第12話 仮面の下(前編)
その男は、指先ひとつで、夜空に穴を穿った。
ひとつの星が砕け、ひとつの国が白に沈むのを。
リオは、ただ見ていることしかできなかった。
ソラノを発ったのは、二十日目の朝だった。
村の門に、看板が戻っていた。
新しい木の板に、真新しい文字で。
『ソラノ』
ヨーゼフ老人が、三晩かけて彫ったのだという。
門の前には、村じゅうの人が集まっていた。
パンと、干した果物と、山羊の乳の詰まった革袋。
背嚢が、来たときの倍の重さになった。
ノアの母が、ステラを抱きしめた。
「あなたが歌ってくれなかったら、わたし、ずっとこの子を……」
言葉の続きは、涙で途切れた。
ノアは、ステラの手に、小さな布袋を握らせた。
中には、凧の切れ端が入っていた。
ステラが星を描いた、あの凧の、紙の端。
藍色の星の、角のひとつ。
「おまもり」
ノアは、照れくさそうに言った。
「ステラが、わすれても。これ、みたら、おもいだすかも」
それから、リオの前に立った。
木の枝を、握っていた。
三年間、地面に名前を書き続けてきた、あの枝。
ノアは、門の前の地面に、しゃがみ込んだ。
そして、枝で、文字を書いた。
『リオ』
『ステラ』
書き終えて、立ち上がる。
霧は、もうない。
地面の文字は、消えなかった。
「わたしも、きろくする」
ノアは、まっすぐにリオを見上げた。
「リオと、ステラのこと。わすれないように、まいにち、かく」
「ふたりが、わすれても。ソラノが、おぼえてる」
リオは、ノアの前にしゃがんだ。
言葉が、出てこなかった。
だから、ただ、ノアの頭を撫でた。
祖父が、いつも自分にそうしてくれたように。
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街道は、南へ向かって、ゆるやかに登っていった。
ミラの地図によれば、この先に峠がある。
灰狼峠。
王国の南の端と、その向こうの国々とを隔てる、高い峠だった。
峠を越えれば、海が見える。
海沿いの港町から、船に乗れば、大陸の中央へ近づける。
二日目の夕暮れ、ふたりは峠の頂に着いた。
木が、一本もなかった。
灰色の岩肌が、風に削られて、なだらかな丸みを帯びている。
足元には、背の低い草が、這うように生えているだけ。
そして、空が。
「……ひろい」
ステラが、息を呑んだ。
空が、四方すべてに広がっていた。
遮るものが、何もない。
地平線が、ぐるりと世界を一周している。
西の空が、燃えていた。
茜色が、紫に、紫が藍に、ゆっくりと溶けていく。
その境目に、一番星が灯った。
ふたつめが灯った。
みっつめが。
日が沈みきる頃には、空は、星で埋め尽くされていた。
ハロウの天文台から見上げた空よりも、ずっと多い。
ずっと近い。
手を伸ばせば、指先が星に触れてしまいそうなほど。
「すごい……」
ステラは、両腕を広げて、くるくると回った。
淡い光が、星空の下で、ふわりと揺れる。
まるで、地上に落ちた星が、仲間たちに手を振っているようだった。
リオは、岩の上に腰を下ろした。
ミラの帳面を開く。
星墨のペン先を浸して、今夜の星を数え始めた。
北天第一区。ハロウの星。
ソラノの、生まれ直した小さな星。
そして、その間の、何もない暗がり。
二百九十八夜の、五つ目の夜。
リオは、小さな点に、五本目の見送りの線を引いた。
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真夜中だった。
リオは、焚き火の番をしながら、うとうとしていた。
ステラは、外套にくるまって、焚き火のそばで眠っている。
風の音が、止んだ。
リオは、目を開けた。
――静かすぎる。
あの夜と、同じだった。
天窓の下で、ルミナの名を呼んだ夜。
世界中の音が、ひとつ残らず息をひそめた、あの静寂。
けれど、今夜の静けさは、違った。
冷たかった。
肌を刺すように。
焚き火の炎が、ゆらりと揺れた。
風もないのに。
何かに、引き寄せられるように。
炎の先が、峠の頂の、さらに高い岩のほうへ、傾いている。
リオは、ゆっくりと顔を上げた。
岩の上に、人影が立っていた。
満天の星を、背にして。
