第2話 落ちてきた少女(前編)
その少女は、「朝」という言葉を知らなかった。
だから、生まれて初めての朝日を見て、泣いた。
目を覚ましたとき、台所の椅子は空っぽだった。
毛布だけが、抜け殻のように丸まっている。
リオは跳ね起きた。
「……え」
夢だったのだろうか。
星が落ちてきたことも。
銀の髪の女の子も。
パンを「おいしい」と言った、あの声も。
吸って、四つ。吐いて、四つ。
違う。夢じゃない。
机の上に、かじりかけの黒パンが残っている。
リオは階段を駆け上がった。
観測室の扉が、細く開いていた。
その向こう、円屋根の外をぐるりと巡る石の回廊に。
いた。
毛布を肩からかぶり、裸足で、欄干に両手をかけて。
女の子は、東の空を見つめていた。
夜明けの、少し前だった。
山の稜線の向こうで、空の底が白み始めている。
黒かった夜が、ゆっくりと藍にほどけていく。
藍が、淡い菫色に。
菫色が、桃色に。
その境目で、星々が一つ、また一つと薄れていく。
「……リオ」
振り向かないまま、女の子が言った。
昨夜、名乗ったのを覚えていたらしい。
「そら、が」
小さな指が、東を差す。
「こわれてる」
リオは、思わず笑いそうになって、やめた。
彼女の横顔が、あまりに真剣だったから。
「こわれてるんじゃ、ないです」
隣に並んで、同じ空を見る。
「朝です」
「あさ」
「夜が終わって、太陽が昇るんです」
「たいよう」
そのとき、稜線の一点が、燃えた。
金色の光が、山の縁からこぼれ出す。
一筋。二筋。
やがて光は、堰を切ったようにあふれた。
霧の海が、黄金色に染まっていく。
眼下のハロウの屋根が、ひとつずつ光を拾っていく。
凍えていた世界に、ぬくもりが注がれていく。
女の子は、息をすることを忘れたように、それを見ていた。
夜空色の瞳に、朝日が映っている。
その瞳から、ぽろりと、ひと粒こぼれた。
「……あれ」
女の子は、頬を伝うものに指で触れた。
不思議そうに、濡れた指先を見つめる。
「なにか、でてきた」
「……涙です」
「なみだ」
「悲しいときとか、痛いときに、出るものです」
「かなしく、ないよ。いたくも、ない」
女の子は、首をかしげた。
「なのに、どうして」
リオは、少し考えてから答えた。
「たぶん……きれいすぎたから、だと思います」
女の子は、もう一度朝日を見た。
そして、こくりとうなずいた。
「うん。きれいすぎた」
朝日が昇りきると、空に残る星は、もうひとつもなかった。
女の子の顔が、急に曇る。
「ほしが、ない」
欄干から身を乗り出し、空じゅうを見回す。
「みんな、きえちゃった」
「消えたんじゃないですよ」
リオは、自分でも驚くほど、静かな声で言った。
祖父が昔、同じことを教えてくれたのを思い出しながら。
「見えなくなるだけです」
「昼の間も、星はちゃんと、そこにあるんです」
女の子は、まばたきをした。
「……みえなくても?」
「見えなくても」
「そっか」
彼女は、ほっとしたように笑った。
「よかった」
その笑顔があまりにまっすぐで、リオは目を逸らした。
頬が、少し熱かった。
朝日のせいだ、と思うことにした。
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朝食は、豆と干し肉のスープにした。
鍋をかき混ぜるリオの手元を、女の子はじっと覗き込んでいる。
立ちのぼる湯気に、そっと指を差し入れて。
「あつっ」
慌てて引っ込める。
「……しろい、のに、あつい」
「湯気、です。気をつけてください」
「ゆげ」
またひとつ、言葉を覚えた顔をする。
木の椀にスープをよそい、黒パンを添えて出す。
女の子は匙を握りしめた。
拳でつかむように。
リオが持ち方を見せると、真似をする。
三度目で、ようやくスープがこぼれずに口まで届いた。
ひと口。
女の子の動きが、止まった。
「……あったかい」
「はい」
「おなかの、なかまで、あったかい」
ふた口目は、早かった。
三口目は、もっと早かった。
「しょっぱい。でも、いいしょっぱい」
「塩です」
「しお。しお、すき」
リオは、自分の椀に手をつけるのも忘れて、それを見ていた。
この食卓で、誰かと向かい合うのは一年ぶりだった。
祖父がいた頃は、毎朝こうだった。
スープの湯気の向こうに、皺だらけの笑顔があった。
その席に今、知らない女の子が座っている。
椀を両手で抱えて、幸せそうに目を細めている。
不思議と、嫌ではなかった。
椀が空になるのを待って、リオは訊いた。
「……何か、思い出せますか」
「どこから来たのか、とか」
女の子は、空の椀の底を見つめた。
