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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第1話 星数え(前編)

ふと思いつき書き始めてしまいました。

そんな長期連載にしない想定ですので、本作もよろしくお願いします。

星がひとつ消えるたび、世界から名前がひとつ消える。

そのことを知る人間は、もう、ほとんどいない。

 

大陸の西の果て。

街道沿いの小さな宿場町に、その夜も静かな秋が降りていた。

安宿の二階の窓辺。

ひとりの行商人が油灯をともし、使い込んだ地図を広げている。

明日は、どの道を行こうか。

北へ折れれば、トレイユという織物の町がある。

冬が来る前に、あそこの毛織物を仕入れておきたい。

男は節くれだった指で、街道をなぞった。

それから、ふと、窓の外へ目を上げる。

夜空は、よく磨かれた硝子のように澄んでいた。

数えきれない星々が、ひそやかに瞬いている。

凍える季節の前の、最後の熱を惜しむように。

北の低い空に、小さな星がひとつあった。

針の先ほどの光。

誰に見上げられることもない、取るに足らない星。

その星が、瞬いた。

一度。二度。

まるで、誰かに何かを伝えようとするように。

そして、ふっと――消えた。

息を吹きかけられた、蝋燭の火のように。

男は、それに気づかなかった。

気づいたとしても、雲がかかったと思っただろう。

視線を地図に戻す。

指先の下で、インクがほどけていた。

「トレイユ」の文字が、さらさらと崩れていく。

乾いた砂のように。紙の白へ、溶けるように。

最後の一画が消えるまで、ほんの数呼吸。

後には、ただ余白だけが残った。

はじめから、何も書かれていなかったかのように。

男は首をかしげた。

「……北へ折れても、何もないな」

そうだ。北には何もない。

昔からずっと、そうだったはずだ。

どうして自分は、そちらへ行こうと考えたのだろう。

男は地図を畳み、灯を吹き消した。

薄い毛布に潜り込み、すぐに寝息を立て始める。

その夜、北の空から星がひとつ消えた。

そして、町がひとつ、世界から消えた。

石畳の路地も。機織りの音も。

窓辺の鉢植えも、人々の笑い声も。

彼らはもう、自分の名前を思い出せない。

隣人の名前も、町の名前も。

そのことを、知る者はいない。

覚えている者が、もう、どこにもいないのだから。

――ただひとり。

北の山の上で、星を数えていた少年を除いては。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

「……千二百五。千二百六。千二百七」

山の上には、風の音しかなかった。

リオ・アステルは、真鍮の望遠鏡から目を離した。

かじかんだ指で、数え棒を一本、木箱に落とす。

カラン、と乾いた音。

石造りの観測室に、小さく響いた。

「千二百七」

もう一度、唇の内側で繰り返す。

昨夜は、千二百八だった。

胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。

リオは椅子に腰を下ろし、目を閉じる。

吸って、四つ。吐いて、四つ。

不安になったら、数えなさい。

数は、嘘をつかないから。

亡き祖父に教わった、心の鎮め方だった。

天窓の向こうで、星々が輝いている。

何も知らない顔で、いつもと同じように。

リオは十五年の人生の大半を、この光を数えて過ごしてきた。

北の空を、七つの区画に分ける。

一区画ずつ、ひとつずつ、数えていく。

星のひとつひとつには、名前がある。

国にも、町にも、村にも。

夜空にはひとつずつ、その土地の名を預かった星がある。

それを「名星(なぼし)」と呼ぶのだと、祖父は言っていた。

王都の星。港町の星。

名前しか知らない、遠い村の星。

「……もう一回」

第一区。合う。

第二区。合う。

第三区で、リオの指が止まった。

地平線に近い、低い空。

昨夜まで、そこには小さな星があった。

弱々しくて、それでも健気に灯り続けていた光が。

今は、ない。

雲もない。霞もない。

黒い空が、何食わぬ顔で広がっているだけだ。

夜の布地にあいた穴を、誰かがそっと繕ったように。

「……消えた」

声に出したとたん、それは本当のことになった。

リオは引き出しから、祖父の星図の写しを取り出した。

擦り切れた革表紙を開き、北天第三区の頁を探す。

消えた星の位置を、指でたどる。

そこには細い文字で、ひとつの名前が記されていた。

「トレイユ」

知らない名前だった。

町なのか、村なのか。それすらもわからない。

北の果ての山で育ったリオには、遠い土地はどれも同じだ。

星図に並ぶ、ただの文字でしかない。

それでも、リオは観測録を開いた。

小さな硝子瓶の栓を、抜く。

星墨(ほしずみ)。

夜空をそのまま溶かし込んだような、深い藍色のインク。

ランプにかざすと、瓶の底で光の粒が瞬く。

ゆらり、ゆらりと。

天文台守の一族だけが、その作り方を知っている。

祖父は、よくそう自慢していた。

羽根ペンの先を浸し、一文字ずつ、丁寧に書きつける。

――秋の十九夜。北天第三区、低空。

――名星一つ、消失。名は「トレイユ」。

インクが乾くのを待って、リオは天窓を見上げた。

星が消えた、何もない場所を。

「トレイユ」

名前を、呼ぶ。

『名を呼ぶのは、星への挨拶じゃ』

『呼ばれた星は、ほんの少しだけ明るくなる』

祖父の口癖だった。

けれど、消えた星はもう答えない。

夜は、しんと黙ったままだ。

「……記録しておくよ。君が、ここにあったこと」

誰に聞かせるでもなく、リオはつぶやいた。

祖父オルトが逝って、もうすぐ一年になる。

それからずっと、リオはひとりで星を数えている。

この山の、古い天文台で。

 

 

 ・ ・ ・ ✦   ・ ・ ・ ✧   ・ ・ ・ ・ ✦   ・ ・ ✧   ・ ・ ・ ✦ 

 

 

