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第1話~不幸です~

――はあ、はあ、はあ……!

 荒い息を繰り返す度、朝特有の冷たい空気が喉をがすように通り抜けていく。既に周りに人の気配はなく、聞こえるのは俺の息づかいのみで、その事実がより一層と俺に焦りをもたらす。

 こんなにも本気で走ったのは、いつ以来だろう? 昔はいくら走っても疲れなんて感じなかったというのに……直ぐにバテてしまう辺り、俺ももう歳だという事か。

……いや、違う。朝飯を食べていないからだ!

 ほんの少し前に食べる筈だった朝飯が脳裏をよぎり、家から離れれば離れるほど未練はつの っていくばかりだった。

 それに、あえて考えないようにしていたが、さっきから吐き気やら眩暈めまい やらがして、少しでもスピードを緩めたら再起不能になってしまいそうだ。

 こうまでして、会社に間に合う必要があるんだろうか? いや、そりゃあ時間通りに行くのが常識なんだろうが、朝飯抜き、体調不良に遅刻スレスレの時間帯という苦痛の中で、社畜な俺の精神はマイナスな方向へと傾いていた。一応建て前として走ってはいるが、頭では既にどんな言い訳をしようか考えていて、急ごうという気は全くない。

(……ん?)

 ふと感じた違和感に、俺は立ち止まって辺りを見回す。

「あ、立ちくらみが……」

 世界が、俺の立っている地面からぐにゃりと反転して、殆ど倒れるようにして座り込む。

「はあ……はあ……うぇっ」

 嗚咽混じりに息を整え改めて前を向くと、目の前には見慣れない路地が広がっていた。

(こんな所に道なんてあったっけ?)

 長いことこの場所を通っているが、こんな脇道があるなんて全然気付かなかったな。ああ、でも朝だっていうのに仄暗ほのぐら く、よっぽど注意して見ない限りは気付かなくてもおかしくないだろう。

(……この道、どこに繋がっているんだろう)

 見た感じ俺が行こうとしているのと同じ方向に続いているようだが、もしかして近道にでもなってやしないだろうか? チラと時計を確認すると、時刻は7時50分。どのみち間に合わないなら、少しでも可能性のある方に賭けてみるか。

 場違いにぽっかりと開いている道に、1歩足を踏み入れる。暗いというよりは、光を呑み込み閉じ込める、ブラックホールと言った方が正しいのかもしれない。思わず進むのを躊躇ためら ってしまうが、この道を行く以外に他はないのだから仕方ない、俺は込み上げてくる胸のむかつきを抑えながら、ただひたすらに走り出した。

――今思えば、これが全ての間違いだったのだ。



「なんとか、間に合いそうだな……」

 一抹の不安をかき消すべく、まるっきり根拠のないことを口走ってみる。無論、間に合うなんてのは、この道が正しい場合に限るのだが。長い長い暗がりの中、一筋の光が差し込んで、ようやく道を抜けることが出来た。

「あ、あれ?」

 そこには見たこともない風景が広がっていて、俺はその場に立ちすくんだ。どうやら、道を間違えてしまったらしい。こうなるなら、いつもの道を選んでおくんだった……

 今更悔やんでも仕方ない……かく 、急いで戻らないと。今さっき来た道を引き返すべく振り向くと、まさ しく目と鼻の先と言ってもいい程の距離に、フードを被った人が立っていた。

「……のわあああ!?」

 一瞬、言葉が出てこずにワンテンポ遅れて悲鳴が上がる。人間、本気でびっくりすると声が出ないものなのか。

 その人はフードを目深に被っており、僅かに見える口元のヒゲで男であることがうかが える。

「あ、あの、すいません道を塞いじゃって。すぐどきますんで」

 不気味ではあったが、単に自分が気付かなかっただけなのかもしれないし、あからさまな反応は失礼だろう。俺は出来るだけ何でもないように取り繕って、話しかけた。それでも、上擦った声は隠しきれていなかったのだが。


