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義憤と暴走とひとりぼっち

ごめんなさいでした!

予約投稿をセットしたつもりでしたが、ポカをやらかしたようです。


 報された現場は、どちらかといえば街に近かった。ここからではどんなに急いでも四半刻ほどはかかる。

 ジュリアは後のことをカナレアとライナスに任せると、愛用の斧杖だけをもって家を飛び出した。

 まったく、何だってこんなことになるの。ついこないだ交渉が失敗したとおもったら即妨害って──そんな馬鹿なこと!



 千畳の泥壺。そう呼ばれる場所がある。

 あたり一面数百キロ四方にわたって肥沃な泥をたたえた皿状のプールが段のように積み重なっている稀有な場所だ。その皿の一枚一枚はとてつもなく大きく、しかも深い。

 全体でみると巨大な滝のようになっており、上の皿に溜まった粘り気たっぷりの泥水が、ゆっくりと下の皿へ、やがては最もしたの滝壺へと注いでいる。


 縁の方は生き物が通るには充分な幅と強度をもっているので、地元のものもその栄養豊富な泥を得ようと訪れることはある。

 だが、ゆっくりとうごめく泥にひとたび足をとられようものなら、抜け出すことは難しく、押し流されるように下の皿へと引きずり込まれてしまうだろう。そのため、牛や馬、もちろん人なんかも落ちて死んだりした、なんて話の絶えない危険な場所である。

 背後には不帰(かえらず)の森とよばれる場所があり、真っ黒な樹木で満ちた恐ろしげな森が広がっている。そこは勇敢な豹紋族の者でさえ禁域として避けて通るといわれていた。

 そんな場所に、いや、そんな場所にこそ、太古から生き残るハネモグラの活動域があるというのは、納得できる話だ。





 ジュリアが現場に到着すると、もう猟は佳境にはいっていた。泥の湖には幾艘ものカヌーが浮かび、そのうえに立つ豹紋族たちが、勇敢な雄叫びをあげている。

 彼らの向こう側には綱を結わえた銛を打ち込まれた巨大なハネモグラが、何とかそれを振りほどこうと盛大に泥の大波を巻き立たせながら暴れている。

 そのふた組の格闘を取り囲むようにして、明けの空の面々も、軽舟にのって繰り出していた。そこから豹紋族にむかって、盛んに声を張り上げている。



「豹紋族のみなさん、どうかその手を止めてください! 我々はこの狩りに断固抗議いたします!

 すでに皆さんは、規定上の数を殺めています! このままではハネモグラはまたその数を減らしてしまう。

 そうなれば困るのは皆さん自身です! お願いです、どうか直ちに狩りを中止してください!

 あくまでこの抗議が聞き入れられない場合、我々には直接介入する権限が与えられています!」



 事務総長代理の腹心が、拡声魔法のかかった用具で、周囲の騒音に負けぬよう大音声に呼ばわっていた。いつの間に手配されたのか、明けの空側も面子が増員され、かなりの数が出張ってきているようだった。


 だがそれをしても、豹紋族とハネモグラがはなつ命を賭けた決闘の気迫の前では、まるで牡牛のまわりを飛び回るハエのように矮小に映った。けんに豹紋族は気にも留めていないようだ。

 怒りの形相をうかべた腹心が振り仰ぐと、リヴィエラが許可をだすようにひとつ、顎をたてに動かした。



「やれっ!」


 腹心が命じると、それを待ちかねたように、それぞれの舟から組織の面々がいっせいに魔法を放った。風や炎の魔法が、豹紋族たちが張った銛とハネモグラをつなぐ綱を次々と絶ちきってゆく。


「何てことを!」


 ジュリアは我知らず怒りの声を発しながら、帽子から一房の蔓を抜き取ると地面に挿し込み、口内で口早に言霊を唱える。その声に応じて見るまに太く、厚く延びだした蔦の勢いを待つのももどかしく、その上を手近な舟へと走った。


 どんと勢いをつけて舟に降り立ったジュリアを、たまたまそこに乗り合わせていたテレシアが目礼で迎えた。邪魔するつもりでわざとそうしてやったのに、足元をとられるでもバランスを崩すでもなく、涼しい顔で舟の舳先へとたっているのが小憎らしい。


