立ち向かう者
ノアたちはシタリ王都を出て北に向かった。しばらくの間、ワナンナとはお別れだ。彼はノイアフォードに移住するシタリ族の統率者としてノイアフォードに向かうからだ。ノアたちが目指すのはここからずっと東にあるフィーレイ戦乙女王国だが、間には先日戦ったティンニバル王国がある。そこを横切るのは危険だということで海路をいくことにした。港で百人乗りの船を借り、東に向かう。騎馬は魔術で守られた部屋に入っている。その部屋はどんな波でも揺れることはなく、馬を守る。沈没さえしなければ馬は安全だ。
冷たい潮風が吹き抜ける。遊牧民には慣れない風だ。
アンは甲板で水平線の彼方を見ていた。その先には彼女の故郷がある。彼女は感情をあまり顔に出さない。今彼女が何を考えているかわからない。ラフマートで共に逃げ出してきてから彼女は特に多くを語ることもなく、沈黙を貫いていた。ノアはその横に立った。彼女はノアの顔を見上げた。
「もうすぐ…私の故郷です。私が奴隷になってから五年。ようやく戻れます」
「五年かー。長いなー。どの国にいたんだ?」
彼女は俯いた。どうやら言いたくないようだ。唇を噛み、震えている。
「わりい、言いたくねえなら言うな」
しかし彼女は語った。どのようにして彼女が奴隷になり、ラフマートでノアに出会うに至ったかを。
彼女は当時十歳だった。フィーレイ王国の海沿いで姉と共に暮らしていた。フィーレイ王国に住むのは戦乙女のみ。男はいない。種を残す方法は人間とは大きく異なっていた。一応異種族の男との性行為によって繁殖することもできるが気難しい戦乙女がその方法を選ぶことは稀である。普通、子を残そうとする戦乙女は自身の血と他の誰かの血で赤黒く染めた糸で布を織り、月のない日にそれを王宮にある命の炎という千年前から燃え続ける特別な火で燃やし、灰を飲み込む。そうすると妊娠し、その後は人間と同じように出産を行う。アンと彼女の姉のサンの母は魔物との戦いで死んだ。遺された彼女たちは支え合い、武術の訓練を重ねながら成長していた。
しかし世界は非情であった。魔王領拡大に伴い、食料問題は世界共通の問題となっている。肥沃な土地を占領し、また世界人類同盟に加盟していないフィーレイ王国は他国からの侵略を受け、略奪され、捕らえられた者は戦闘奴隷として売り飛ばされた。近年になって物々交換による貿易も始めたがこれまであまり他国と関りを持ってこなかったフィーレイ王国は他国にいいように騙され、搾取され、さらに貧しくなった。
ある日、侵略してきたティンニバル王国兵に捕らえられた二人はライジス王国の隣にあるマスティア公国に送られ、魔王軍と戦わされた。生まれつき体が強く、優れた再生能力を持つ戦乙女は貴重な戦力として最前線で戦わされた。盾にされたり、囮をさせられたり、非道な扱いを受けていた。戦場以外でも冷遇された。与えられる食料は腐っていたり泥まみれの麦のみ。寝床はなく、地面で寝ていた。顔が気に食わないと上官に殴られるのは日常茶飯事だった。それでも姉妹は二人で支え合って乗り越えようと誓い合った。
「アンは自由になったら何かしたいことある?」
姉が尋ねた。冬は寒く、二人は夜空を見上げながら身を寄せ合っている。
「…何も思いつかない…」
アンは俯いて答えた。
「あ、でもサンと一緒にいたい」
「ふふ。私もアンと一緒にいたいわ」
姉は彼女を抱きしめる。アンは少しだけ照れて顔を赤くした。もう二年も戦場にいる。どんな表情をしていても殴られるので表情は変わらなくなってしまった。それでも姉は優しく笑う。それだけで彼女は活力を得られた。
「あと私は…優しくて強い男の人と結婚して子供がほしいわね」
彼女は空を見た。