 ドスッ


 本当にドスッて音がして、俺と男の距離がゼロになる。

「……! しまった、外しちまった!」

 男はそう言うや否や、サッときびす を返して走り去ってしまった。一体何だったのだろう? それにあの男の声、どこかで聞き覚えが……

 いや、今はそんなことより一刻も早く会社に行かなくては。もう遅刻確定だな。自業自得なんだけど、さ。

 はあ……遅刻は遅刻なんだし、ゆっくり歩こう。朝からこんな調子じゃ、テンション下がるなあ。まあ、流石にこれ以上悪いことなんて起こらないか? というか、考えつかない。

 ゆっくり行こうと決めても、悲しいかな社畜な俺はつい、時計を確認してしまう。『赤く』染まった文字盤を拭うと、とっくに8時を過ぎてしまっている。

「ん? 赤? ……ってこれ、血じゃねえか!?」

 時計どころではない。誰のものとも知れない血液はシャツの袖口まで濡らし、地面に所々に赤い斑点を作っていた。

「な、な、何で……? ペンキじゃなくて? 本当に血?」

 答えてくれる人なんている筈ないのに、今この現状を否定したくて疑問を投げかけてしまう。聞かなくたって、血液独特の鉄臭さで否が応にもそれと分かるのに。

(血って言ったって、一体誰の……)

 こうなった原因は、十中八九じっちゅうはっく あの男の仕業なんだろうが、それにしてもこんなに大量の血液どこから? 見た感じ、何も持っていなかったし、ポケットに入るものでもあるまい。

……いや、待てよ? 人通りの少ない道――怪しい男――外したという言葉――そして大量の血液――

 このキーワードから導き出される1つの仮説……いや! 外れて欲しい、外れて欲しいが……! 俺は恐る恐る、自身の身体を確認する。

 すると、案の定……と言ったらおかしな言い方になるが、脇腹には太いナイフの柄が飛び出しており、その大きさから埋め込まれている刃の部分もそうとう大きく、よく切れる物だということが容易に想像できる。

 血を見てしまったショックか、それとも出血多量によるものなのか足に力が入らなくなり、ズルズルと壁にもたれ掛かる感じに座り込んでしまう。

(痛くはない……見た目ほど痛くはないけど! 血、止まらないしどうすれば!? ……あ、そうだ救急車!)

 今になるまでそんな考え微塵も持たなかったが、本当に緊急時のときって案外こんなもんなんだなあ。会社の遅刻理由も出来たし、上手くいけば2、3日休暇なんてことも……

(……いやいやいや! そんなこと考えてる暇ないって!)

 慌てる俺がいる中、心のどこかでは普段通りに振る舞おうとしてる自分がいて、今現在で進行している非日常がどれだけショックだったのか、思い知らされる。

――そりゃあ、逃げたくもなるよな……

 俺自身、何がどうなっているのか全く分からないけど、ここで何もしなければ確実に死ぬ。それだけは、分かった。

(あ、そういえば刺さってるナイフって抜いた方がいいのか?)

 いつまでも刺さっているままじゃなんか嫌だし、痛みもないから抜いても大丈夫……か? ゆっくりとナイフに手を掛けて痛みがない事を確認してから、しっかりと柄の部分を握る。

「……い!?」

 途端に痺れるような痛みに襲われ、慌てて手を離す。やはり救急車が来るまでは触らないようにしよう。別に無理して抜くもんでもないしな。1度痛みを感じてしまったからか、さっきまでは何ともなかった傷口がジュクジュクとした刺激を断続的に主張し始めた。余計なことしなけりゃよかったな……クソッ。さっさと救急車呼んでしまおう……

 最早座っているのも辛くなり、うずくま る姿勢で携帯を取り出す。だからなのか、俺はこの場に近付いてくる者の気配に気付くことが出来なかった。者というか、人ではないのだが。

 突然に走った激痛に、俺は訳も分からず力が入れられた方向に倒れ込む。痛みは脇腹ではなく頭から来たもので、混濁こんだく する意識の中、身体にのしかかっている黒い影を見たのを最後に、俺という存在は完全に途絶えた。



(……ってあれ? まだ意識がある?)