「何をしてるの! こんなこと──駄目でしょう! これじゃあ······」


「仕方ないでしょう。彼らは耳を貸さないのですから」


 その冷たい口調とは裏腹に、テレシアは眼前の光景をまったく乗り気でないような表情でみつめたまま、腕組みをして立ち尽くしている。普段ならリヴィエラの指示を(おこた)ることなどないはずだが、一向に魔法をつかう素振りをみせなかった。

 そんな彼女の様子は、多少なりともジュリアの頭にのぼった血をさける効果をもたらした。


「でも間違ってる。あきらかに侵害でしょ、こんな方法」


「······確かに。これでは、ただ他人の邪魔をしているだけ。ちっともエレガントではない」


でも、とテレシアはこちらに振り返った。


「正しい、正しくないという話しではないのではなくて? そういうものでしょう──いえ、そういうものだったでしょう? 貴女だってずっと同じことをやって来たんじゃないの」


「それは······」


 そうだ。否定はできない。私もずっとそうやってきた。

 でも、それは自分達に課せられた責務を、自然の恩恵を護っているのだという信念と自負があったからこそやってこられた。

 自分は知らなかったのだ。それも、つい最近まで。

 セッチやミックと知り合って初めて、自分たちがしてきたことのしわ寄せを食っている人たちの顔と、その喘ぎを知った。

 自分たちよりはるかに賢く、はるかに昔からそうやって自然とともに生きてきた人達を前にして、なにが責務だ、なにが保護だ。そんなもの、それはただの驕りでしかないではないか。

 そう気づいてしまえば、信念とて自らを正当化させるためだけの都合のよい言葉に過ぎない。


「間違っているとわかっていてそういうことを言うのは貴女らしくないわ、テレシア」


 強張らせたままのテレシアの眉がぴくりと動いた。


「···私たちの邪魔をすると、そういうこと?」

「貴女こそ。私の邪魔をするつもり?」


 両者の間に無言の圧力が生じた。豹紋族の声も、組織の連中ががなる声も、ハネモグラが盛大にたてる水音さえも、とても遠くに聞こえる。テレシアについたふたりの若い組織員は、どうするべきかとお互いの顔を見比べるばかりだ。


「まさか」テレシアはフンと鼻で嗤う。

「貴女なんかとなんで今さら術比べなんてしなければならないの? 私の任務は彼女の護衛。現場の手伝いなど御免よ」


 どうせ私が勝つもの。そんな台詞が言外に聞こえてきそうだ。まあ、確かに。もしもやりあえばそうなるのだろう。


「······とにかく邪魔をする気がないのならそれでいいわ」


ジュリアは向きを変えて、混沌たる様を呈する泥の海をみつめた。


 止めなきゃ。でも、どうやって······?


 もはや敵対心という炎はおおきく燃え盛っている。ただでさえそんなところに、この騒音いりまじる場に、自分ひとりのちっぽけな声など届くはずもない。


 なにかないか、なにか······!


 ジュリアは必死に目をはしらせ、役に立ちそうなものを探す。たが、この泥の大瀑布のど真ん中には、彼女が頼みとする植物も、はるかに遠い岸辺から枝葉を延ばすなどさすがに出来ない。


 こんな場所にあるとすれば、水面に浮く水草くらいしか······

「まてよ」


 ジュリアは自身の直感に導かれるようにして、舟べりから泥水のなかを覗きこんだ。わずかにでも、円い葉をもった水草の類いが浮いていないかと期待したのだが、激しく揺れる茶色い水の面には、そんなかよわい草はとどまってもいられないのか、いっこうに見当たらない。

 駄目だ。こう濁っていては藻さえ生えないだろう。そもそも藻がはえているのだとしたら、それらがある岩なり水底なりは、この水面からいったいどれだけ下にあるかもわからない。自分の魔法は、最低でも杖の先ででもなんでも直に触れないと効果を発揮できない。


