第2話 落ちてきた少女(後編)
夜が来るたび、彼女は少しずつ、何かを失くしていく。
そのことに最初に気づいたのは、リオだった。
光は、指先から始まった。
爪の先が、真珠のようにほのかに白む。
それが指の節をのぼり、手の甲へ、手首へと広がっていく。
水面に落とした月影が、波紋になって揺れるように。
日が沈みきる頃には、ステラの全身が淡く光っていた。
銀の髪は、一本一本が細い光の糸のよう。
白い肌の下で、無数の小さな星が、静かに瞬いている。
「……リオ」
ステラは、自分の両手を見下ろした。
怯えた声ではなかった。
ただ、途方に暮れたような声だった。
「わたし、ひかってる」
「……痛くは、ないですか」
「いたくない。あったかい」
ステラは、手のひらを夜空にかざした。
光る指の隙間から、一番星がのぞいている。
「でも、なんだか……ねむい」
その声は、もうとろりと溶けかけていた。
リオはステラの手を引いて、天文台へ戻った。
握った手は、確かに温かかった。
人の手と、何も変わらない温かさだった。
観測室の床に毛布を敷き、ステラを座らせる。
天窓を開けると、満天の星が広がった。
今夜も、よく晴れている。
ステラは毛布にくるまったまま、空を見上げた。
その視線は、やはり一か所で止まる。
ハロウの星の、すぐ下。
何もない、暗がり。
「あそこ、ね」
ステラが、ぽつりと言った。
「ずっと、あそこにいた気がするの」
「くらくて、さむくて、ひとりで」
「……今は?」
「いまは、あったかい」
ステラは、目を細めた。
「リオが、いるから」
その言葉に、リオが何か答える前に。
ステラの頭が、こてん、とリオの肩にもたれた。
寝息が、聞こえる。
リオは、動けなくなった。
肩に、確かな重みがある。
銀の髪から、ほのかな光の粒がこぼれている。
それは、昨夜の丘と同じように、ゆっくりと天窓へ昇っていく。
空へ。空へ。
まるで、何かを運んでいくように。
リオは、その光の粒を目で追った。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数えようとして、やめた。
なぜだか、数えてはいけない気がした。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
真夜中を少し過ぎた頃、ステラは目を覚ました。
体の光は、さっきよりも穏やかになっている。
熾火が、灰の下で静かに眠るように。
「……おはよう?」
寝ぼけた声で、ステラが言った。
「まだ夜です。おはようは、朝に言うんです」
リオは少し笑って、温め直したスープの椀を差し出した。
「お腹、空いてませんか。朝の残りですけど」
ステラは、椀を受け取った。
湯気に顔を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐ。
そして、首をかしげた。
「これ、なあに?」
リオの手が、止まった。
「……スープ、です」
「すーぷ」
初めて聞く言葉を、繰り返すように。
「朝、一緒に食べたじゃないですか」
「しょっぱくて、いいしょっぱいって」
ステラは、きょとんとした顔で、リオを見た。
「……そう、だっけ」
胸の奥が、冷たくなった。
吸って、四つ。吐いて、四つ。
落ち着け。まだ、わからない。
「ステラ」
リオは、ゆっくりと呼んだ。
「今日、覚えた言葉を、数えてみてくれませんか」
「ことば?」
「夕方、指を折って数えてたでしょう」
ステラは、自分の指を見下ろした。
それから、ひとつずつ、折っていく。
「リオ」
一本。
「ステラ」
二本。
「パン。かぜ。くさ。くも……」
指が、止まった。
「……ゆうがた」
ステラは、眉を寄せた。
何かを探すように、視線が宙をさまよう。
やがて、困ったように笑った。
「これだけ」
九本の指が、折られていた。
二十四あったはずの言葉が、九つになっていた。
朝も。涙も。湯気も。塩も。
彼女が今日、初めて出会ったものたちが。
夜の光と一緒に、どこかへ昇っていってしまった。
「……リオ?」
ステラが、リオの顔を覗き込んだ。
「どうしたの。かなしい、かお」
その「かなしい」という言葉は、残っていた。
けれど、朝日を見て流した涙のことは、もう覚えていない。
「わたし……なにか、なくした?」
ステラの声が、細くなる。
光る指先が、毛布の端をぎゅっと握った。
「わからない。でも、なにか、ここにあったのに」
自分の胸を、押さえる。
「からっぽの、ところがある」
リオは、何と言えばいいのかわからなかった。
大丈夫だ、とは言えない。