「くらかった」
「暗かった?」
「ずっと、ずっと、くらいところにいたの」
「さむくて、しずかで、なにもなかった」
「それで……よばれた」
「それだけ」
リオは、それ以上訊けなかった。
彼女の声が、ほんの少しだけ震えていたから。
どうすればいいのだろう、とリオは考えた。
ハロウの人たちに話すべきだろうか。
空から女の子が落ちてきました、と。
笑われるだけだ。
笑われなかったとしても、その先が怖かった。
見知らぬ少女を、大人たちはどう扱うだろう。
領主館に連れて行くのか。王都に送るのか。
星から生まれた子だと、見世物にするのか。
「……リオ」
考え込んでいると、女の子が呼んだ。
「リオには、なまえがある」
「はい。リオ・アステルです」
「パンにも、なまえがある。スープにも。しおにも」
指を折って、数えていく。
「あさにも。なみだにも。ゆげにも」
それから、自分の胸に手を当てた。
「わたしには、ない」
寂しそうな声ではなかった。
ただ、事実を確かめるような声だった。
それがかえって、胸に刺さった。
「なまえがないと、こまる?」
リオは答えに迷った。
名前がないと、困るのだろうか。
――困る、と思った。
名前を呼ばれない星は、少しずつ暗くなる。
誰にも呼ばれないまま、やがて消えていく。
トレイユのように。
「……困ります」
リオは、まっすぐに答えた。
「名前は、誰かに覚えていてもらうためのものだから」
「呼ばれないと、忘れられてしまうから」
女の子は、じっとリオを見つめた。
「じゃあ、リオがつけて」
「え」
「わたしのなまえ。リオがつけて」
一瞬、ひとつの名前が喉元までせり上がった。
――ルミナ。
星図の最後の頁の、角ばった文字。
リオは、試すように、小さくその名を口にした。
「……ルミナ」
女の子は、首をかしげた。
銀の髪の先が、ほんの一瞬だけ、ちかりと瞬いた気がした。
「それ、だれ?」
「……わからないんです」
「しらない、なまえ」
女の子は少し考えて、それから付け加えた。
「でも、きれいな、おと」
リオは、その名で彼女を呼ぶのをやめた。
理由は、うまく言えない。
ただ、星図に書かれた星の名を、人に付けるのが怖かった。
あの名を呼んだ瞬間、風が止んだ。
世界の音が、消えた。
あの静けさを、もう一度聞くのが怖かった。
「少し、待っていてください」
リオは祖父の部屋へ上がった。
書棚の隅から、いちばん古い本を抜き出す。
天文台守が代々使ってきた、星の言葉の辞書。
古い、古い言葉で、星の名前の成り立ちが書いてある。
黄ばんだ頁をめくり、ひとつの単語に指を止めた。
台所に戻ると、女の子は行儀よく座って待っていた。
「ステラ」
リオは言った。
「昔の言葉で、『星』っていう意味です」
女の子は、その音を口の中で転がした。
昨夜、リオがそうしたのと同じように。
「すてら」
「ステラ」
もう一度。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
「ステラ。わたし、ステラ」
両手を胸に当てる。
大切なものを、しまい込むように。
「わたしの、なまえ」
「……はい」
「よんで」
「え」
「よんでくれないと、わすれられちゃうんでしょ」
リオは、少しだけ照れくさくなって、目を伏せた。
それから顔を上げて、呼んだ。
「ステラ」
「はい!」
満面の笑みだった。
朝日よりも、まぶしいと思った。
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その日、ステラは数えきれないほどの言葉を覚えた。
「かぜ」
丘の上で、銀の髪をなびかせて。
「くさ。……ちくちく」
裸足で、夏の名残の草を踏んで。
「くも。あれ、たべられる?」
「食べられません」
「ざんねん」
午後になると、ステラは指を折り始めた。
「なに、数えてるんですか」
「きょう、おぼえたことば」
ステラは得意げに言った。
「リオは、ほしをかぞえるでしょ。だから、わたしも、かぞえる」
「あさ。なみだ。ゆげ。しお。ステラ……」
指が足りなくなると、リオの指まで借りた。
二十三。
夕暮れまでに、ステラが覚えた言葉の数だった。
西の空が、茜色に燃えていた。
ふたりは丘の上に並んで座り、沈んでいく太陽を見送った。
「あさの、はんたい?」
「夕方、です」
「ゆうがた。にじゅうよん」
ステラは満足そうに、指をもう一本折った。
そして、その指先を見て、きょとんとした。
リオも、気づいた。
夕闇が深くなるにつれて。
ステラの指先が、淡く、光り始めていた。