朝の山道は、乳白色の霧に沈んでいた。

リオは空の籠を背負い、麓の町ハロウへ下りていく。

週に一度、パンと塩と灯油を買いに行く。

祖父の頃からの、決まりだった。

ハロウは、鉱山の町だ。

いや、鉱山の町「だった」と言うべきだろう。

祖父が若い頃、この山からは銀がよく出たという。

山肌には、十いくつもの坑道が口を開けていた。

今、煙を上げているのは二本だけ。

通りの家の半分は、窓に板が打ちつけられている。

錆びた雨樋から、赤茶けた水がぽたり、ぽたりと落ちる。

「あ、星数えだ」

広場の井戸のそばで、子どもたちが声を上げた。

「星数え、星数え! 星を数えて腹ふくれるか!」

節をつけて囃し立て、笑いながら駆けていく。

霧の路地へ、きゃあきゃあと。

リオは、聞こえないふりをした。

もう、慣れている。

慣れている、と自分に言い聞かせることにも。

パン屋のおかみは、黙って黒パンを三つ籠に入れてくれた。

固くて、少し酸っぱい、いつものパン。

代金を受け取るとき、おかみはちらりとリオを見た。

そして、小さくため息をつく。

「あんた、いつまであんな山の上にいるつもりだい」

「オルトさんは、もういないんだよ」

「……天文台守、ですから」

「天文台守ねえ」

おかみは、困ったように笑った。

悪い人ではない。

ただ、この町の人々にとって、リオは少し変わった子どもなのだ。

山の上で毎晩星を数える、役に立たない子ども。

パン屋を出たところで、背中に声が刺さった。

「リオ・アステル」

振り返ると、霧の中に、炎がひとつ立っていた。

……そう見えたのは、燃えるような赤い髪のせいだった。

高い位置でひとつに結った赤毛。

領主家の紋章を縫い取った外套。

背丈は、リオとほとんど変わらない。

なのに腕を組んだ姿は、いつも少し高いところから見下ろしてくる。

ミラ。

ハロウ領主の娘で、リオと同い年の少女だった。

「……おはよう、ミラ」

「お嬢様、でしょう。……まあ、いいわ」

ミラは外套の内側から、封筒を取り出した。

赤い封蝋が押されている。

「父様から。あなたに渡すようにって」

受け取った封筒は、妙に重く感じられた。

紙一枚しか、入っていないはずなのに。

封を切り、書状を広げる。

役所の整った文字が、感情のない列をなしていた。

――北の天文台は、来月末日をもって廃止とする。

――天文台守への手当ては、本月をもって打ち切る。

――建物は取り壊し、跡地は鉱山の資材置き場とする。

文字が、うまく頭に入ってこない。

リオは同じ行を、三度読んだ。

「……廃止」

「そう。廃止よ」

「でも、天文台は、ずっと昔から……」

「昔からあるからって、続けなきゃいけない理由にはならないでしょう」

ミラは、きっぱりと言い切った。

「この町にはもう、お金がないの」

「坑道は次々に閉じてる。父様は毎晩、帳簿を前に頭を抱えてるわ」

「そんなときに、星を数えるだけの仕事にお金を払えると思う?」

「――だけ、じゃない」

思わず、声が出ていた。

自分でも驚くほど、大きな声だった。

ミラが片眉を上げる。

「じゃあ、何?」

「星を数えないと、何が困るの?」

リオは口を開いた。

何か、言わなければ。

昨夜、星がひとつ消えたこと。

トレイユという、名前のこと。

