十三、のどかな日常
ついに土曜日の朝を迎える。あれから何事もなく、しかし事態が進展することもなかった。決行は今夜。何故夜なのか聞いてみたところ、人の活気が失われた頃合いは、妖魔や異形にとって居心地いいものなのだとか。逆に人間の霊は、活気のある場所や人のいる場所を好むのだそう。
帯刀はもう行動しているのだろうか……彼女に任せっきりで罪悪感が残る。だが下手に出しゃばれば、かえってお互いの命を危機にさらすかもしれない。それだけは何としてでも避けなければ……
「パパ、今日友達のとこに泊まってくる。」
支度を終えた私は、父に一言断りを入れて玄関に向かう。
「友達って、高校で知り合った子かい?」
相手が誰なのか、気になるらしい。まあ私も年頃の娘なのだから仕方がないだろう。
「帯刀婭里寿って子、クラスも部活も一緒なんだよ。まあ、ちょっと変わってるけど、面白い人だよ。」
それを聞いて安心したのか、外泊の許可が下りた。合流するのは夕方なので、朝っぱらから出かける必要はないのだが。
私は一人、図書館へと赴いた。只今の時刻、午前九時、開館時間ぴったり。開いたばかりの図書館内は人も居らず、いつも以上に静かな空間となっていた。受付の人に挨拶をして、資料室の鍵を借りる。資料室で壊滅思想を見たことはないため、問題ないと踏んだのだ。
「朝早くから熱心ですね。」
座って休憩していると、資料室の入り口に新島さんが立っていた。先程の受付さんから聞いて、挨拶にきたのだそう。
「ここ、しばらくお借りしますね。」
すると彼女は笑顔でこう言った。
「しばらく? いや、ずっといるべきだ。」
ノイズ掛かった異常な声は、最早人間のものとは思えないほどに歪だ。新島さんはポケットから刃物を取り出すと、一歩、また一歩と距離を縮めてくる。私は気が動転し、動けないままジッと座って彼女が来るのを待っていた。
「あのー、大丈夫ですか?」
気がつくと受付の人に声を掛けられていた。どうやら資料室の扉に、鍵を差し込んだ体勢で固まっていたらしい。
「あ、えと、ちょっと考え事してて……」
あやふやに答えを出したが、受付さんはそれで納得したらしく、仕事へと戻っていった。
資料室で本を探しながら、先程起きた出来事の意味を考える。私は壊滅思想を見ていないし、なんなら本棚にいたわけでもない。何が何だかわからないが、今帰るといかにも変人に見える。
「って違う。何しに来たか忘れるとこだった。えーっと、この前の本は……」
独り言を吐き出し、作業に取り掛かる。問題は帯刀が咲に教えた本。あれが資料室にあったとして、探し出せるだろうか。仮に帯刀の私物であれば、探している時間は完全に無駄になってしまう。
一通り棚を眺めて見たが、それらしい本は見当たらない。これ以上探しても仕方がないので、咲が隠していた本を取り出そうとした。
ない。隙間を探したが見つからない。最後に触っていたのは帯刀の筈だから、どこか別の場所に置いたのかもしれない。
ない、ない、ない、どこにもない。募る焦りが更に私を混乱させる。何度も何度も棚を探り、ファイルの間や棚の隙間を必死に見て回る。
「あのぉ、どうかなさいましたか? 何か探し物でしたら、お手伝い致しますよ。」
先程声を掛けてくれた受付の若い女性が、心配そうに立っている。狂人のようにファイルを漁っていた私は、我に返りとてつもなく恥ずかしくなった。先程見た幻覚もあってか、私は冷静さを欠いているらしい。
「す、すみません……なんか今日変みたいで、今日はもう帰ります。」
散らかったファイルを、受付の女性が一緒に片付けてくれた。その間に女性と話をすると、彼女は今年の四月からここに勤務している新人さんらしい。名前は北条 沙織。彼女と話しているうちに精神も安定し、ある程度思考もまともになってきた。
