↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/20

第1話 星数え(後編)

その星図には、存在しない星が描かれていた。

夜空のどこを探しても見つからない、たったひとつの星が。

 

鍵の在りかは、わかっていた。

祖父がいつも胸のポケットに忍ばせていた、銀の懐中時計。

針はもう、何年も前から動かない。

その蓋の裏に、小さな窪みがある。

親指の先ほどの、真鍮の鍵が眠っている。

リオは幼い頃から、それを知っていた。

知っていて、一度も触れなかった。

日が沈むのを、待った。

茜色が藍に変わる。

藍が、深い群青に沈んでいく。

東の空に、一番星が灯る。

それから、時計の蓋を開けた。

鍵は、驚くほどあっけなく外れた。

木箱の錠に差し込み、回す。

錆びた金具が、ぎしりと鳴った。

長い眠りから、覚めるように。

中には、一冊の星図だけが入っていた。

黒に近い紺の革表紙。

四隅を守る、銀の金具。

天文台のどの星図よりも古く、どの星図よりも重い。

両手で持ち上げる。

冷えた革が、しっとりと掌に吸いついてきた。

「……開けるよ、おじいちゃん」

星図を胸に抱いて、螺旋階段を上った。

観測室の天窓を、開け放つ。

秋の夜気が、澄んだ水のように流れ込んできた。

机に星図を置き、ランプの芯を、そっと絞る。

表紙を開く。

息を、呑んだ。

頁の上に、夜空があった。

星墨で打たれた、無数の点。

それがランプの淡い光を受けて、かすかに瞬いている。

本物の星のように。

いや、遠い昔に誰かが見上げた星の光を、そのまま閉じ込めたように。

ひとつひとつの点の傍らに、名前が添えられていた。

王都の星。港町の星。

聞いたこともない、遠い国の星。

祖父の筆跡がある。

祖父よりずっと古い、見知らぬ誰かの筆跡もある。

何代もの天文台守が、少しずつ書き継いできた夜空だった。

頁をめくる。

また、めくる。

消えた星の名前には、細い線が引かれていた。

祖父はそれを「見送りの線」と呼んでいた。

線は、頁をめくるごとに増えていく。

百年前。五十年前。二十年前。

この世界から、名前がこぼれ落ちていった記録。

静かに。誰にも、気づかれずに。

リオは、昨夜消えたトレイユの名を探し出した。

羽根ペンで、そっと一本の線を引き足す。

「……おやすみ、トレイユ」

そして、最後の頁を開いた。

描かれていたのは、北天第一区。

ハロウの真上の空だった。

麓の町の名星「ハロウ」は、星図の上でも小さな点だ。

実際の空でも、近ごろは目を凝らさないと見えない。

リオはいつも、それが少しだけ気がかりだった。

そのハロウの星の、すぐ下に。

もうひとつ、星が描かれていた。

他のどの星よりも、少しだけ大きな点。

丁寧に、丁寧に、丸く打たれている。

その傍らに、名前があった。

「ルミナ」

祖父の字では、なかった。

祖父の字は細くて、右肩上がりで、少し癖がある。

この字は違う。

一画一画を確かめるように、力を込めて書いた字。

大人の字というより、背伸びをした子どもの字に見えた。

リオは、望遠鏡を北天第一区へ向けた。

ハロウの小さな星を見つける。

そこから視野を、わずかに下へ。

何も、なかった。

ただ暗いだけの空。

光の名残さえない。

見送りの線も、引かれていない。

まるで、これを書いた誰かが信じているかのように。

その星はまだ、そこにあるのだと。

「……ルミナ」

唇の上で、そっと転がしてみる。

不思議な響きだった。

初めて読む名前のはずなのに、舌に柔らかく馴染む。

遠い昔に聞いた、子守歌の最初のひと節のように。

胸の奥が、さざ波のようにざわめいた。

吸って、四つ。吐いて、四つ。

落ち着け、とリオは自分に言い聞かせる。

これは、記録だ。

空にない星の名前が、星図にひとつ書いてある。

それだけのことだ。

観測録に書き留めて、明日、古い記録を調べればいい。

そう思うのに、目が文字から離れてくれない。

この角ばった字を書いたのは、誰なのだろう。

祖父はなぜ、この星図を箱に仕舞い込んだのだろう。

開けたところで、天文台は守れない。

廃止の書状が、消えるわけでもない。

わかっている。

わかっているのに。

リオは椅子から立ち上がり、天窓の真下に立った。

ハロウの星のすぐ下の、何もない暗がりを見上げる。

『名を呼ぶのは、星への挨拶じゃ』

祖父の声が、耳の奥でよみがえった。

消えた星の名を呼んでも、何も起きない。

