第3話 消えかけの町(前編)
最初に失われたのは、パン屋の主人の名前だった。
二十年連れ添った妻が、夫を呼ぼうとして、口ごもった。
それが、町の終わりの始まりだった。
二度目の朝も、ステラは泣いた。
回廊の欄干に並んで、山の端から昇る光を見た。
ステラは、その朝日を初めて見る顔をしていた。
実際、彼女にとっては初めてだったのだ。
昨日の朝のことは、もう覚えていないのだから。
「……きれい」
こぼれた涙を、ステラは不思議そうに指でぬぐった。
リオは、何も言わずに隣にいた。
それから、懐から『ステラの日記』を取り出した。
一日目の頁を開き、声に出して読む。
『今日、ステラは初めて朝を見た。きれいすぎて、泣いた』
ステラは、目を丸くした。
「……きのうも、ないたの?」
「泣きました」
「おなじ、あさで?」
「同じ朝で」
ステラは、もう一度、昇りきった太陽を見た。
そして、くすりと笑った。
「わたし、なきむし、だね」
「……そうかもしれません」
リオも、少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
眼下に広がる、霧の海。
その底に沈んでいる、ハロウの町。
夜明け前に見た、消えかけの星のことが、頭から離れなかった。
「……町へ、下りてみます」
「わたしも、いく」
即答だった。
リオは、迷った。
空から落ちてきた少女を、町の人たちが見たらどう思うか。
「……目立たないように、してくれるなら」
「めだたない?」
「静かに、っていうことです」
「しずかに、する」
ステラは、こくこくとうなずいた。
本当にわかっているのか、怪しかった。
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祖父の古い外套は、ステラには大きすぎた。
裾を二度折り返し、袖を三度まくる。
フードを深くかぶれば、銀の髪はほとんど隠れた。
足には、リオが子どもの頃に履いていた革靴。
つま先に、少し詰め物をした。
「くつ。……かたい」
「すぐ慣れます」
山道を下りながら、ステラは何度も立ち止まった。
木の枝で鳴く小鳥に。
岩の隙間に咲く、名も知らない青い花に。
苔むした石の、ひんやりとした手触りに。
そのたびにリオは、それの名前を教えた。
ステラは名前を繰り返し、指を一本折った。
今夜になれば、その半分は消えてしまうのだろう。
それでも、ステラは嬉しそうに数えていた。
リオは、それをひとつ残らず胸に刻んだ。
今夜、日記に書くために。
千四百十二歩。
霧が晴れて、ハロウの町並みが見えてきた。
町の入り口には、古い木の門がある。
門柱の上には、鉱山の町らしく、鶴嘴の形をした看板。
そこに、町の名前が彫られている。
――はずだった。
リオは、足を止めた。
看板の文字が、ぼやけていた。
雨風に削られたのではない。
文字の輪郭そのものが、水に溶かした墨のように滲んでいる。
読もうとすると、目が滑る。
「ハ」の字なのか、「ロ」の字なのか、わからない。
「……リオ」
ステラが、外套の袖を引いた。
「あの、かんばん。ないてるみたい」
リオは答えずに、門をくぐった。
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町は、静かだった。
人がいないわけではない。
井戸のそばにも、通りにも、いつも通り人の姿はある。
けれど、誰も、誰かを呼んでいなかった。
朝の市場には、いつも名前が飛び交っている。
「おい、トマス!」「ハンナ、こっち手伝って!」
そういう声が、ひとつも聞こえない。
人々は、互いの顔を見ては、何か言いかけて、やめる。
困ったように笑って、目を逸らす。
町全体が、言葉を失くしたようだった。
パン屋の扉を開けると、香ばしい匂いがした。
いつもの、固くて少し酸っぱい黒パンの匂い。
けれど、店の中の空気は、いつもと違っていた。