何も大丈夫ではないのだから。
思い出させてあげる、とも言えない。
どうすれば思い出せるのか、わからないのだから。
リオにできることは、何もない。
星が消えるのを、ただ見ていることしかできないように。
――本当に、そうだろうか。
リオの目が、机の上の小瓶に止まった。
夜空を溶かしたような、深い藍色のインク。
星墨。
祖父の声が、よみがえる。
『星墨で書いたことは、書いた者だけは忘れない』
『土地が消えても、人が忘れても』
『書いた者の中にだけは、ちゃんと残る』
幼い頃は、ただのおとぎ話だと思っていた。
けれど、昨夜のトレイユのことを、リオは覚えている。
知らない町の、知らない名前を。
星墨で、書いたから。
ステラの記憶を、止めることはできない。
けれど。
彼女が忘れてしまったことを、自分が覚えておくことなら。
「……ステラ。少しだけ、待っていてください」
リオは、書棚から一冊の帳面を抜き出した。
祖父が遺した、まだ何も書かれていない観測録。
真新しい頁の匂いがする。
表紙を開き、星墨にペン先を浸した。
最初の頁の、いちばん上に。
リオは、几帳面な字で書いた。
『ステラの日記』
「にっき?」
ステラが、覗き込む。
「その日にあったことを、書いておくものです」
「ステラが忘れても、僕が覚えておけるように」
リオは、書き始めた。
今日の夜明け前、ステラが回廊で空を見ていたこと。
空が「こわれてる」と言ったこと。
初めての朝日を見て、涙を流したこと。
「きれいすぎた」と、うなずいたこと。
スープを、あったかいと言ったこと。
塩が好きだと、言ったこと。
名前を、ステラにしたこと。
呼んだら、「はい」と笑ったこと。
二十四の言葉を、指を折って数えたこと。
ペン先が紙を滑るたび、星墨が、かすかに瞬いた。
藍色の文字の底で、小さな光の粒が揺れている。
一文字ずつ、夜空に星を置いていくように。
書き終えると、リオは帳面をステラのほうへ向けた。
そして、声に出して読んだ。
ゆっくりと。一行ずつ。
ステラは、黙って聞いていた。
毛布の中で膝を抱えて、まばたきもせずに。
最後の一行を読み終えると、ステラは小さく言った。
「……わたし、あさをみて、ないたの?」
「はい」
「きれいすぎて?」
「きれいすぎて」
ステラは、帳面の文字にそっと指を触れた。
光る指先と、星墨の藍色が重なる。
「おぼえて、ない」
「……はい」
「でも」
ステラは、顔を上げた。
夜空色の瞳が、ランプの灯りに濡れていた。
「うれしい」
「わたしがわすれても、ここに、のこってる」
「リオが、おぼえててくれる」
リオは、喉の奥が詰まって、うなずくことしかできなかった。
ステラは、天窓の向こうの東の空を見た。
まだ、深い群青の夜。
「ねえ、リオ。あさって、また、くる?」
「来ます」
今度は、すぐに答えられた。
「朝は、毎日来るんです」
「じゃあ、またみたい」
「わたしが、ないちゃうくらい、きれいなの」
「……はい。一緒に見ましょう」
ステラは満足そうに笑って、また目を閉じた。
今度は、リオの膝を枕にして。
リオは、そっと帳面を閉じた。
表紙の『ステラの日記』の文字が、ランプの灯りに淡く光った。
「……記録しておくよ」
眠る少女に、小さくささやく。
「君が、忘れても」
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
夜明けの一刻前。
リオは、いつものように望遠鏡の前に座った。
膝の上では、ステラがまだ眠っている。
起こさないように、そっと体をずらす。
毎晩欠かさない、夜明け前の最後の観測。
北天第一区から、数え始める。
「……一。二。三」
ハロウの星を、探す。
麓の町の、小さな名星。
いつも目を凝らさなければ見えない、弱い光。
見つけた。
見つけて――リオは、息を止めた。
暗い。
いつもより、ずっと暗い。
昨夜まではまだ、針の先ほどの光があった。
今は、燃え尽きる寸前の熾火のようだ。
今にも、ふっと消えてしまいそうなほどに。
リオは望遠鏡から目を離し、もう一度覗いた。
変わらない。
ハロウの星は、確かに、消えかけていた。
トレイユの星が消える前の夜も。
こんなふうに、弱々しく瞬いていたのではなかったか。
眼下の町は、まだ夜の底で眠っている。
パン屋のおかみも。
井戸の前で囃し立てた子どもたちも。
赤い髪の、ミラも。
誰も、まだ知らない。
自分たちの町の星が、今、消えようとしていることを。
――ステラの日記 一日目
『今日、ステラは初めて朝を見た。きれいすぎて、泣いた』




