第4話 星を描く(後編)
その夜、寂れた鉱山町から、一本の光の柱が立ちのぼった。
町じゅうの人々が、それを見上げていた。
自分の名前を、まだ思い出せないまま。
日が沈むまでに、ミラは町じゅうを駆け回った。
「広場に集まって。灯りを持って」
領主の娘の顔を、みんな知っていた。
名前は思い出せなくても。
人々は戸惑いながら、ひとり、またひとりと集まってきた。
パン屋の夫婦。
老いた鉱夫。
井戸のそばの兄妹。
カンテラを、手燭を、古い灯籠を手にして。
広場は、小さな灯りの海になった。
町の外れでは、白い霧が石垣を越えようとしていた。
最初の家の軒先が、もう白く滲んでいる。
残された時間は、きっと多くない。
リオは、広場の中央の石畳に膝をついた。
鞄から、紺色の革表紙の星図を取り出す。
祖父が遺した、あの星図。
最後の頁を、開いた。
北天第一区。
ハロウの星が、小さな点で描かれている。
そのすぐ下に、角ばった字の「ルミナ」。
ステラが、ちらりとその文字を見た。
それから、何も言わずに、リオの隣にしゃがんだ。
夜が深まり、ステラの体が淡く光り始める。
フードを外した銀の髪が、灯りの海の中で、ひときわ白く輝いた。
人々が、ざわめいた。
「……あの子、光ってるぞ」
「星数えの坊主の、連れか」
ステラは、気にした様子もなかった。
光る手で、リオのランプの芯をそっと上げてくれる。
「リオ。てらすね」
「……ありがとう」
リオは、空を見上げた。
広場の真上。
ハロウの星が、あった。
今にも消えそうな、針の先よりも細い光。
四日前の夜、トレイユが消える直前も、きっとこんな光だった。
吸って、四つ。吐いて、四つ。
リオは、星墨の瓶の栓を抜いた。
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まず、星を描いた。
星図の上の、ハロウの小さな点。
その上に、ペン先をそっと置く。
星墨を、少しずつ、重ねていく。
小さな点が、ゆっくりと丸く、大きくなっていく。
星墨が、紙に染みた瞬間。
藍色の底で、光の粒が、ふるりと震えた。
それから、思い出を書いた。
今日、町の人たちから集めた、ひとつひとつを。
描いた星の周りに、渦を描くように。
『最初の朝。真っ黒焦げのパン。ふたりで全部食べた』
パン屋のおかみが、はっと顔を上げた。
『坑道の奥の、銀の川。仲間と抱き合って泣いた』
老鉱夫が、鶴嘴を握りしめた。
『灯籠まつり。山が、星空になる』
兄妹が、顔を見合わせた。
『母の肩車。ほら、山が星空になったわよ』
ミラが、口元を手で押さえた。
リオは、書き続けた。
生まれた夜の嵐のこと。
初めて歌った母の声のこと。
坑道の落盤で亡くした友のこと。
冬の朝、凍った井戸を皆で割ったこと。
恋人に、初めて名前を呼ばれた日のこと。
一文字書くたびに、星墨が瞬く。
一行書くたびに、星図の上の夜空が、明るくなっていく。
藍色の文字が、ひとつ、またひとつと、紙から浮かび上がった。
蛍のように。
あるいは、星の生まれる瞬間のように。
光の文字は、リオの描いた星の周りを、ゆっくりと巡り始めた。
広場が、静まり返った。
誰も、息をしていなかった。
最後の一行を、書き終える。
ペンを置く手が、震えていた。
あとは――名を、呼ぶだけ。
『そして夜、その星の真下で、名を呼べ』
リオは、立ち上がった。
星図を、両手で胸の前に掲げる。
空を、見上げる。
「……ハロウ」
声が、かすれた。
何も、起きなかった。
巡っていた光の文字が、ふっと揺らいだ。
消えかけた蝋燭の火のように、明滅する。
人々の間に、不安げなざわめきが広がった。
「やっぱり、無理なんじゃ……」
誰かの声が聞こえた。
リオの膝が、震えた。
声が、出ない。
自分は、ただの星数えだ。
山の上で、星を数えて、記録するだけの。
祖父のように、何かができるわけじゃない。
――何が、残ったの?