昨夜も、そうだった。

ここには最初から、何もなかったのかもしれない。

それでも。

挨拶くらいは、してもいい。

リオは小さく息を吸った。

そして、その名を夜へ差し出した。

「――ルミナ」

風が、止んだ。

山の上で風が止むことなど、まずない。

木々のざわめきが、消えた。

天窓の軋みも、遠い谷の水音も。

世界中の音が、ひとつ残らず息をひそめた。

耳の奥が痛むほどの、静寂。

そして――何もなかった暗がりに、光が灯った。

針の先ほどの、小さな光。

それが、瞬きもせずに大きくなっていく。

じわり、じわりと。

星が明るさを増すのとは、違う。

近づいてくるのだ。

そう悟ったときには、光はもう月ほどの大きさになっていた。

白い。

いや、金色だ。

いや――そのどちらでもない。

リオがこれまで、一度も見たことのない色。

夜明け前のいちばん最初の光を、ひと匙すくい取ったような。

光は長い尾を引いて、夜空を斜めに滑り落ちた。

音は、なかった。

ただ、遅れて、澄んだ音がひとつ響いた。

遠くで誰かが、銀の鈴を振ったような音。

それが、山じゅうに広がっていく。

光の尾が、リオの真上を越えていった。

天文台の裏手へ。

星見の丘へ。

祖父が眠る場所へ。

光が丘の稜線に吸い込まれた。

その瞬間、足元から、ふわりと温かな風が吹き上げてきた。

気づけばリオは、ランプをつかんで駆け出していた。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

裏口から飛び出し、草の斜面を駆け上がる。

夜露が、足首を冷たく濡らした。

ランプの火が大きく揺れる。

自分の影が、ぐらぐらと地面を跳ね回る。

「いち、に、さん、し……」

気づけば、歩数を数えていた。

数えていなければ、足がすくんで止まりそうだった。

星が落ちてくるなんて、聞いたことがない。

祖父の観測録の、どの頁にもなかった。

百二十八歩目で、丘の上に出た。

リオは立ち止まり、ランプを掲げかけて――やめた。

明かりは、もう要らなかった。

丘の頂の草原が、淡く光っていた。

草の一本一本が、銀色に縁取られている。

月の雫を受けた、霜のように。

風もないのに、その銀がさざ波のように揺らめく。

まるで丘全体が、静かに呼吸しているようだった。

その中心に、浅いくぼみができていた。

大人が両腕を広げたほどの、小さなくぼみ。

その底から、細かな光の粒が立ちのぼっている。

雪が降るのとは、逆さまに。

空へ。空へ。

帰り道を、思い出したように。

祖父の墓石が、その光を受けて白く浮かんでいた。

そして、くぼみの真ん中に。

女の子が、いた。

膝を抱えて、小さく丸くなって、眠っている。

裸足だった。

白い衣を、一枚まとっているだけ。

布とも光ともつかない、不思議な衣だった。

細い肩が、夜気にさらされている。

長い髪は、淡い銀色。

月の光を梳かして、紡いだような。

その毛先だけが、遠い星のように明滅していた。

年は、リオと同じくらいに見えた。

リオは、動けなかった。

息をすることも、四つ数えることも、忘れていた。

星が落ちた。

落ちた場所に、女の子がいる。

それを、どう記録すればいいのだろう。

くぼみの中で、女の子の肩が小さく震えた。

寒いのだ。

そう思った瞬間、ようやく体が動いた。

リオは外套を脱ぎ、斜面を滑り降りた。

そっと、女の子の体にかける。

近くで見ると、頬には薄紅の血の色が差していた。

小さな寝息が、聞こえる。

光の粒が、彼女の髪にまとわりついている。

そして名残惜しそうに離れ、空へと昇っていく。

「あの……」

声が裏返った。

リオは咳払いをして、もう一度。

「あの、大丈夫……ですか」

長い睫毛が、震えた。

ゆっくりと、女の子が目を開ける。

夜空の色をした瞳だった。

深い藍色の奥に、星屑のような光が散らばっている。

いくつも、いくつも。

星墨の瓶を、灯りにかざしたときと同じ色だった。

女の子は、最初、リオを見なかった。

仰向けになり、まっすぐに空を見上げる。

満天の星を、ひとつひとつ確かめるように。

瞳だけを、ゆっくりと動かして。

そして、ある場所で視線を止めた。

ハロウの星の、すぐ下。

何もない、暗がり。

長い間、彼女はそうしていた。

迷子の子どもが、帰るはずの家の窓明かりを探すように。

それから、ようやくリオのほうを向いた。

「……ここ、どこ?」

澄んだ声だった。

さっき山に響いた、鈴の音に少し似ていた。