おかみが、カウンターの奥に立ち尽くしていた。
粉だらけの手を、前掛けの上でぎゅっと握りしめて。
その視線の先、窯の前に、主人がいる。
大きな背中を丸めて、パンの焼け具合を見ている。
いつもの光景のはずだった。
「……あんた」
おかみが、主人の背中に呼びかけた。
「あんた、ほら、あの……」
言葉が、続かない。
おかみの唇が、何度も同じ形を作ろうとする。
二十年、毎日呼んできたはずの名前を。
出てこない。
主人が、振り返った。
その顔にも、同じ戸惑いが浮かんでいた。
「……おまえ」
主人も、妻の名を呼べなかった。
ふたりは、しばらく見つめ合っていた。
二十年分の朝を、ともに迎えてきた顔を。
やがて、おかみが、くしゃりと顔を歪めた。
「おかしいねえ。……おかしいよ、こんなの」
笑おうとして、笑えていなかった。
リオに気づいたおかみが、はっと顔を上げた。
「ああ、星数えの……」
そこで、止まる。
「……あんた、名前、なんだっけね」
毎週、パンを買いに来ていた。
一年間、一度も欠かさず。
そのたびに「あんたも、いつまで山にいるんだい」と言ってくれた人が。
「リオ、です」
「リオ。……ああ、そうだ、リオだ」
おかみは、何度も繰り返した。
手のひらに、こぼれる水をすくうように。
「リオ、リオ……」
指の隙間から、名前がこぼれていく音が聞こえる気がした。
リオは、黒パンを三つ買って、店を出た。
おかみは、代金を受け取るのも忘れていた。
通りを歩くうちに、町の様子がわかってきた。
井戸のそばで、小さな男の子が泣いていた。
一緒にいた、もっと小さな女の子の手を握って。
「なまえ、わかんない」
しゃくり上げながら、男の子は言った。
「いもうとの、なまえ。わかんなくなった」
妹のほうは、きょとんとして兄を見上げている。
自分の名前も、もう言えないのだろう。
閉ざされた坑道の入り口では、年老いた鉱夫が座り込んでいた。
錆びた鶴嘴を膝に載せて、ぼんやりと山を見上げている。
「……この坑道にもな、名前があったんだ」
リオが通りかかると、老人は誰にともなく言った。
「わしが四十年潜った坑道だ。仲間と、名前をつけたんだ」
「最初に銀の脈を掘り当てた日にな。酒を呑んで、騒いで」
「……なんて名前だったかなあ」
老人は、首をかしげた。
本当に、不思議そうに。
「思い出せんのだ。大事な、名前だったのに」
広場では、男たちが集まって話していた。
「どうなってやがる」「流行り病か」
「いや、俺は前から言ってたんだ。この町はもう終わりだって」
「坑道も閉じる一方だしな」
「出ていけるやつは、とっくに出ていったさ」
「残ってる俺たちだって……」
誰かが、ため息まじりに言った。
「……この町、なんて名前だったっけな」
誰も、答えなかった。
答えられなかった。
リオの足が、震えた。
吸って、四つ。吐いて、四つ。
数えても、震えは止まらなかった。
「リオ」
ステラが、そっと手を握ってきた。
フードの奥で、夜空色の瞳が町を見回している。
「このまち、ね」
小さな声だった。
「ほしと、おなじ」
「……え」
「くらく、なってる」
ステラは、自分の胸に手を当てた。
「わたしが、きのうのこと、わすれたみたいに」
「このまちも、わすれていってる」
リオは、空を見上げた。
真昼の空に、星は見えない。
けれど、そこにある。
見えなくても、ちゃんとある。
今この瞬間も、消えかけの光で、かろうじて瞬いている。
そのとき。
石畳を蹴る、慌ただしい足音が聞こえた。
通りの向こうから、誰かが駆けてくる。
霧の名残の中に、赤い色が揺れた。
燃えるような、赤い髪。
ミラだった。
外套も羽織らず、結い紐もほどけたまま。
息を切らして、リオの前で立ち止まる。
いつも高いところから見下ろしてくる瞳が、怯えていた。
「……リオ」
震える声だった。
「あなた……」
ミラは、リオの袖をつかんだ。
指先が、白くなるほど強く。
「あなた、わたしの名前、知ってる?」