三日前の、ミラの声が耳の奥で響く。
吸って、四つ。吐いて――
「リオ」
袖を、引かれた。
ステラだった。
光る手で、リオの袖を握っている。
「だいじょうぶ」
ステラは、まっすぐにリオを見上げていた。
「リオが、よんでくれたとき」
「わたし、すごく、うれしかったよ」
「だから、よんであげて」
「あの、ほしも、きっと、まってる」
ステラは、もう覚えていないはずだった。
あの夜、丘の上で目を覚ましたことも。
「だれかが呼んでくれた」と言ったことも。
それでも、彼女は言った。
うれしかった、と。
記憶ではないどこかに、それは残っていたのだろうか。
リオは、ステラの手を、そっと握り返した。
それから、もう一度、空を見上げた。
消えかけた、小さな星。
誰にも呼ばれなくなって、ひとりぼっちで、暗くなっていった星。
――待っていたんだ。
ずっと、誰かに呼ばれるのを。
ステラが、暗がりの中で待っていたように。
リオは、大きく息を吸った。
四つ、数えなかった。
「――ハロウ!!」
叫んだ。
生まれて初めて、腹の底から。
星図が、光った。
巡っていた光の文字が、一斉に、空へと駆け上がった。
リオの描いた星が、紙の上から浮かび上がる。
小さな光の珠になって。
それを中心に、光の文字が螺旋を描いて昇っていく。
広場の石畳から、夜空へ。
まっすぐに。
どこまでも、まっすぐに。
光の柱だった。
町じゅうの灯りを集めても届かないほど、白く、まばゆい光。
夜の底を貫いて、天へ伸びていく。
そして――柱の先端が、空の一点に届いた。
ハロウの星。
消えかけていた、その小さな光が。
燃え上がった。
熾火に、息が吹き込まれたように。
針の先ほどの光が、みるみる膨らんでいく。
北の空の、どの星よりも明るく。
夜空に、ひとつの星が生まれ直していた。
光の柱が、ほどけた。
無数の光の粒になって、町じゅうに降り注ぐ。
雪のように。
花びらのように。
あの丘で、空へ昇っていった光の粒が、今度は空から帰ってくるように。
光の粒が、人々の肩に、髪に、頬に触れる。
触れたところから、ふわりと溶けて、消えていく。
そして。
「……ヨハン」
パン屋のおかみが、呟いた。
夫の顔を見つめて。
「ヨハン。……あんた、ヨハンだ」
主人の目から、大粒の涙がこぼれた。
「マルタ。……マルタ!」
二十年分の名前を、ふたりは何度も呼び合った。
井戸のそばで、兄が叫んだ。
「リリ! おまえ、リリだ!」
妹が、兄に飛びついた。
「にいちゃん! トビにいちゃん!」
老鉱夫が、鶴嘴を取り落とした。
「……のぞみ坑」
震える声で、言った。
「そうだ。のぞみ坑だ。わしらが名前をつけた、坑道だ」
「なんで、忘れとったんだ……」
広場のあちこちで、名前が弾けた。
呼び合う声が、重なっていく。
笑い声が、泣き声が、名前と一緒に夜空へ昇っていく。
町の門の看板が、月明かりの下で、くっきりと浮かび上がった。
滲んでいた文字が、ひとつひとつ、輪郭を取り戻していく。
『ハロウ』
町の外れでは、白い霧が、潮が引くように後退していった。
「……ハロウ」
誰かが、言った。
「この町の名前。ハロウだ」
「ハロウだ!」
「ハロウ!」
人々が、口々に町の名前を叫んだ。
空の星が、それに応えるように、また少し明るく瞬いた。
リオは、その光景を、ただ見ていた。
膝から力が抜けて、石畳に座り込む。
手の中の星図には、もう何も浮かんでいなかった。
ただ、ハロウの星だけが、前よりもずっと大きく、くっきりと描かれていた。
「リオ」
顔を上げると、ミラが立っていた。
赤い髪が、光の粒をまとってきらきらと輝いている。
