフォード軍はゆっくり退却した。疲労したウィクトリア兵やノアが回復し、馬を替えるまで。軽い休眠と大量の食事を経てノアは復活した。それから軽い突撃を何度か繰り返し、魔王軍は大量の出血を強いられた。力の続く限り雷を降らせる。

「も、もっとかかってこい!」

 息を切らしながらノアは剣を振り上げる。剣の切っ先は僅かに震えていた。

「ちゃんと休んでね」

 ユミルがノアの首根っこを掴んで後ろに下げる。彼の仲間たちもノアに負けないくらいの暴れっぷりをしていた。

 やがて日も暮れて魔王軍は進撃を止めた。ラントフォード軍も戦いを止めて野営する。夜はこれまで戦っていない半数の兵が見張りにつく。ノアは雑事を仲間に任せてすぐに眠った。

 目が覚めると朝だった。夜襲はなかったらしい。

「そんじゃ今日も始めるか!」

 国民の避難は半分ほど終了したらしい。予定通りだ。あと半日くらいで避難は完了する。それまで耐え凌ぎ、あとは国に還るだけだ。体力を回復したノアは血の色をした雷を纏い、元気に出陣した。

「あと半日だ! やる気出してくぞ!」

 他の戦線も上手く後退していた。不安だった北スーディル軍も犠牲を払いながらも撤退している。

 太陽が天高く昇った。もう昼時だ。

「よし、そろそろ逃げるか」

「え、あと二、三時間は時間稼がなきゃ」

 ノアは首を横に振った。

「避難が終わんのが夕方だ。俺たちがいなくなってもあいつらが追いつく頃には避難は終わってるだろ」

「あ、確かに」

 ユミルは納得したように頷いた。ノアは全軍に撤退命令を出した。兵士たちは山道を北上し、平原に出た。

「ラントフォードに帰るぞ!」

 ラントフォード軍は魔王軍を引き連れたまま西へ向かう。このまま西に向かえば川や山に阻まれることなくラントフォード公国を目指すことができる。右翼の東国連合軍はとっくに北に退いている。撤退を終えたモイラ軍や北ス―ディル軍、帝国軍は国境線で防衛線を構築しているらしい。

「ラントフォード公国最初の戦いが敗戦だとはな!」

「ああ、だが本気で戦う時はそう遠くないうちにやってくるはずだ」

 勇猛果敢なラントフォード軍の将兵は魔王軍との決戦の機会を与えられなかったことに残念な思いを抱きながらも退却した。

 他国の軍もうまく逃げ切ったようである。モイラ王国の民も無事に避難できた。モイラ王国の領土は奪われてしまったが、民は生き残っている。今のところはそれでよしとするしかないだろう。生きていれば復讐戦を挑む機会は必ず与えられるのだから。

 ノアたちはラントフォードに戻り、体力が残っている兵を率いて魔王軍の背後を急襲した。西部の魔王軍は瞬く間に総崩れになり、その崩壊は全軍に伝播し、魔王軍は退却していった。これで一息つける。ノイアフォードに戻ったノアたちはそれから何をする気にもなれず、休息する。

「よくぞご無事でお戻りくださいました、我が君」

 珍しく私腹を着ているミラが疲れ切ったノアを寝室に放り込んだ。そのまま政務室に戻っていくかと思いきや彼女はベッドに腰かけ、ノアの頭を膝に乗せた。そして寝転がるノアの頭をそっと優しく撫でた。

「こういうのはしないタイプだと思ってた。なんかあった?」

 ノアは彼女の顔を見上げた。朝日と同じ色の髪が彼の顔に枝垂れる。

「お嫌でしたらやめますが。やはりこういうのは不慣れですし…」

「いや、ありがとう。もう少しこうしてくれると嬉しい」

 五日に渡る連戦はさすがに堪えた。「終極の赤」の連続使用はかなり疲れる。戦闘時はなんとか気力でもっていたいたが気が抜けると一気に疲れが押し寄せてくる。いつもはラミナスの役目だがこれと言ってこだわりはない。

「眠りながらお聞きください。これは私の独り言ですので途中で寝てしまっても忘れてしまっても構いません」

 戦場にいる時とは真逆で優しい声で彼女は言う。

「私は千年の間、戦場にいました。大将軍として武官の極みに立ち、魔王を滅することを誓いました。ですが人の世とは儘ならぬもの。魔王という人類共通の敵がいてもなお私利私欲のために戦いの邪魔をする者が多かった…」

「…」

 撫でる手を止めず、彼女は語りだす。ノアは目を薄っすらと開けながら彼女の話を聞くことにした。疲労し、意識を手放しつつあったが彼女が内心を語るのは非常に珍しいことだったので聞いていたかったのだ。

「戦争とは政治の一手段。政を行う者が腐敗していれば精強な軍勢も宝の持ち腐れ。私の敵は官憲でした。金も兵も与えられず、戦略も限定され、思うように戦えません。魔王を倒し、太平の世を築く志は遠のくばかり。もはや夢破れたと絶望しておりました」

 慈しむような目で彼女はノアを見る。

「ですが私は貴方と出会った。貴方の目指す世界を聞いた時、胸が躍りました。それから貴方は私を重用し、全てを任せてくださいました。運命があるとすればこの出会いを言うのでしょう」

 彼女はノイアフォードの将軍となり、初めてこの千年間の人生に意味を感じた。自分の血を流す意味も、敵味方に血を流させる意味もはっきりとしている。

 彼女の胸には円形の勲章が輝いている。それはノアがデザインし、ノイアフォード一の金属細工職人に作らせた元帥勲章である。ミラがノイアフォードに来た直後にノアが渡したもので、ノアの胸にも少し意匠が違う国王勲章が付けられていた。職人の技量は確かに優れていた。だがデザインを行った者のセンスはお世辞にも平均に届いているとは評価できなかった。それでも彼女はそれを非常に気に入って肌身離さず身に着けていた。これが彼女の誇りである。

「貴方と歩く旅路ならどんな敵でも覇道を阻むこと能わず。この勲章に誓って貴方の道を拓きます」

 ノアはもう寝息を立てていた。とても安らかな寝顔だった。退室しようとしてミラは動きを止めた。膝で眠る青年を起こさずにどう離れればよいのか。こうなることは分かっていたがどう退室すればよいのかまでは考えを巡らせていなかった。これまでの彼女なら冷静に先を見据えて行動していた。少なくとも数分、数十分の先は容易に見えていた。だが今を必死に生きる向こう見ずなこの青年とその仲間たちに囲まれるうちに彼女自身も気付かぬうちに変化が起きていたらしい。ミラはこのまま夜を越すことを決めた。



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