「北の、天文台です」

「ハロウっていう町の、上の山で」

「てんもんだい」

女の子は、ゆっくりと繰り返した。

生まれて初めて、口にする言葉のように。

「怪我は、ないですか。どこか痛いところとか」

女の子は、自分の両手を目の前にかざした。

指を開いて、閉じて、また開く。

初めて「手」というものを見る人の仕草だった。

「いたく、ない」

「よかった……。あの、君は」

リオは、言葉を探した。

どこから来たのか。

どうして、空から落ちてきたのか。

訊きたいことが、多すぎた。

だから結局、いちばん簡単なことを訊いた。

「君の、名前は?」

女の子は、口を開きかけた。

そして、止まった。

夜空色の瞳が、かすかに揺れる。

何かを思い出そうとして、見つからない。

それでもまだ、暗がりの奥へ手を伸ばし続けている。

そういう顔だった。

「……わたし」

小さな声。

「わたしの、なまえ……」

女の子は、外套の端をぎゅっと握りしめた。

そして、ゆっくりと首を横に振った。

「わからない」

リオは、何も言えなかった。

今朝、ミラに問い詰められたときと同じように。

けれど今度は、悲しいからではなかった。

目の前の女の子が、あまりにも途方に暮れた顔をしていたから。

その途方の暮れ方を、自分はよく知っている気がしたから。

女の子は、もう一度、空を見上げた。

「でも、ね」

銀色の髪の先が、ふわりと灯る。

「だれかが、わたしを呼んだの」

「あそこで、ずっと、ずっと暗かったのに」

「だれかが、呼んでくれた気がしたの」

リオの心臓が、大きく跳ねた。

――ルミナ。

ほんの少し前、自分が天窓の下で呼んだ名前。

リオは、女の子と何もない空とを、交互に見た。

それから、震える右手を見下ろした。

指先に、星墨の藍色が小さく残っていた。

止んでいた風が、戻ってきた。

草原の銀色が、ゆっくりと夜の色へ溶けていく。

潮が、引くように。

光の粒は、最後のひとつまで空へ昇っていった。

やがて星々にまぎれて、どれだったのかわからなくなった。

くう、と小さな音がした。

顔を上げると、女の子がお腹を押さえていた。

不思議そうに、首をかしげて。

「……ここ、鳴った」

「え」

「ここが、鳴ったよ。どうして?」

あまりにも真剣な顔だった。

リオは思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。

笑ったのは、いつ以来だろう。

祖父がいなくなってから、初めてかもしれなかった。

「……お腹が、空いたんだと思います」

「パンなら、あります。固いけど」

「ぱん」

女の子は、その言葉も繰り返した。

宝物を、そっと手のひらに載せるように。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

その夜、遅く。

台所の椅子で、女の子は眠ってしまった。

毛布にくるまり、黒パンを両手で抱えたまま。

ひと口かじるたびに、目を丸くしていた。

「かたい」

「でも、おいしい」

「もうひとくち、いい?」

そうして、三つのうち二つを平らげてしまったのだ。

リオは寝顔に、もう一枚毛布をかけた。

それから、観測室へ戻った。

天窓の下の机で、観測録を開く。

手はまだ、少し震えていた。

吸って、四つ。吐いて、四つ。

星墨にペン先を浸し、几帳面な字で書きつける。

――秋の二十夜。北天第一区、ハロウ星の直下。

――祖父の星図にのみ記された名星「ルミナ」の名を読む。

――同刻、名星一つ、落下。落下地点、星見の丘。

ペンが、止まった。

この先を、どう書けばいいのか。

リオはしばらく迷った。

それから、見たままを書くことにした。

見たものを、見たとおりに記録する。

それが、天文台守の仕事だ。

祖父も、そう言っていた。

――落下地点に、女の子がいた。

――名前は、本人にもわからない。

――パンを、おいしいと言った。

書き終えて、リオは天窓を見上げた。

ハロウの小さな星の、すぐ下。

そこはやはり、暗いままだった。

けれど、なぜだろう。

その暗がりが、昨夜より少しだけ、やわらかく見えた。

「……記録しておくよ」

誰に言うでもなく、そうつぶやく。

天窓の向こうで、星がひとつ瞬いた。

まるで、返事をするように。

それが、最後の天文台守と、空から落ちてきた少女の。

名前のない少女の、最初の夜だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。