「ありがとうございました。迷惑かけてすみません。」
北条さんは気にする素振りも見せず、私の鞄を手渡してくれる。再びお礼を言い、私は図書館を後にした。
春の心地よい風に吹かれ、一人ふらふらと歩く。図書館でバケモノの知識を少しでも詰め込もう作戦は失敗に終わり、途方に暮れていた。日が暮れるまでまだまだ時間がある。試しに帯刀に電話してみたが、電波が届かない場所にいるらしい。仕方がなくスーパーの休憩スペースを目指して歩き出した。
「よー! 入江じゃねーか!」
車のエンジン音と共に、誰かが背後から声を掛けてくる。振り返って確認すると、そこには車の中から手を振っている仲馬先生の姿が。青いベースボールキャップにジャージ姿がなんとなく似合っている。
「あ、センセ……何してるんすか? つかデカい車ですね。」
先生は私の横に、箱型の大きなSUVを停め、車を軽く叩きながら説明し始めた。
「ああ、ランクルか? これは親父のお下がり。もう乗らないっつーから、あたしが使ってるだけだ。古い型だからあちこちガタがきてるけどな。」
そう言ってケラケラ笑っている。
「ところでお前、こんなとこで何してんだ?」
暇な私は、暇そうな先生に、夕方まで時間を潰す必要があることを伝える。すると彼女は車に乗るように促してきた。
「今から釣りに行くんだけどどうだ? 那瀬川なんだけど。」
那瀬川とは、慶隆町と阿佐木市の間を流れる一級河川だ。錐馬と御舘の間を流れる綾兎川も、この那瀬川に合流する。
「どうせ暇なんで、付き合いますよ。」
ドアを開けて乗り込み、シートベルトを着用する。車は河川目指して走り出した。
街の景色が一定の速度で流れてゆく。
「先生はなんでうちの顧問になったんですか?」
私は前からの疑問を、先生にぶつけてみることに。
「ああー、なんつーかな……顧問になる気はなかったんだよ。……ただ、あいつと色々あってな……」
あいつが帯刀のことなのは、すぐに察しがついた。しかしあの先生が、気を変えてしまうほどとは。
「まあ詳しい話は勘弁してくれ。その代わり私もあんた達には干渉しないからさ。」
哀愁の漂う横顔に、それ以上は追求できなかった。
他愛もない話をしていると、目的の河川が見えてきた。
「釣りって、何釣るんですか?」
質問をすると、あまり気乗りしないような雰囲気になる。
「大して釣れないかもなぁ……ホントは朝早く出るつもりだったんだけど、寝坊した上に学校に忘れ物してな。まあ今日は暇だし、どうせなら行こうかとね。」
この人、意外と暇人なのかもしれない。
車は川沿いの道に入り、そこから河川敷へ下って行く。橋の下辺りに到着し、そこで車を止めた。
「センセ、橋の下だと釣れやすいんですか?」
荷物を取り出しながら先生に話し掛ける。
「いや、わからん。ただ釣りするのは橋の真下じゃなくて、そこの茂みの先だ。」
指差す方向を見ると、なるほど、その場所に行くには、橋の下側から行く道以外、雑草をかき分けて行かねばならないのだ。
「それに、今はまだ日陰は寒いだろ。」
四月も終盤に差し掛かっているが、やはり昼間でもまだ肌寒い日がある。
荷物を持って茂みの奥に足を踏み入れた。地盤はしっかりしていて、折りたたみ椅子を置いても、安定していて座りやすい。先生はというと、釣竿をセッティングした後は、持参したビーチベッドに横たわって寝てしまった。竿の先には鈴が付いていて、獲物がかかった時に知らせてくれるのだろうが、あの調子で気が付くのだろうか。
「ああ、何か掛かったらよろしく。私寝るわ。」