だが世界はあまりに残酷で彼女たちのささやかな願いは一瞬で砕け散った。ある日、いつものように戦場に駆り出された彼女たちの部隊は魔族の奇襲を受けて壊滅した。兵士たちは次々と殺された。アンとサンは退却しようとしたが魔族の追撃は激しく、すぐに追いつかれ、サンは後ろから刺されて致命傷を負った。血を吐き、自らの命が長くないと悟ったサンは妹に向かって叫んだ。
「ここは私が食い止める! アン、行きなさい!」
退却を止め、彼女は立ち止まる。
「い、嫌だよ…! 一緒に逃げよう」
「無理よ。私はもう助からない。心臓がやられた。ここで死ぬ」
サンは迫りくる魔族と激突した。致命傷を負っても彼女は強く、部隊を組んで接近する数多の敵を葬った。
「なら私も死にたい。サンがいなくなったら私は一人ぼっち。こんな世界一人で生きられないよ…」
アンは姉に縋りついて泣き叫ぶ。どうせ死ぬならこの世でたった一人、心許せる家族と終わりを迎えたかった。姉に寂しい思いをさせたくなかった。
「この世界が私たちを苦しめる。居場所なんてどこにもない!」
「アン、あるのよ、貴方が安心して暮らせる場所が必ずあるのよ。今は見つけられなくても…諦めなければ…きっと見つかる…。貴方を守ってくれる人と…いつか出会える!」
サンは妹を振り払って立たせた。
「走りなさい! 夜明けはもうすぐだから…! 辛くても苦しくても…生きるのよ…!」
アンは涙を流したまま走り出す。サンはそれを見て笑った。いつかこの日が来ることはわかっていた。だから別れの覚悟はできていた。だというのに彼女も両目から大粒の涙を流していた。
「ごめんね。背負わせちゃって。でもね…貴方が生きて幸せになれたら…理不尽なこの世界に一矢報いたことになるでしょう?」
太陽が西の空に落ちていく。もうすぐ夜だ。
「もう私に朝は来ないけれど貴方は違う。誰かが夜明けを連れてきてくれる。少しの間、一人になっちゃうけど負けないで。頑張って。愛してるわよ、アン」
未来を渇望しながらも明日の朝日を見ることのない少女はその命が終わるその瞬間まで戦い、そして露と散った。
生き延びたアンは懲罰牢に入れられ、処罰という名の拷問を受けた。目を抉られ、指を切られ、腹を抉られた。姉を見捨てた卑怯者と罵られた。だが彼女は姉の言葉に従い、耐え続けた。戦い続けた。幾千もの魔物を屠り続けた。しかし彼女の摩耗した心は暴走し、相次いで命令違反を起こした。そしてラフマートに売り飛ばされた。その日、彼女は出会った。夜明けをもたらす太陽のような騒がしい男と。
語り終えたアンはその場にしゃがみこんだ。
「だから…貴方には感謝してる…。貴方がいなければ私はまだ暗闇を彷徨っていただろうから」
「そっかー、隣の国にいたのかー」
ノアは食糧庫から持ってきた林檎を齧っていた。数年前、ノアも戦場にいた。世界大戦でラントフォード兵の一人としてラミナスやレナード、ファーレンと共に従軍していた。国も違い、会ったことはないが奇妙な縁を感じざるを得なかった。
「フィーレイでも元気でな。ノイアフォードから遠いけど何かあったら呼べ! どこからでも助けに行く!」
「…貴方は本当に優しいな」
そこにロイトがやってきた。
「おーい、ノアー! 釣りしようぜ! この海はでっけー鮫がいるんだってさ!」
「やるやるー!」
船に備え付けてあった釣り竿をセットし、餌をつけて糸を垂らす。しかし餌は魚の切り身なので小さな魚しか釣れない。巨大な鮫を釣るなど夢のまた夢だ。しかしそこにやって来たのはユナだった。
「釣れた魚を餌にして釣りをすればもっと大きな魚が釣れるのでは?」
「あったまいいー!」