頬は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「……ミラ」
ミラは、自分の胸に手を当てた。
「わたしは、ミラ」
「ミラ・ハロウェル。ハロウの領主の娘」
今度は、こぼれなかった。
名前は、ちゃんと、そこにあった。
ミラは、リオの前に膝をついた。
そして、深く、深く頭を下げた。
「ありがとう」
声が、震えていた。
「星数えなんて言って、ごめんなさい」
「何が困るのなんて言って、ごめんなさい」
「……あなたが、星を数えていてくれて、よかった」
リオは、何も言えなかった。
言葉の代わりに、目の奥が熱くなった。
広場の人々が、リオを見ていた。
いつもの、変わり者を見る目ではなかった。
パン屋のマルタが、エプロンで目元をぬぐいながら、笑った。
「……リオ」
名前を、呼ばれた。
「星数え」ではなく。
「ありがとうね、リオ」
「ありがとう、天文台の坊主!」
「リオ!」
誰かが、拍手を始めた。
それが、広場じゅうに広がっていく。
リオは、どうしていいかわからなくて、隣を見た。
ステラが、泣いていた。
光の粒の降る中で、ぽろぽろと。
「……また、泣いてる」
「うん」
ステラは、涙をぬぐいもせずに、笑った。
「きれいすぎて」
気づけば、リオの頬にも、熱いものが伝っていた。
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天文台に戻ったのは、真夜中を過ぎた頃だった。
町の人たちは、なかなかリオを帰してくれなかった。
パンを持たされ、干し肉を持たされ、果実酒の瓶まで持たされた。
「坊主にはまだ早い」と、マルタがすぐに取り上げたけれど。
ステラは、帰り道の途中で眠ってしまった。
リオは、その小さな体を背負って、山道を登った。
千四百十二歩。
光る少女の重みは、思っていたより、ずっと軽かった。
台所の椅子にステラを寝かせ、毛布をかける。
それから、観測室で『ステラの日記』を開いた。
星墨にペン先を浸し、今日の日付を書こうとする。
秋の、二十三日。
ふと、ペンが止まった。
壁の暦が、目に入ったのだ。
祖父が毎年、秋のどこかの日に、赤い丸をつけていた暦。
今年の暦にも、去年のうちに祖父が丸をつけていた。
その日は、毎年、祖父が少しだけ贅沢なパイを焼いた。
「年寄りの誕生日なんぞ」と照れながら。
リオは毎年、その日のために、山で野苺を摘んだ。
――おじいちゃんの、誕生日。
それは、いつだっただろう。
リオは、暦の赤い丸を探した。
秋の頁に、いくつか印がついている。
星の観測の予定。満月の日。新月の日。
そのうちの、どれだったか。
「……あれ」
思い出せなかった。
毎年、野苺を摘んだことは覚えている。
パイの甘い匂いも、照れくさそうな祖父の笑顔も。
なのに、その日が、いつだったのか。
「……疲れてるのかな」
リオは、小さく笑って、首を振った。
今日は、いろいろなことがありすぎた。
明日、ゆっくり暦を見直せばいい。
リオは日記に向き直り、ペンを走らせ始めた。
今日のステラのこと。
パン屋で、パンの作り方を訊いたこと。
兄妹と、灯籠まつりの話をしたこと。
震えるリオの袖を、引いてくれたこと。
光の柱を見て、泣いたこと。
――その夜、リオは気づかなかった。
祖父の誕生日を思い出せなくなったのが、ただの疲れではないことに。
天窓の上で、生まれ直したハロウの星が、静かに瞬いていた。
――ステラの日記 三日目
『ステラは、光の柱を見て、また泣いた。今度は、僕も泣いた』




