二十二、深淵の日常の中で
伶奈が堕閫童磔の穢れを浴びたときほどの広範囲ではない。しかし彼女のそれは、今まで見たことがないくらい深く浸透していた。しかも西野さん自体目が虚ろで、焦点が定まっていないのに、二人はまったく気にすることがないのも不気味だ。
「自転車があれば今日中になんとかしてあげられたんだけど。」
私はそう呟いてから溜息を漏らす。立ち止まって西野さんの自宅がある道を振り返ってみた。気味の悪い巨大な顔は、未だに私をボーっと見つめている。手前の家の屋根越しに見えるそれは、鼻も口もないために、二つの目玉が嫌に目立って見えるのだ。
「あのバケモノ、前来たときは見なかったのに。まあ伶奈も咲ちゃんも見えてなさそうだったし、今は黙っておきましょう。」
向き直って家へと歩き始めた。
住宅地を歩いていると、ふとある考えが頭に浮かんだ。神社と森の怪物に関する話を収集しなくてはならない。こちらに来たついでに神社跡地にでも訪問してみよう。少し道をそれ、神社のあった地区へと歩き出した。
相も変わらずこの街は騒々しい。いつか慣れる、そう自分に言い聞かせてきたが、簡単にはいかないものだ。そんなことを考えているうちに、伶奈達の家に差し掛かった。
「あら、帯刀さん?」
声の方を見ると、郵便物を手にした伶奈のお母さんが立っている。
「娘がお世話になったみたいで。ありがとうございます。」
私も咄嗟に頭を下げて、
「いえ、私こそ、いつもお世話になってます。」
と慌てて言い返した。
「わ、私、今まで友達とかいなかったので、本当に二人には感謝しております。」
自分でも何故そんなことを言い放ったのかはわからない。ただ言ってから恥ずかしくなって、私は俯いてしまった。
「帯刀さん、ありがとう。うちの娘も、私に似てあたりが強いから、迷惑かけてないといいけど。」
そう言って伶奈のお母さんは照れている。おっとりした雰囲気のこの人も、昔は伶奈みたいな性格だったのだろうか。
「いえ、とても面白い人ですよ彼女。」
伶奈のお母さんはそれを聞いて嬉しそうにしている。
「それでは、私はこれで。」
上がって行かないかと誘われたが、用事があるので断った。手を振り別れ、目的地へと歩き出す。ちょうどいいので、近くにある移行した神社に立ち寄ってみることに。だが近くまで行くと、老婆が一人ぶつぶつと何か呟いているのが見えた。しかし気にしても仕方がないので、適当に周囲を見て回る。
「ここの神主ってどこに行ったのかしらね……」
すると私の独り言にその老婆が反応した。
「あんた、何しに来た。」
ところでこの祠、昔見たときよりもだいぶ朽ちている。日が当たらないうえに、目の前には側溝が通っており、手入れしなければ侵食が早くて当然だろう。
「おい! 聞いとるのか!」
声の方に目をやると、老婆は怒りの形相で私を睨んでいる。
「なんでしょうか。」
そう返すと老婆はますます怒り、私の胸ぐらを掴んだ。
「ひいいいぃぃぃ!!」
悲鳴を上げたかと思うと、すぐさま老婆は私を離して尻餅をつく。そのまま立って眺めていると、老婆は這うようにその場を離れて行った。
目の前の祠を改めて観察する。しかしこの場所では、私の知りたい情報は手に入りそうにはなかった。祠の中も見てみたが、特に何か珍しい物あるわけでもない。
「お姉ちゃんは怖い。」
少し驚いて振り向くと、幼い男の子が立っていた。
「大丈夫、アイツは私に危害を加えなけれれば何もしないわ。」
それを聞くと男の子はホッとしている。
「貴方はこの祠の神様なの?」
私の問いに、彼は頷く。
「ねぇ、あの林にいるのはなんだか知らない? 私そいつのこと調べたいと思ってるんだけど。」
彼の顔が曇った。しばしの沈黙のあと、彼は、
「よくわからない。」
と呟く。私は何も言わずに次の言葉を待っていた。すると彼は私を見つめ、
「アレは昔、偉大な僧侶様が封じた。その後に、お役人様が神社を立てて、神主様が封を強めた。それしか知らない。」
知らないのは本当だろう。
「誰から聞いたの?」
彼は黙った。この空間に居続ければ、瞬く間に朽ちてしまうのではと錯覚するほどの、異様な空気感。そして彼は、決心したように口を開いた。
「お父ちゃんが言ってた。僕がまだ捧げ物になる前。死んでからもずっと神社にいたけど、怖いから僕は近寄らなかったから、何も知らないの。」
理解した。彼は生贄だったのだ。何を思ってかはわからないが、そのあと神社に彼を祀ったのだろう。
「ごめんなさい。嫌なことを聞いてしまったわ。」
そうして謝ったが、彼は首を振る。
「あの森にいるヤツはとっても危険なの。僕じゃ何もできない。街のみんな怖がって近寄らないの。……お姉ちゃんはアイツを倒せる?」