「なんでも良い、植物、藻、藻······」


 とりつかれたようにつぶやくジュリアの目に、いつまでもトドメを刺されることなく生殺しの状態になっているハネモグラの姿が映った。



「! そうだ、あるじゃないか、藻なら!」




 ハネモグラが暴れまわるため、周囲の水面は、まるで巨大な手でかき回されてでもいるかのようにザンザンと轟音をたてた。

 明けの空の船団は、豹紋族の飛ばす矢を魔法で迎撃しながら、おなじくハネモグラのめがけて放たれる銛つきのロープを焼いてやろうと試みているが、その実、豹紋族が縄でその巨体を拘束しているからこそ、転覆を免れているという皮肉な状況になっていた。



 グモオォォォォォォ······



 突然ハネモグラが、まるで地の底からひびくような重低音で啼いた。と、その身体から何やらもこもこと緑のものが溢れるように湧き出て、水のうえにまで広がり始めた。


「! これは!」


 リヴィエラは目を見張った。こんな力、いくらドラゴンの亜種とはいえ彼らにはないはずだ。

 彼女が思案を巡らせているうちにも、その緑のモコモコはどんどん成長をつづけ、ついには水面にまで達し、じわじわと、それでいて気づけば驚くほどの速度で、豹紋族と組織の船縁に等しく押し寄せてきた。

 ライナスがそれを注意しながら杖の先で突っついてみる。


「これは──(こけ)? 苔だ」


 大人のハネモグラの身体によくはえている、光をほとんど必要としない苔。どうもハネモグラから直に栄養を分けてもらっているようだ。その見返りに、かれらが泥水の底に潜るさい、わずかながら泡状の酸素をだしてその呼吸を助けているらしい。


 この気配······魔力の痕跡は······


「こんなことが出来るのは──」


 リヴィエラは険しい眼差しで、ハネモグラの巨体のさらに上に眼を凝らす。そこにいつの間にか立つ、その下の巨大な生物とは比べるべくもない小さな人影。


「······なんのつもりです。ジュリア・アルカムゥ」


 ギリ。

 歯をくいしばる音に驚いた腹心は、彼女が表情をけわしくする様を初めて垣間見た。


 そうこうするうちにも、苔はどんどん水面に広がり、まるで明けの空と豹紋族との舟のあいだに入り込む大きな両腕のようにして、双方の距離をゆっくりと離していく。


 豹紋族の側でも、最初はこのハプニングを唖然として見つめていたが、苔が明けの空の側に流れていくのをみて勇気づき、このチャンスに一気に漁を終わらさんとばかりに気炎をあげた。

 ところが苔の勢いがあまりに強く、相手方ばかりかこちらの船縁をも侵食し、気づくと手にもっていた縄の長さがぎりぎりになっていた。

 あわててひっぱり始めるが、ハネモグラをこちらに引き寄せることも、自分たちが近付くことも出来ずに、とうとう苔にもぎ取られるように縄を奪われてしまい、抗議の声をあげた。最後まで抵抗したものはもれなく水に落ち、緑のふわもこした絨毯のうえにつかまるようにして波間をただよう。



 いっぽう、ハネモグラの巨体のうえによじ登り、魔法を発動させていたジュリアも戸惑っていた。


 なにこれ。魔法が、魔力が溢れてくる。止まらない、制御ができない······ッ!


 まったくなんという力を蓄えているのだろうか。これが古より生き残ってきた竜種の力というものなのか。

 これならおおくの魔女が目の色を変えるのも無理はない。なるほど狩猟にかんする条約も必要なわけで、ことは国家間の力関係さえ揺るがしかねない域にまで達する。


 駄目だ······魔法が······止まらない······ッ


 もはやジュリアの意思をこえて、最大級の魔力の供給源をうけた彼女の魔法は、ただその作用と命令のままにはたらき続けた。ジュリアはその鎖につながれた犬のように、ただただ斧杖をつき出したまま立ち尽くすほかない。



 ──イアバリム!



