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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第4話 星を描く(前編)

星を描くために必要なのは、絵の才能ではなかった。

誰かが、その町を愛した記憶。

それを、ひとつ残らず拾い集めることだった。

 

三度目の朝も、ステラは泣いた。

今度は、リオが日記を読むより先に。

「……わたし、きっと、まいにち、ないてるね」

涙をぬぐいながら、ステラは笑った。

「はい。毎日です」

「まいにち、きれいなんだ」

「毎日、きれいです」

リオは日記の一日目と二日目を、続けて読んだ。

ステラは、ミラの手を握ったことを覚えていなかった。

それでも、日記の最後の一行を聞くと、自分の手のひらを見つめた。

「……あったかかった?」

「たぶん。ミラさん、泣きやんでましたから」

「そっか。よかった」

ステラは、手のひらをぎゅっと握った。

そこに、まだ温もりが残っているかのように。

朝食のスープを飲みながら、リオは祖父の覚え書きを開いた。

昨夜、何度も読み返した頁。

『ひとつ。その土地の、まことの名』

ハロウ。

その名を、リオは覚えている。

町の人たちが忘れても。看板の文字が滲んでも。

毎晩、観測録に星墨で書き続けてきた名前だから。

『ふたつ。その土地に生きた人々の、思い出』

問題は、こちらだった。

「……思い出を、集めないといけないんです」

リオは、ステラに説明した。

「町の人たちから。ハロウで過ごした、大切な思い出を」

「たいせつな、おもいで」

「はい。でも……」

リオは、言葉を濁した。

町の人たちは、リオのことを「星数え」と呼んでいる。

山の上の、変わり者の子ども。

そんな自分が「思い出を聞かせてください」と頼んで、誰が話してくれるだろう。

ステラは、空になった椀を置いた。

「リオ。わたし、ききたい」

「え」

「みんなの、おもいで。わたし、ききたいよ」

夜空色の瞳が、きらきらしていた。

「だって、わたし、なにも、しらないもん」

「みんなが、すきなもの、ぜんぶ、しりたい」

――何も知らないから、全部知りたい。

リオは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

「……じゃあ、一緒に、聞きに行きましょう」

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

町の門の前で、ミラが待っていた。

昨日と違って、ちゃんと外套を羽織っている。

赤い髪も、きっちりと高く結い上げていた。

けれど、目の下には、うっすらと隈があった。

「……遅いわよ」

「すみません」

「別に、待ってたわけじゃないけど」

そう言いながら、ミラはリオの手元の帳面を見た。

「それで? 何か、わかったの」

リオは、祖父の覚え書きのことを話した。

星送りのこと。思い出を集めること。

代償の頁が切り取られていたことは、言わなかった。

言えば、きっとミラは止めるだろうと思った。

「思い出、ね」

ミラは腕を組んだ。

それから、ふん、と鼻を鳴らした。

「あなたひとりじゃ、誰も相手にしないわよ」

「……はい」

「だから、わたしも行く」

「え」

「わたしは領主の娘よ。名前は、まあ、今はちょっと思い出せないけど」

ミラは、少しだけ声を震わせて、それから胸を張った。

「顔くらいは、みんな知ってるわ」

 

パン屋のおかみは、最初、困った顔をした。

「思い出、ねえ。……そんな、急に言われても」

カウンターの奥で、主人も黙ってこちらを見ている。

今朝も、互いの名前は戻っていないのだろう。

ふたりの間には、ぎこちない沈黙が漂っていた。

そのとき、ステラがカウンターに身を乗り出した。

「パン、どうやって、つくるの?」

「……え?」

「パン。かたくて、すっぱくて、おいしいの」

ステラは、目を輝かせて言った。

「どうやったら、あんなふうに、なるの?」

おかみは、きょとんとした。

それから、ぷっと吹き出した。

「あんた、うちのパンを『おいしい』って言ったのかい」

「うん。いちばん、すき」

「変わった子だねえ。あれは安いだけが取り柄の……」

言いかけて、おかみは窯のほうを振り返った。

「……でもね。最初に焼いたのは、もっとひどかったよ」

声が、少しだけ柔らかくなった。

「この町に嫁いできた、最初の朝さ」

「この人が張り切って、窯の火を強くしすぎてね」

「真っ黒焦げ。炭みたいなパンができちまって」

窯の前で、主人が気まずそうに頭をかいた。

「……あれは、おまえが薪をくべすぎたんだろう」

「何言ってんだい、あんただよ」

「いいや、おまえだ」

ふたりは言い合って、それから、同時に笑い出した。

「ふたりで、その黒焦げを全部食べたんだよ」

「歯が折れるかと思ったなあ」

「でもね、あの朝が、いちばん、おいしかった」

おかみの目尻に、光るものがにじんでいた。

リオは、星墨のペンを走らせていた。

一言も、こぼさないように。

『最初の朝。真っ黒焦げのパン。ふたりで全部食べた。いちばん、おいしかった』

書きつけた文字が、ほのかに瞬いた。

 