こいつは何をしに来たのだろう。しかし私は言われた通り、獲物が掛かるのを座って待っていた。
心地よい陽気にうとうとしていると、水音に混じって甲高く綺麗な金属質の音が。
「ひゃあぁぁ! ひ、引かなきゃ! センセ?!」
肝心の仲馬センセは、大口開けて眠っており、まったく起きるそぶりを見せない。諦めて竿を手に取り、リールを巻いてゆく。別段大変なわけでもなく、魚はすんなりと釣れてしまった。釣れた魚は大きめのフナ。口から釣針を外し、水の入ったボックスに入れる。一瞬、先生の額にでも乗せてやろうかと思ったが、後からが恐ろしいのでヤメにした。
それから適当に釣りをしていると、そこそこたくさんの魚が釣れる。先生の存在など忘れて楽しんでいると、背後の茂みで何かが動く音が。人が来たのかと思い、振り向いてみたが誰もいない。フナがぶら下がった釣り糸を掴み、突っ立って動きがあるのを待つ。じっくりと観察していると、やはり何かが動いている。動物でもいるのかと身構えていると、音の主が姿を現した。
なんてことはない。亀がいたのだ。サイズはなかなかのもので、顔を上げて何かを見つめている。視線の先にあったのは、釣られたまま宙ぶらりんのフナ。
「……これが欲しいの?」
亀に話しかけたところで仕方がないと、フナを釣針から外し亀の手前に置いてみた。すると亀は、フナの頭をかじったかと思うと、胴体を咥えて移動を始めた。
「礼を言おう。」
確かに聞こえたそれは、一体誰が放った言葉なのだろうか。ただ、茂みに戻って行くその亀には、尻尾の辺りから自信の体長を越えるほどの、長い毛が生えていた。
あれから数時間、もうすぐおやつの時間になる頃に、ようやく先生が起きてきた。
「おお、結構釣れてるな! お前才能あるんじゃないか?」
ボックスの中を確認し、先生は感心している。たが今回釣れたのは、どうも私の実力とは関係ない気がしてならない。自分から掛かりに来ていたような。
「そういえばこの魚どうしましょうか。釣ったはいいんですけど、こいつら食べないですよね?」
先生は魚をボックスから取り出して眺めている。
「ニジマスはいいとして、フナとニゴイは逃していいかもな。」
数えると合計十二匹。ニジマス五匹を残し、他は川に返した。
「ん? 入江? 何してんだ?」
私はある一匹のフナに、どこか違和感を感じていた。
「いや、このフナ……」
先生は首を傾げているが、面倒なのでそれ以上は何も言わずに片付けを始める。
「おし、あたしんちで魚焼くか! いつの間にか昼過ぎてるしな!」
そういえば私もお腹が空いている。運命の時まであと数時間、少しでも力をつけて起きたい。
「このフナ、食べれます? 塩焼きとか。」
それを聞くと先生は顔をしかめながら、
「フナって食えるのか? 絶対臭いって。」
とドン引きしている。
荷物を積み込み、車を発進させる。
「先生、あの辺に亀っています? 」
彼女は一瞬間をおいてから話しだした。
「亀、亀かあ……親父と昔からあの川で釣りしてたけど、見たことないな。いたのか?」
私は軽く頷き、ある質問をしてみる。
「亀に歯ってあります? 魚かじったりしますかね?」
その内容には、先生は素早く答えてくれた。
「亀はクチバシはあるが歯はないな。それと、魚を噛むことはあっても、喰い千切るなんてのは日本にゃいねーだろ。」
程なくして、阿佐木市内の先生宅に到着する。外観は立派なもので、庭も広く美しい。
「親父! 魚焼きたいんだけど。」
先生が声を掛けると、庭の奥から白髪頭で立派な白髭の、一人の男性が出てきた。
「おお、瞳か、待ってろ。ん? 瞳、その子はどこの娘だ?」
先生のお父さんらしき人に先生は、私が生徒だと話すと、何も言わずに家の中に入ってしまった。