ノアとロイトはさっき釣った鰊を釣り針にかけ、海に投げた。しばらくは何の反応もなかったが、太陽が傾き出した頃、ノアの竿が大きくしなった。ノアは持っていかれそうになる竿を必死に握り、引っ張る。
「ぬおおおおおおおお!」
水面近くに一匹の鮫が現れた。大きさは六メートルほど。内陸部に住んでいて鮫を見たことがないノアたちは興奮した。
「あ、ありゃなんだー⁉」
「あれが鮫です!」
ユナが興奮気味に言った。彼女はかつて海沿いの街に住んでいたから魚には詳しいのだろう。
「美味いのか?」
「鰊の方が美味しいですよ。鮫は臭いですし」
鮫が口にくわえていた鰊を離した。鰊につけた小さい針では鮫に対して意味がなかったらしく飛んできた鰊の残骸がノアの顔面に直撃した。鮫はノアを煽るように周囲を泳ぎ回った。
「こんにゃろー!」
ノアは終極の赤を取り出して海に飛び込んで鮫と醜い格闘を繰り広げた。水面に水飛沫が舞う。
「…鮫って何を食べるの?」
ユミルが問う。鮫の大きな口には無数の鋭利な歯が生えそろっている。人間が噛まれたらその部位は食いちぎられるだろう。
「種類にもよりますが魚から中型の海棲哺乳類が主食ですね。ああでも…あの種であの大きさなら人も食べますね。よっぽど空腹ならですけど」
ノアは鮫に敗北し、頭を咥えられていた。鮫はノアを連れて泳いでいった。
「あー!」
「ノアが! ノアが鮫に連れてかれたー‼︎」
「あいつなにしてんだよ!」
兵士たちはオールで船を漕いで鮫が泳ぎ去って行った方に全速力で進んだ。
一方その頃、ラントフォード二番目の都市ラインフォードに国王からの使者が訪れた。使者は領主ロクラスに面会を求めた。昼寝をしていたロクラスは使者を追い返し、夜に来るよう伝えた。夜になって再び館を訪れた使者は館の中に通された。中央の役人が嫌いなロクラスは不機嫌そうに使者を迎えた。
「なんじゃ貴様、あの豚の使いか」
鼻をほじりながらロクラスは使者に言った。
「へ、陛下を侮辱するお言葉と受け取ってよろしいか⁉︎」
突然の無礼に使者は面食らった。
「まあいいじゃろ。そんで何の用じゃ。とにかく貴様の顔が気に入らん。さっさと用件を言って帰れ」
「…貴殿のご子息ノアのことでごさいます。国王陛下はノアの人類への反逆行為に酷くお怒りのようで彼を反乱軍の首領として討伐する準備をしておいでです。私は陛下の御心をお伝えするためにやって参りました」
使者は顔を上げる。
「ワンドマリガから誘拐した者たちをおワンドマリガへ返し、賠償金をお支払いなさいませ。もし拒むようなら貴方も逆賊として名を連ねることになりますぞ」
「構わん!」
ロクラスの野太く、威厳に満ちた声が謁見室に轟く。
「へ?」
使者は目を見開いた。ロクラスは立ち上がり、拳を握り締めて使者を睨みつける。その目は魔物すら震え上がらせる眼光を放つ。これがラントフォードの英雄の威圧だ。ライジスの使者は思わず怯んだ。
「子が世界を敵に回しても守ろうとする者どもを見捨てる親がいるか! 帰って伝えろ! この地を攻めるならば命を捨てる覚悟をせよ、とな‼︎」
家臣たちも同じ気持ちだった。ロクラスこそラントフォードの生ける意思であり、ノアはそれを継ぐに恥じぬ心意気を持つ。ならば彼の在り様はラントフォードの魂であるのだ。その選択が誰かを救い、守るものである以上、それに従うとラントフォードの武人たちは決めている。たとえ国家と戦争になろうとも構わない。戦って、勝って、力を示す。相手が誰であろうとそのやり方は変わらない。使者が去った後、ロクラスは廷臣たちに向けて叫んだ。
「聞いたかお前たち! 戦争じゃ! 反乱を起こす!」
ラントフォードの文武官たちは戦争の準備にとりかかった。