 混沌としたその場を払うように、たからかに声が響いた。そのとたん、ジュリアは腹にかなりの衝撃を感じた。


「ヴッ」


痛みが襲ってくると同時、身体が後ろへとすっ飛ぶ。視界がぐるりと縦に回転して、相も変わらずの鉛色の空がみえたとおもった直後、ザブンと泥水に頭から突っ込んだ。



「······まったく、なんて魔力の壁なの。半分本気でぶちこんでおいて正解でしたわ」


 力ずくでジュリアの魔法暴走をとめたテレシアは、くやしそうに大人しくなった泥色の巨体をみあげた。




 さかさになったそのままの格好で、ジュリアは泥のなかを沈んでいった。

 ふつうの水とは違うので、眼はひらくことが出来ない。そんななかで、ジュリアは周囲の泥のなまあたたかさを感じながら、暗闇の底へとゆっくり落ちこんでゆく。

 ふいに、なにかおおきなものに見つめられているような気がした。


 ───ハネモグラ······


 眼をひらくことのできないジュリアは、それでもしっかりと感じとっていた。ハネモグラが大きな──その巨体にしては小さな眼で、じっと自分を視ていることを。

 だがその視線にこもった感情に、おや、とおもった。


 ──怒っているの? なんで?


 せっかく豹紋族による狩りの手から逃れられたはずなのに、彼、もしくは彼女は抗議の意思を示していた。

 ジュリアはわけもわからず、ただ心のなかでハネモグラに訊ねつづけた。だが答えは返ってくることなく、ハネモグラは悠然と尾をひるがえし、ゆっくりと泥の底へと消えていった。





「エホッ!」


 ジュリアがようやく泥を吐き出した。テレシアは、ふたたび呼吸をとりはじめて上下するその胸を確認し、やっとひと息ついてすわり込む。

 やがてジュリアは瞼をひらいた。


「わたしは······」


「溺れかけたのよ。まったく、泳ぐくらい出来なかったの?」


 ジュリアは全身に力をいれて、ゆっくりと身を起こす。


「無茶言わないでよ。泥沼にうまったことないくせに」


テレシアはフンと鼻をならす。


「一度たりとて経験したくはないですわね」


「ここは? あれからどうなった?」


 問いながら辺りを見回す。

 どうやらまだ千畳の泥壺の周辺にいるらしい。舟のうえではなく、ジュリアは岸辺にひき揚げられていた。

 なぜか全身にまとわりついているはずの泥は綺麗に洗い流されている。自分がなかなか目覚めなかったからか、それとも自身についた泥を流すためか、テレシアが水魔法をぶっかけたらしい。


 空は微塵も揺るがず曇天のままで、すこし暗くなりかけてきている。どうやらけっこうな時間を眠りすごしてしまった。魔法の暴走で、おもいもかけぬ魔力を消費してしまったぶん、身体にもかなり負担がかかってしまったようだ。


「それより貴女、いまから言い訳のひとつでも考えていたほうがいいわね」


 テレシアが傍に点けていた焚き火に木切れを放り込みながらいった。


「彼女──そうとうオカンムリだったわよ」


 彼女? いったい誰のことだろう。セッチ? それとも······

「···あのハネモグラ?」


 ハァ? という感じでテレシアが顔をしかめる。


「リヴィエラに決まっているでしょ。···ったく、呆れたものね」


 ああ、とジュリアは息をついた。テレシアはもう一度あきれたように彼女をみて、真剣な顔となった。


「貴女、本当に気をつけたほうがいいわよ。あんなに無表情なあの方、見たことがありませんわ」


 そういってから、彼女にしては珍しく、なにかを恐れるように口元をひきしめた。


 現・明けの空の事務総長代理にして、実質的トップであり国の最上級貴族の当主。

 本人はけっして口にはしないが、その影響力は国内のみならず、国のそとにおいても広くおよぶ。たとえ自分が魔女でなかったとしても、出来るだけかかわり合いになりたくはない人物といえるだろう。

 まして私は魔女だ。魔女界は、そとの人が想うよりはせまい。


 ジュリアはもういちど重いため息をついた。のっそりと立ち上がる。

 泥壺はさきほどまでの──意識を失った自分にとっては──騒乱など、まるで最初からなかったのだといわんばかりに静まり返っている。

 聞こえてくるのは、遠くで滝がゴウゴウと流れ落ちる音と、水が岸辺を濡らすチャプチャプとした音、夕暮れの雲をはこんできた冷気のまじった風の音に、家路へとかえる鳥の声くらいのものだ。