祖父が生涯、一夜も欠かさず星を数え続けたこと。

名を呼び、記録し続けたこと。

でも――それで、何が困るのだろう。

星がひとつ消えても、坑道の銀は一粒も減らない。

パンの値段も、変わらない。

誰も、困らない。

リオは、何も言えなかった。

ミラはしばらく、黙ってリオを見ていた。

やがて、小さく息を吐く。

「あなたのお祖父さんだって、一生ずっと星を数えて……」

「それで、何が残ったの?」

「山の上の古い建物と、誰も読まない帳面だけじゃない」

その言葉は、胸の深いところへ沈んでいった。

音もなく。冷たい石のように。

うつむいたリオを見て、ミラは目を逸らした。

少しだけ、気まずそうに。

それから、早口で付け足す。

「……鉱山の帳簿付けなら、人手が足りないって父様が言ってたわ」

「あなた、数えるのだけは得意でしょ」

「行く当てがないなら、口をきいてあげてもいいけど」

「……ありがとう」

「別に。お礼を言われることじゃないわ」

ミラは外套を翻し、領主館へ歩いていった。

灰色の霧の中で、赤い髪だけが揺れていた。

消え残った、灯火のように。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

山道を登る足は、来たときよりずっと重かった。

籠の中で、黒パンがごとりと揺れる。

リオは、歩数を数えた。

百。二百。三百。

数えている間だけは、何も考えずにすむ。

千四百十二歩目。

霧の向こうに、白い円屋根が浮かび上がった。

石を積み上げた、古い塔。

晴れた夜には、丸屋根の天窓が開く。

真鍮の望遠鏡が、まっすぐに空を仰ぐ。

物心ついたときから、ここがリオの家だった。

来月の末には、この景色がなくなる。

扉を開け、籠を台所に下ろした。

がらんとした食堂の椅子に、座り込む。

もう一度、書状を広げた。

何度読んでも、文字は一画も変わってくれない。

「……おじいちゃん」

返事は、ない。

リオは立ち上がり、二階へ上がった。

祖父の部屋の扉を、そっと開ける。

一年前から、何ひとつ動かしていない部屋だった。

書き物机の羽根ペン。

壁一面の書棚に眠る、何十冊もの観測録。

窓辺の寝台には、午後の薄い光が降り積もっている。

埃と一緒に、静かに。

そして寝台の足元に、古い木箱がひとつ。

黒い鉄の帯が巻かれ、鍵がかかっている。

祖父が最期の夜に言ったことを、リオは覚えていた。

一言一句、すべて。

『あの箱の中の星図は……』

『お前がひとりきりになって、どうしても困ったときに、開けなさい』

『どうしても困ったとき、って?』

『そのときになれば、わかる』

そう言って、祖父は笑った。

皺だらけの手で、リオの頭を撫でた。

それが、最後だった。

リオは、木箱の前に膝をついた。

天文台はなくなる。

手当ては打ち切られる。

祖父の生涯は「誰も読まない帳面」だと言われた。

そして自分は、ひとことも言い返せなかった。

ひとりきりで。

どうしようもなく、困っている。

「……今が、そのときなのかな」

窓の向こうで、西の空が茜色に溶け始めていた。

今夜は、きっと、星がよく見える。

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