彼はこんな場所に追いやられても、街の人々の心配をしていることに関心させられる。
「どうなるかわからないけど、やれるだけやってみるわ。……今日はお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。」
私は手を合わせ、目を瞑る。目を開けた頃には、もう誰もいなかった。
それから神社があったらしい場所に向かったのだが、いざ到着してみると完全にその面影はない。しかし雰囲気も特におかしい感じはなく、至って平凡。むしろ慶隆町特有の異質な空気を感じないため、他よりも住みやすそうだ。この場所を探索しても意味がなさそうなので、錐馬にある林にも行ってみることにした。
林自体は目と鼻の先にあるため、歩いても五分とかからない。改めて見ると、鬱蒼とした林の入り口は、まるで魔物が口を開けて待っているかのようだ。それにしてもこの場所は堕閫童磔が消えてから、一層空気が重くなった気がしてならない。私は中に入ることはせずに、外周を散策してみることにした。一見何もなさそうに見えるが、よく見ると林の外周に面する家は、どれも手入れされておらず、無人であることがわかる。
「誰かいますか?」
私はそのうちの一軒に訪ねてみる。外観は蜘蛛の巣と土埃が目立ち、割れた窓ガラスも放置されている。戸口には鍵がかかっており、やはり誰もいないのだろう。
「中に入るのは簡単だけど。」
今以上に怪しい動きをすれば、警察沙汰になりかねない。まあ近くに人の気配はないのだが。私は道に戻り、再び外周を歩き始めた。
半周ほど回ったが、やはり何もおかしなところはない。道路を隔てた場所にある物は、田んぼや畑へと変わっていた。一応舗装されているものの、コンクリートのあちこちでひび割れが起きている。地面から田畑へ目を移すと、一台の軽トラックが目に入った。目を凝らすと、雫型でオレンジと黄色のマークが車に貼り付けてある。私は農道に入り、車へと近付いて中を覗いてみた。中にいたのは七十くらいのお爺さんで、ペットボトル片手に休憩している。
「うわぁ! なんだ、学生さんか。」
お爺さんは驚いていたが、すぐに落ち着きを取り戻した。車の窓をハンドルを回して開けると、
「若い子が、こんなとこにどうした? 何か用か?」
と私を見つめてくる。
「部活で街のことを調べてたんです。それで、あの林なんですけど、今誰も近付かないのはなんでですか?」
するとお爺さんは少し嫌な顔をする。
「あそこかぁ……あそこはな、馬鹿げた話だが、化け物が出るって噂がある。たしか十年くらい前だったかな。俺は昔からここに畑持ってたんだが、急にふいんきが変わったんだよ。」
有力な情報に、私の気分は高揚してきた。
「あの、それって、神社の移転した時期じゃないですか?」
それを聞いたお爺さんは、目を見開いて、
「ああ、確かにそのあたりだ! たしか、取り壊しの時に一人死んだって話題になってたな。俺はあんまり興味なかったから、これ以上は聞かなかったが。」
と顎を撫でている。
「お話ありがとうございます。お邪魔してすみません。私はこれで失礼します。」
そう返すと彼は、
「よくはわからんが、林には入らんほうがいい。俺は幽霊なんざ信じとらんが、あそこには間違いなく何かおる。」
そう真剣な表情で話した。大丈夫だとだけ彼に伝え、林の外周に戻る。歩いているうちに、お爺さんの軽トラックは見えなくなった。
どれくらい経っただろうか。前に伶奈と来た入り口へと辿り着いた。改めて見ると、この辺は林に面する家にも人が住んでいるようだ。神社跡地からは結構離れているが、それと何か関係があるのかもしれない。辺りは淡いオレンジと、湧き出たような黒に覆われてゆく。
「歩くのはここまでにしましょうかしら。……一周するだけでも一苦労だわ。」
堕閫童磔用の罠を仕掛けに来た時はあまり気にしてなかったが、やはり気味が悪い場所だ。しかし何者かの気配はあるのは確実。霊体の居場所を特定するために精神を研ぎ澄ませる。すべての感覚を魂で感じることで、物理的な物を透過して霊体の場所を知ることができるのだ。だがこれにはリスクが伴う。それは、向こうもこちらの存在に気付く可能性がある、ということ。
「ふぅー……遠くまで、遠くまで。」
林の中を私の意識が通り抜けてゆく。しかしまだ、何かを感じることはない。より深く、より強く集中し、範囲の中にいる何かを探り出す。
いた。姿はわからないが、木の枝に座っているのが見える。さらに意識を集中させると、ソイツは身体中にグレーの毛が生えていた。コイツはまさか……犬?