黒い外套が、風もないのに、ゆるやかにはためいている。
背の高い男だった。
白い仮面。
その右半分が、三日月のように欠けている。
欠けた部分を、黒い布が覆っている。
「……あなたは」
リオの声が、かすれた。
北の天文台の、星見の丘。
燃え落ちる天文台を背に、祖父の墓を見つめていた男。
――また会おう、リオ。
「起きていたか」
男が、言った。
低く、静かな声。
あの朝と、同じ声。
どこか、懐かしい響きの声。
リオは、立ち上がった。
眠っているステラの前に、背中で庇うように立つ。
膝が、震えていた。
「……誰、ですか」
「名は、もう捨てた」
男は、岩の上から、リオを見下ろした。
「皆は、ノクスと呼ぶ」
「夜明けの徒を、率いている」
ノクス。
古い言葉で、「夜」という意味の名前。
リオは、それを知っていた。
星の言葉の辞書で、「ステラ」の数頁あとに載っていた言葉だった。
「ソラノの話は、聞いた」
ノクスは、言った。
「よく、やったな」
褒められているのか、責められているのか、わからなかった。
声には、何の感情も込められていなかった。
「星図を、渡せ。リオ」
「……いやです」
「そうか」
ノクスは、右手を持ち上げた。
黒い手袋に覆われた、長い指。
その指先を、空へ向けた。
「なら、見ておけ」
指先に、闇が凝り始めた。
ソラノで、仮面の女がそうしたように。
けれど、比べものにならなかった。
闇が、渦を巻いた。
周りの星の光が、吸い込まれていく。
焚き火の炎が、ちぎれるように、ノクスの指先へ引き寄せられていく。
峠の上の空が、そこだけ、ぽっかりと暗くなった。
「やめ……」
リオが叫ぶより早く。
闇が、放たれた。
黒い流星だった。
地上から、天へ。
夜空を下から上へと、まっすぐに貫いていく。
北の天文台で見た、あの黒い流星よりも、ずっと太く、ずっと速い。
南天の、高いところへ。
そこに瞬いていた、ひとつの星へ。
届いた。
星が、砕けた。
硝子の鈴が、粉々に割れる音が、聞こえた気がした。
無数の光の破片が、はらはらと散って、落ちていく。
夜空を、ゆっくりと。
燃え尽きる、火の粉のように。
リオは、膝から崩れ落ちた。
星図を開かなくても、わかった。
南天の、あの位置の星。
どこかの国の、どこかの町の、星。
そこに暮らす人たちが、今、この瞬間に、名前を失った。
家族の名前も。自分の名前も。
誰にも、知られずに。
「……どうして」
リオの声が、震えた。
「どうして、そんなこと」
「名があるから、人は奪い合う」
ノクスは、静かに言った。
北の天文台の扉の向こうで、別の仮面が言った言葉と、同じだった。
「お前も、見てきたはずだ」
「霧の中の村人は、穏やかだった。誰とも争わなかった」
「名を戻したら、どうなった」
「泣いていただろう。失ったものを、失ったと知って」
リオは、答えられなかった。
ノクスが、岩から降りてきた。
一歩、また一歩と。
リオに、近づいてくる。
リオは、逃げようとした。
足が、動かなかった。
見下ろすと、足元の影が、黒く濃く凝って、足首に絡みついていた。
夜そのものが、鎖になったように。
「……っ」
振りほどけない。
星を数えることしかできない手で、何ができるだろう。
戦うすべを、何ひとつ知らない。
ノクスが、目の前に立った。
仮面の切れ込みの奥の目が、リオを見下ろしていた。
黒い手袋の手が、リオの鞄に伸びる。
紺色の革表紙の星図が、抜き取られた。
「――返して!」
リオは、叫んだ。
「それは、おじいちゃんの……!」
ノクスの手が、一瞬、止まった。
それから、星図を外套の内側にしまった。
何も、言わなかった。
そのとき。
リオの背後で、小さな光が、揺れた。
ステラが、目を覚ましていた。
外套を肩から落として、焚き火のそばに立ち上がっている。
淡い光に包まれた体が、小刻みに震えていた。
北の天文台で、黒い流星を見たときと同じように。
「……リオ」
ノクスの視線が、リオの肩越しに、ステラへと移った。
仮面の奥の目が、わずかに見開かれた。
長い、長い沈黙。
凍りついた空気の中で、ノクスが、低く呟いた。
「……やはり」
「お前か」




