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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第3話 消えかけの町(後編)

名前を失うというのは、鏡に映る自分が、知らない誰かになることだ。

その朝、ミラは鏡の前で、それを知った。

 

「……ミラ」

リオは、その名を呼んだ。

ミラの瞳が、ぱっと明るくなる。

「ミラ。そう、ミラよ。わたし、ミラ……」

確かめるように、繰り返す。

けれど、三度目で、その声がふっと揺れた。

「……ごめん」

ミラは、唇を噛んだ。

「もう一回、言って」

「ミラ」

「ミラ。……ミ、ラ」

言葉が、指の間から砂のようにこぼれていく。

聞いた瞬間はわかるのに、次の瞬間には遠ざかる。

水面に書いた文字のように。

「もう一回」

「ミラ」

「……もう、一回」

ミラの目に、涙がにじんだ。

リオは、何度でも呼んだ。

五回。六回。七回。

そのたびにミラはうなずき、そのたびに、忘れた。

「……なんなのよ、これ」

ミラが、震える声で言った。

「朝、起きて、鏡を見たの」

「そしたら、自分の名前が、出てこなかった」

「侍女はわたしを『お嬢様』としか呼ばない」

「父様に訊いたら……父様、わたしの顔を見て」

声が、詰まる。

「『娘よ』って。それしか、言わなかった」

通りの石畳に、涙が一粒、落ちた。

「帳面に書いてあるはずだと思って、日記を開いたの」

「表紙に、名前を書いてたはずなのに」

「……読めなかった。滲んで、ぼやけて」

ミラは、乱暴に目元をぬぐった。

「それで……あなたのこと、思い出したの」

「山の上で、毎晩、星を数えてる変なやつ」

「あいつなら、もしかしたら、って」

いつも高いところから見下ろしてきた少女が。

天文台を「何も残らない」と言った少女が。

今、リオの袖にすがって、泣いている。

リオは、どうしていいかわからなかった。

そのとき、ステラが動いた。

フードの奥から、そっと手を伸ばす。

ミラの震える手を、両手で包み込んだ。

「……え」

ミラが、驚いて顔を上げる。

「わたしも、なまえ、なかったよ」

ステラは、まっすぐにミラを見つめて言った。

「くらくて、さむくて、ひとりで」

「でも、リオが、よんでくれた」

「だから、だいじょうぶ」

ミラは、ぽかんとして、ステラを見た。

フードの隙間から、銀色の髪がひと筋こぼれている。

「……あなた、誰」

「ステラ」

ステラは、誇らしげに胸を張った。

「リオが、つけてくれたの」

ミラは、ステラとリオを交互に見た。

それから、泣き笑いのような顔で言った。

「……何それ。ずるい」

けれど、ステラの手を振りほどきはしなかった。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

井戸の縁に並んで腰かけて、リオは話した。

毎晩、星を数えていること。

星には、土地の名前が預けられていること。

三日前の夜、遠い町の星が消えたこと。

そして、今朝、ハロウの星が消えかけていたこと。

ステラのことは、言わなかった。

言っても、信じてもらえないと思った。

それに、ミラは今、それどころではない。

「……星が、消えかけてる?」

ミラが、眉を寄せた。

「この町の星が?」

「祖父が、よく言っていました」

リオは、記憶をたどるように言った。

「名星は、その土地を想う人の心で灯るんだって」

「誰かが、その町を大切に思っている間は、光っている」

「誰も、思わなくなったら……」

言葉の先は、言えなかった。

ミラが、広場のほうを見た。

男たちは、まだ話し込んでいる。

「この町は、もう終わりだ」

「出ていけるやつは、とっくに出ていった」

その声が、風に乗って聞こえてくる。

「……じゃあ、わたしたちのせい?」

ミラが、かすれた声で言った。

「わたしたちが、この町なんかって思ってたから?」

「わたしも、思ってた。こんな寂れた町、早く出ていきたいって」

リオは、首を横に振った。

「誰も、悪くないです」

「みんな、ただ……疲れてただけだと思います」

坑道は閉じていく。

若い人は出ていく。

明日の暮らしのことで、精一杯だった。

町の名前を、心に灯している余裕なんてなかった。

それを、誰が責められるだろう。

ミラは、しばらく黙っていた。

やがて、ぽつりと言った。

「どうすれば、いいの」

「……わかりません」

正直に、答えた。

ミラの肩が、落ちる。

「でも」

リオは、自分の膝の上で、手を握りしめた。

「調べます。祖父の記録に、何か残ってるかもしれない」

ミラは、顔を上げた。

リオをじっと見つめる。

それから、小さく笑った。

泣いたあとの、ぐしゃぐしゃの笑顔だった。

「……星数えのくせに」

そう言ってから、ミラは目を伏せた。

「お願い」

その声は、とても小さかった。

「お願い、リオ」

――星を数えないと、何が困るの?