次の瞬間ソレは私の方に目を向けた。突然のことに動揺し、意識は体へと引き戻される。まずい、奴の気配は間違いなく近付いてきている。しかもかなりの速度で。体は考えるよりも先に、走り出していた。
息を切らせながら、塀にもたれかかる。街に落ちた暗い影をかき消すように、街灯が煌々と輝いていた。私もその光の中に身を置くことで、心が少しずつ楽になってゆく。林の方に目をやるが、奴が追ってきている気配はない。安堵の溜息をつきながら、頭に焼き付くあの目を思い出していた。黄色く光る、殺意の眼差し。縄張り意識? いや、そんな生易しいものじゃない……もっと、奴を突き動かす何かがあるはず。そもそもアレはなんだ? 何者だ? おそらくだが、奴は異形ではないだろう。だが妖魔にしては禍々し過ぎる。あの強い意志は、私を守る力さえも貫くであろう。
「あれ? 帯刀じゃん。何してんの? うちの前で。」
顔を上げると、伶奈と咲ちゃんが立っていた。暗くてわからなかったが、よく見るとここは伶奈の自宅の前。
「あれ? 小百合ちゃんのは終わったの?」
咲ちゃんはそう言って私の隣に座り込む。
「いや、何も。これから帰って準備するつもりよ。」
私の返答に少し咲ちゃんはムッとして、
「小百合ちゃん早くしないとヤバイんでしょ? 大丈夫なの?」
と口を尖らせている。
「少し時間がかかるのよ、準備に。暗くなってから押し掛けるのも迷惑でしょ。それに彼女はまだ半年くらいは大丈夫よ。」
私の反論を聞いた二人は拍子抜けしていた。深刻だと私が言ったのだから無理もないか。
「もー、あんた人を不安にさせないでよね。まあ大丈夫だってんなら良かったけど。」
伶奈は安堵しつつそう言ったが、別に深刻なことには変わらない。
「半年ってのは、西野さんが人間でいられるまでの猶予なのよ。ヤバイのには変わらないわ。だからなるべく早いほうがいいの。」
それを聞いた二人は黙っていたが、動揺していることは感じ取れた。
「ま、そうゆーことだから。ところで明日は二人とも一緒に来る?」
私の言葉に返事をしたのは咲ちゃんだ。
「何するのか見たい! ね、伶奈?」
伶奈は咲ちゃんのテンションに、呆れた表情で頷く。
「それじゃあ、私は帰るから、また明日。」
伶奈が親に送らせると言うが、迷惑をかけるのも悪いので丁重にお断りした。
「まあ、それならいいんだけどさ。気を付けてね。じゃ、また明日!」
歩き出した私に、二人は笑いながら手を振ってくれる。嬉しさと恥ずかしさで顔が火照り、振り返ることができなかった。
汗を拭いながら、ようやく家の前までたどり着く。
「おお、おかえり。夕飯できてるぞ。ん? どうした愛里寿。」
私は荷物を漁りながら、浄化が必要な女の子の話をした。
「いつも使ってるやつでいいのか?」
頷くと爺ちゃんは一升瓶を取りに台所へ向かう。瓶には聖水を入れているのだが、爺ちゃん自体はどんな物なのかはわかっていない。ただここで言う聖水は、聖書などで出てくる物とは別で、異形から受ける侵食を取り除く薬のような役割を果たしている。制作には"曖昧な空間"に存在する水を取ってくる必要があり、そうほいほいと使えるわけではないのだ。幸い今回の分は足りるが、近いうちに水を調達してこなくてはならないだろう。
「ほら、ここに置いておくぞ。……また出かけるんか?」
爺ちゃんは心配そうな顔をしている。私は、
「ううん、今日は家にいる。」
と返事をして、夕食を食べに移動した。