 うっすらと目を見開くと、そこには血まみれで倒れている俺の姿があった。

(ああ、なるほど。死んじまったのか、俺は)

 そう考えると、この体の軽さも妙に納得出来てしまう。人間、どれだけの量の血を流せば死ぬのかなんて皆目見当もつかないが、こんなもんで死んでしまうのか。生きている時はもっと大量に出ているもんだと錯覚していたが、こうして見ると大して流れていなかった。

(人間ってのは精密に作られすぎなんだな。いやあ、脆い脆い)

 自分が死んだってのに、随分と他人事のように感じてしまう。生前は死ぬことが死ぬほど怖かったが、幽霊になれるなら仕事はないし、何をするにも無料ただ だし良い事づくめじゃないか!?

 俺は得意気に舌を出し、ハッハッと荒い息を繰り返す。それにしても、この目線はどうなっているんだ? 極端に低くなっているんだが……まさか倒れた時に死んだからなのか!? すると、これからずっと寝たきり状態!?

 オロオロと動き回る俺の背後で、『何か』が起き上がる音がした。

……いや、それはない。だって、俺はここにいるんだから。そんな訳……

 頭の中で嘘だ嘘だと唱えながらも振り返ってみると、起き上がる筈のない俺が、長座の体制よろしく上半身だけをこちらに向けて見つめていた。

 有り得ない出来事に声が出ず、口をパクパクとさせながら後ずさる。自分の事だから言いたかないけど、非常に不気味だ。気持ち悪すぎる、大人しく死んでいてくれ。

 理解出来ない。この意識は、間違いなく俺自身だ。だとすると、目の前に居る俺は何者なんだ? 訳が分からず、俺は拳を握り締める。握る手なんてないんだけど。……あれ? でも、少なくとも手の感覚はあるぞ? それに、動くことが出来たんだから足もあるよな? 俺の体は。

 見ると、何とも触り心地の良さそうな黒い斑点――俗に言う、肉球というものがポチッと付いている。

(……!!? 何で!? え? 嘘!?)

 勘違いじゃないかとペタペタあちこち触ってみるが、ピンと立った耳、ふさふさの毛、人間でない事は一目瞭然であった。おまけに、ぴょこっと尻尾も付いていて、俺の意思なんか関係なく縦横無尽に動き回っている。

(ああああ!! やりたかないのに、尻尾が気になってしょうがない!)

 昔見たテレビに、犬が自分の尻尾を追いかける映像があったが、まさか俺が同じ事をする羽目になるとは……屈辱だ。

 追い付く筈がない尻尾をひたすらに追いかけているうちに、目を回してしまったのか、バランスを崩して転倒してしまった。

(クソッ……何で……何で!)

「アオーーーン!! (犬になっちまったんだよおおお!!)」

 悲痛な叫びさえ遠吠えに変換され、誰に届くこともなく風にかき消されて消えてしまった。

――本体が出血多量で死ぬまで、残り50分。



皆さんこんにちは、九十九和桜です。今回、意外と早く更新出来たので良かったです。遅くとも、週1で更新出来たらなと思っています。

今回の話ですが、人間って本当に直前に喰らった痛みは感じないらしいですね。また、身体の3分の1の血液が失われると死に至るようです。だいたい掛かる時間は30分前後らしいですが、本文ではちょっと長めの50分にしてみました。

本体が死んだら、主人公は犬の体のまま余生を過ごすことになるんですね。それもそれで、書いてみたいような気がします。

それでは皆さん、また次回お会いしましょう。

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