一昨日、ミラはそう言った。

リオは、何も答えられなかった。

今なら、答えられる。

困るのだ。

星が消えれば、名前が消える。

名前が消えれば、人は、大切な誰かを呼べなくなる。

二十年連れ添った夫婦が。

幼い兄妹が。

鏡の前の、ひとりの少女が。

「……はい」

リオは、立ち上がった。

「必ず」

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

天文台に戻ると、リオは祖父の部屋の書棚を片端から崩した。

観測録。星図の写し。古い暦。

星の言葉の辞書。誰かの手紙の束。

どこかに、何か書いてあるはずだ。

星が消えかけたとき、どうすればいいのか。

ステラも、手伝ってくれた。

といっても、文字はまだほとんど読めない。

挿絵のある頁を見つけるたびに、リオに見せに来る。

「リオ、これ。ほしの、え」

「……それは暦の絵です」

「こっちは?」

「それは、料理の本です」

「りょうり。……おいしそう」

ステラは、パイの挿絵をじっと見つめていた。

午後の光が、少しずつ傾いていく。

見つからない。

何十冊めくっても、星が消えたあとのことは書いてあっても、その前のことがない。

消えた星の名前と日付。見送りの線。

祖父も、その前の天文台守たちも、ただ記録してきただけなのか。

星が消えていくのを、見ていることしかできなかったのか。

窓の外が、茜色に染まり始めた。

ステラの指先が、また、淡く光り始める。

リオは焦りを押し殺して、祖父の書き物机の前に座った。

机の引き出しは、三段。

上の二段には、羽根ペンとインク壺と、古い封筒。

いちばん下の段だけが、開かなかった。

鍵穴が、ある。

小さな、真鍮の鍵穴。

リオは、懐から銀の懐中時計を取り出した。

蓋の裏の窪みから、真鍮の鍵を外す。

一昨日の夜、木箱を開けた鍵。

差し込むと、かちり、と小さな音がした。

引き出しの中には、一冊の帳面だけが入っていた。

観測録よりも小さく、薄い。

表紙の革は、手の脂で黒く艶を帯びている。

祖父が、何度も何度も、手に取ってきたのだとわかった。

表紙に、細い右肩上がりの字があった。

『天文台守の覚え書き オルト・アステル』

リオは、震える指で、頁を開いた。

名星のこと。

星墨の作り方。

消えた土地が、白い霧に沈むこと。

そこを「白地(しろじ)」と呼ぶこと。

知っていることも、知らないことも書いてあった。

頁をめくる指が、止まる。

見出しが、あった。

『星送り――星を描き直す術について』

リオは、息を呑んだ。

『名星が暗くなった土地、あるいは星の落ちた土地は』

『次のものが揃えば、よみがえらせることができる』

『ひとつ。その土地の、まことの名』

『ふたつ。その土地に生きた人々の、思い出』

『みっつ。星墨と、星図』

『思い出は、その土地の人の口から集めること』

『星図の、その星の在るべき場所に、星墨で星を描く』

『その周りに、集めた思い出を書き連ねる』

『そして夜、その星の真下で、名を呼べ』

『描かれた星は空へ還り、土地はふたたび灯るだろう』

「……あった」

声が、かすれた。

「あった……!」

リオは、思わず立ち上がった。

ステラが、びっくりして振り向く。

光る髪が、ふわりと揺れた。

「リオ?」

「方法が、あったんです。ハロウを、助ける方法が」

ステラの顔が、ぱっと輝いた。

「ほんと?」

「本当です。祖父が、ちゃんと書き残してくれてた」

ただ記録してきただけじゃなかった。

見ていることしか、できなかったわけじゃなかった。

天文台守には、できることがあったのだ。

リオは、次の頁をめくった。

そこにも、見出しがあった。

『星送りの代償について』

代償。

その言葉に、リオの手が止まった。

見出しの下に、一行だけ、祖父の字が残っている。

『星送りには、代償がある。それは――』

そこで、途切れていた。

次の頁が、なかった。

その次も。その次も。

綴じ目のところに、紙の根元だけが残っている。

数頁分が、まとめて切り取られていた。

破いたのではない。

刃物で、まっすぐに。

ためらいのない、きれいな切り口だった。

リオは、その切り口を指でなぞった。

祖父が、やったのだろうか。

それとも――別の、誰かが。

何のために。

誰に、読ませないために。

窓の外で、日が沈みきった。

天窓の向こうに、一番星が灯る。

リオは、空を見上げた。

ハロウの星は、今夜もまだ、そこにあった。

熾火のような、消え入りそうな光で。

朝よりも、さらに暗く。

――あと、三晩。

天文台守の目が、そう告げていた。

それ以上は、きっと、もたない。

 

 

――ステラの日記 二日目

『ステラは、泣いているミラの手を握った。わたしも名前がなかったよ、と言った』

 

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