 明けの空の面々も、豹紋族も、ハネモグラもいない。みんないなくなった······


 豹紋族といえば、彼らも怒っているだろうか。たしかセッチも粘った挙げ句、とうとう次の猟にはついてきていいとの許しを得たといって喜んでいたから、あの中にいただろう。

 彼女はどう思っただろうか。自分としては、心は彼女らの側にあったつもりだった。あの無茶だって、彼女らをたすけようとしてやったことだ。

 だがあちらからみれば、自分もまた、猟の邪魔をした魔女のひとりでしかない。いや、間違いなく、あの場でいちばんの厄介者は自分だった。


 嫌われちゃったよね、やっぱり······


 まるで嘲るように、濡れてあちこちとび出まくったほつれ髪をかすめて夕風がすぎる。


「あのとき」


 あの去り際。なぜハネモグラはあんな眼をしたのだろう。

 あの血走った眼にあったのは怒りの感情。本来なら、生き延びられる望みがでて、ホッとするなり、急くなりするだろうに。あの眼は間違いなくこちら──私に向いていた。

 まるで、大切ななにかに無粋に立ち入ってしまったものを咎めるような······

 手渡されたスープをひと口やった。


「あつ······」


うまい、とまではいえなかったが、それでも身体は温まる。


「···それにしても、最後までつきあってくれたのがアンタとはね」


 自嘲気味につぶやいたジュリアの物言いは、なかなかに失礼だったはずである。だがテレシアは怒ることはなかった。


「アナタ、それ食べといて言いますの?」


 その口ぶりがなんだか妙におかしくて、ジュリアはまた笑みをみせた。テレシアはそれを横目でみながら、つまらなそうな顔でつぶやいた。


「···たぶん習性ですわ。貴女みたいな馬鹿、ほっておけないんでしょう」







 その日の夜遅く。ジュリアは我が家に戻った。

 家はつい半日前とびだした時そのままになっていたが、唯一違うのは、すっかり人気のなくなっていたことだった。家は室内に明かりを灯して主人を迎えることはなく、ただ沈黙して暗闇の沼地にたっていた。

 玄関をあけて中にはいると、ダイニングのテーブルのうえに、一枚の紙片がおいてあるのが目に留まった。薄暗がりのなか眼を凝らすと、どうやらカナレアからの置き手紙らしい。律儀にも組織御用達の封筒にいれてある。




 ──事務総長代理の命で、宿を街中にうつします。たいへんお世話になり、感謝いたしております。同封したお金は、今回の謝礼とのことです。お納めください。



 追伸 またいつか、テレシア先輩と三人でお酒でも呑みましょう。




「ボスを怒らせたんだもの、当たり前か···」


 カナレアにも悪いことをしてしまった。

 ジュリアは手紙を戻してそのまま自室へとひっこみ、汚れた服を脱ぎ捨てると、ベッドに倒れ込んで、あっという間に眠りの淵へとすいこまれていった────






 朝がきた。自身の起き抜けの気分同様はっきりとしない、あいかわらず曇天模様の朝だ。

 目が覚めてもしばらくは、ジュリアは普段とかわらぬよう振る舞った。

 ウチが民宿化してからは起き抜けの姿でダイニングにでることはなく、自室で身支度をすませてから、といういつの間にか当たり前となった習慣にしたがった。

 衣服をすっかり着替えると、部屋に据え付けてある洗面台で顔を洗い髪を櫛ですく。

 鏡のなかの自分がすっかり仕上がったことを確認してはじめて、ジュリアは自室のドアを開けた。


 一瞬、誰かが挨拶をなげてくれたような幻聴を感じた。当番にあたった誰かが、ちょうど焼き上がった料理の皿をテーブルへとはこぶ姿が見えたような気さえした。

 だがそこにあったのは、うっすらと朝日がさしこむだけの揺らぎの希薄な部屋だった。昨日閉じられたカーテンさえ開けられていない、ただの沈黙した空間。

 あれだけ押しつけがましかったのに、すっかり自分の日常になっていたのだと気づいて、ジュリアはすこしだけ心がざわりとした。


 元来自分は独りが得意、というわけではない。

 なんのかんのといいながらも、適度に他人とふれあい、語らいあう生活のほうが好きだし、性にもあう。

 だがこんな所に移ってきて、こんなことになって、いったいどうやって感情の沼に落ち込んでしまった自身をひき上げればよいのだろう。


「······なんにもない」


 本当、そんな場所でどうすればいいのだろう·········。



ありがとうございました。

遅れてしまったことは、本当にごめんなさい。

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