「機嫌悪いんですか?」
私の問いに先生は、手を叩いて大笑いしている。
「いつもあんなだよ。いやいつもより機嫌いいほうだし。」
先生が笑っているうちに、親父さんはバーベキューセットみたいな物を持ってきた。
「よく来たな。瞳が迷惑かけんかったか?」
よく見るとこの人、見覚えがある。どこだ? 会ったことがあるはずだ。
唐突に彼が、壇上であいさつしている姿が思い出された。
「……あれ? 仲馬町長さん?」
私の一言に、二人とも目を丸くして私を見てきた。私が戸惑っていると、
「よく知っとるの、 わしゃ十年前まで慶隆の町長しとったんじゃ。」
と大笑いしている。昔見たあの時とまったく同じ笑い声。そして先程の仲馬センセの笑い方と、本当によく似ている。
「錐馬小学校で一年生の時に見た町長さん、今でも覚えてますよ!」
先生のお父さんは、釣ってきた魚を焼きながら私の話をにこやかに聞いていた。初めの印象とは真逆で、とても楽しい人で、名前を仲馬 昌吉さんと言うらしい。
私がお昼を食べていないと知り、ご飯に野菜、果物までご馳走にしてくれた。例のフナも、無理を言って塩焼きにしてもらい食べてみたが、臭みはおろか、何の味もしない。
「不思議なもんじゃなぁ。そりゃそうとアイスでも食わんか? ちょうど母さんが買ってきとったはずだ。瞳! 取って来てやりなさい。」
先生は少し嫌そうな顔をしていたが、何も言わずに家の中へ消えてゆく。
「あの……昌吉さん、ちょっと聞きたいことがあるんですが。」
彼はうんうんと私の話を聞いてくれた。
「あの川に亀っていますか? そこそこ大きめで、魚をかじるような……」
髭を撫でながら考え込む昌吉さん。数秒後、何かを思い出したらしく、こんな話をしてくれた。
「もしかしたら、逃げ出したワニガメがおるのかもしれんなぁ、ワッハッハ! ……そうじゃないとすれば、那瀬川に住む神さんかもしれん。」
話終わると同時に、先生がお徳用アイスを持って出てきた。
「これでいーの? まあこれしかなかったけど。」
先生は一本アイスを取り出し、私に箱ごと手渡す。二本取り出し、一本を昌吉さんに手渡して箱を先生に戻してやると、箱ごと持ってきたことを後悔していた。
「どれ、片付けせんとなあ……そうだ、伶奈ちゃん、那瀬には灯春という神様がいるっつー話だ。その姿は正確にはわかっとらんが、何千年も昔から生きとるコイだとかナマズ、亀だと言われとる。じゃがナマズは皮成の大鯰と混同されたとすると、コイか亀が妥当なところか。」
私が見た亀は、本当に那瀬の神様だったのだろうか。あとで帯刀に聞いて見ればわかるかもしれない。……そういえば今何時だろう。帯刀と約束した時間は午後六時。赤い光が街に差し込み、もうすぐ日が暮れることを告げている。アイスを戻しに行った先生が、ちょうど戻ってきた。
「先生、夕方から用事があるんですけど……」
そう言うと先生は軽く返事をして、車の方に向かった。
「親父! 送ってくからあとお願い。」
すでに片付け始めていた昌吉さんに声を掛け、私は家の近くまで送ってもらうことにした。
「また来なさい、いつでも歓迎するよ。」
昌吉さんはそう言って送り出してくれた。
「五時半かあ、悪いな付き合わせて。しかし、あんな楽しそうな親父見るの久々だったな。色々あって元気なくなってたからさ。」
先生の表情はいつもより嬉しそう。私も久々に充実した休日を過ごすことができた。
「いえ、私も楽しかったです。……暇だったらまた付き合ってもいいですよ。」
そう言って笑うと、先生も釣られて笑う。先生の車は私を乗せて、忌まわしき目的地へと迫っていた。