閉ざされた坑道の前では、昨日の老鉱夫が、また座り込んでいた。

ミラが声をかけると、老人は目を細めた。

「ああ、領主様のところの、お嬢ちゃんか」

「この坑道の、思い出を聞かせてほしいの」

「思い出、なあ」

老人は、錆びた鶴嘴を撫でた。

「名前は、まだ思い出せんのだがな」

「最初に銀の脈が出た日のことなら、よう覚えとる」

真っ暗な坑道の奥。

カンテラの灯りに、岩肌がきらりと光った。

最初は、見間違いだと思った。

もう一度、鶴嘴を振るった。

岩が崩れて、その奥に。

「銀の川が、流れとったんだ」

老人の目が、遠くを見ていた。

「灯りを当てるとな、夜空みてえに、光るんだよ」

「わしら、泣きながら叫んだ。仲間と抱き合ってな」

「その晩は、町じゅうが坑道の前に集まって、朝まで騒いだもんさ」

リオのペンが、走る。

『坑道の奥の、銀の川。夜空みたいに光った。仲間と抱き合って泣いた』

 

井戸のそばでは、昨日の兄妹が石けりをしていた。

兄のほうは、まだ妹の名前を思い出せないらしい。

「おい」「ねえ」と、呼び合っている。

ステラがしゃがみ込んで、目線を合わせた。

「ねえ。このまちで、いちばん、たのしかったこと、なに?」

兄妹は、顔を見合わせた。

それから、兄が叫んだ。

「灯籠まつり!」

妹も、ぴょんと跳ねた。

「とうろう! とうろう!」

「年に一回な、坑道の入り口に、ぜんぶ灯籠をつけるんだ」

兄は、両手を大きく広げた。

「そしたら、山じゅうが、ぴかぴかになるんだぜ」

「山が、星空みたいになるの」

妹が、得意げに付け足した。

「……でも、去年はなかった」

兄の声が、少し沈む。

「坑道が、ほとんど閉まっちゃったから」

ステラは、山を見上げた。

今はもう、ほとんどの坑道の口が、板で塞がれている。

「みてみたかったな。ほしぞらの、やま」

ステラが、ぽつりと言った。

リオは、ペンを走らせた。

『灯籠まつり。山じゅうの坑道に灯りがともる。山が、星空になる』

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

昼を過ぎる頃には、町の様子が変わり始めていた。

「星数えの坊主が、思い出を聞いて回ってるらしい」

噂は、霧よりも速く広がった。

最初は、遠巻きに見ていた人たちが。

ひとり、またひとりと、自分から話しかけてくるようになった。

「わしの話も、聞いてくれんか」

「うちの母ちゃんが、この町で初めて歌った日のこと……」

「あたしが生まれた夜は、ひどい嵐でね」

誰もが、町の名前を忘れていた。

隣人の名前も、家族の名前も、自分の名前さえも。

けれど、思い出だけは、まだ胸の奥に残っていた。

埃をかぶった宝石箱の底に、眠っていたように。

誰かが蓋を開けてくれるのを、ずっと待っていたように。

リオの帳面は、みるみる埋まっていった。

一頁。二頁。五頁。

星墨の文字が、頁の上でちらちらと瞬いている。

まるで、小さな夜空が育っていくようだった。

日が傾き始めた頃、ミラが、リオの隣に腰を下ろした。

町の広場の、古い石のベンチだった。

「……ねえ」

ミラは、町並みを眺めながら言った。

「わたしの思い出も、書いてくれる?」

「もちろんです」

ミラは、少しだけ黙った。

それから、山のほうを指差した。

「灯籠まつり。わたしも、好きだった」

「小さい頃ね、母様に、肩車してもらったの」

「山じゅうに灯りがともってて」

「母様が言ったの。ほら、山が星空になったわよ、って」

ミラの母が亡くなったのは、五年前の冬だった。

リオも、それは知っていた。

町じゅうが、喪に服した冬だった。

「……わたし、この町が嫌いだって、ずっと思ってた」

ミラは、膝の上で手を握りしめた。

「寂れてて、古くて、何もなくて」

「早く出ていきたいって、ずっと」

「でも」

声が、震える。

「嫌いじゃ、なかった」

「母様と見た灯りも、この町だった」

「……全部、この町だったのよ」

リオは、ペンを走らせた。

『母の肩車。山じゅうの灯り。ほら、山が星空になったわよ』

書き終えたとき、背後でステラが小さく声を上げた。

「……リオ」

振り返ると、ステラが町の外れを見つめていた。

フードの奥の瞳が、揺れている。

「あれ、なに?」

リオは、ステラの視線の先を追った。

町を囲む、低い石垣の向こう。

夕陽に染まった畑の、そのまた向こう。

白いものが、あった。

霧だ。

けれど、朝の霧とは違う。

光を通さない、乳を流したような濃い白。

それが、音もなく、地を這うように。

町の外れから、ゆっくりと、こちらへ迫ってきていた。

――白地。

祖父の覚え書きの、その言葉が頭をよぎった。

星の落ちた土地は、白い霧に沈む。

「……三晩も、もたない」

リオは、立ち上がった。

帳面を、胸に抱きしめる。

「今夜だ」

「今夜、やらないと」

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