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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第12話 仮面の下(後編)

仮面の下にあったのは、七年前に死んだはずの人の顔だった。

幼い日、自分を背負って、星見の丘を登ってくれた人の顔だった。

 

「……お前か」

ノクスの声が、わずかに揺れていた。

仮面の奥の目が、ステラを見つめている。

怯えて震える、淡い光の少女を。

「やはり、落ちてきていたか」

「北の空から、あれが消えた夜」

「あの天文台に、何かが落ちたのは知っていた」

ステラは、リオの背中にしがみついた。

光る指が、リオの外套をぎゅっと握りしめている。

「……リオ。あのひと、こわい」

「なのに……」

ステラの声が、途切れた。

「なのに、なんだか……かなしい」

ノクスの肩が、ぴくりと動いた。

それから、静かに、言った。

「お前は、ここにあってはならない星だ」

リオは、息を呑んだ。

「……何を、言ってるんですか」

「そのままの意味だ」

ノクスは、ステラから目を離さなかった。

「その星は、呼ばれるべきではなかった」

「落ちてくるべきではなかった」

「お前が、それを呼んだのか。リオ」

リオは、答えられなかった。

天窓の下で、星図の名前を読んだ夜。

――ルミナ。

角ばった、子どもの字で書かれた名前。

「……あの名前を、知ってるんですか」

ノクスは、答えなかった。

代わりに、右手を持ち上げた。

黒い手袋の指先が、ステラへ向けられる。

闇が、凝り始めた。

「空へ還れ」

ノクスは、言った。

「いや……還る空さえ、もうないのだったな」

「なら、無に還れ」

「それが、お前にとっても、こいつにとっても、救いになる」

「――やめて!!」

リオは、叫んだ。

足首に絡みついた闇の鎖を、引きちぎろうともがいた。

びくとも、しなかった。

指先から血がにじむほど、影を掻きむしった。

何も、できない。

星を数えることしか、できない手で。

ノクスの指先で、闇が、矢じりの形に尖った。

――けれど。

放たれなかった。

ノクスの指先が、かすかに、震えていた。

ほんの一瞬の、ためらい。

そのとき、ステラが、動いた。

リオの背中から、前へ。

両腕を広げて、ノクスとリオの間に立った。

ソラノの夜と、同じように。

「……リオを」

ステラの声が、震えていた。

体を包む光は、まだ弱い。

熾火の残り火のように、か細い。

それでも、ステラは、まっすぐにノクスを見据えていた。

「リオを、いじめないで」

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

ステラが、光った。

ソラノで見せたような、夜明けの洪水ではなかった。

もう、そんな力は残っていなかったのだろう。

代わりに、光は、一筋になった。

細く、鋭く、まっすぐに。

夜明けの最初の一瞬。

山の稜線から、たった一本だけ射し込む、あの光の矢のように。

リオの足首の闇が、溶けた。

朝日に照らされた霜のように、ほどけて消えた。

光の矢は、そのまま、ノクスの顔へ走った。

白い仮面に、届いた。

ぴしり、と。

硝子に罅が入るような、澄んだ音がした。

仮面の額から顎へ、一本の亀裂が走った。

ノクスが、手で顔を覆おうとした。

遅かった。

仮面が、ふたつに割れた。

白い破片が、からん、と岩の上に落ちる。

欠けた右半分を覆っていた黒い布が、風にさらわれて、夜空へ舞い上がった。

星明かりの下に、ひとつの顔が現れた。

若い男の顔だった。

二十を少し過ぎたくらいだろうか。

短く切った、黒い髪。

リオと、同じ色の。

灰色の瞳。

祖父と、同じ色の。

そして、顔の右半分。

こめかみから頬にかけて、古い火傷の痕が、白く引きつれていた。

リオは、その顔を、見つめていた。

息が、できなかった。

知らない顔だ、と思った。

見たこともない顔だ、と思おうとした。

けれど、胸の奥で、何かが、軋んだ。

錆びついた扉が、無理やり開かれるように。

――幼い日の、記憶。

小さなリオを背負って、星見の丘を登っていく、少年の背中。

「重いなあ、リオは」と、笑う声。

天文台の観測室で、祖父の隣に座って、難しい顔で星図を広げていた横顔。

リオが転んで泣いたとき、黙って手を差し伸べてくれた、大きな手。

――そして、八つの冬。

祖父が、暖炉の前で、背中を丸めて言った。

『カイは、旅先で、死んだ』

『もう、帰ってこない』

墓もなかった。

葬式もなかった。

ただ、その日から、天文台の食卓の椅子が、ひとつ空いた。

「……にい、さん」

リオの唇から、声がこぼれた。

自分の声とは、思えなかった。

「兄さん……?」

ノクスは――

カイは、何も言わなかった。

灰色の瞳が、リオを見下ろしていた。

その目の奥で、何かが、揺れた。

痛みのような。

懐かしさのような。

ほんの一瞬だけ。

それから、その揺らぎは、扉を閉ざすように、消えた。

「……カイ・アステルは」

カイは、静かに言った。

「七年前に、死んだ」

「そういうことに、してもらった」

「……してもらった?」

「あの人に、頼んだ」

あの人。

リオの頭の中が、真っ白になった。

祖父が。

嘘を、ついていた。

七年間。

毎晩、一緒に星を数えながら。

リオの頭を撫でながら。

最期の夜、笑いながら。

「……どうして」

リオの声が、かすれた。

「どうして、そんな……」

「どうして、夜明けの徒なんか……星を、落とすなんて……」

「兄さんは、天文台守だったのに……!」

カイは、答えなかった。

リオの足元で、どさり、と音がした。

ステラだった。

光を使い果たして、膝から崩れ落ちていた。

体を包む光が、灯っては消え、消えては灯る。

消える寸前の、名星の瞬き方で。

「ステラ!」

リオは、ステラを抱き起こした。

冷たい。

羽根のように、軽い。

カイが、その姿を見下ろしていた。

灰色の瞳に、また、あの揺らぎがよぎった。

カイの外套の内側から、何かが滑り落ちた。

紺色の革表紙。

祖父の星図だった。

光の矢に、焼かれたのだろうか。

カイの黒い手袋の指先が、焦げて、煙を上げていた。

星図は、岩の上に、ぱたりと落ちた。

カイは、それを見下ろした。

拾わなかった。

長い間、ただ、見下ろしていた。

それから、リオを見た。

星図を胸に抱き寄せ、光の弱ったステラを抱きしめている、弟を。

「……リオ」

カイの声は、低く、静かだった。

幼い日、星見の丘で、リオの名を呼んでくれた声と、同じだった。

「星を数えるのは、もうやめろ」

「……え」

「この空は」

カイは、満天の星を見上げた。

千二百の、名前を預かった星々を。

その目は、ひどく、冷たかった。

そして、ひどく、悲しかった。

「この空は、嘘だ」

黒い外套が、翻った。

カイは、背を向けた。

峠の向こうの、闇の中へ。

一歩、また一歩と、歩き去っていく。

「兄さん!」

リオは、叫んだ。

「待って……兄さん!!」

答えは、なかった。

振り返りもしなかった。

黒い背中が、夜の中に溶けて、見えなくなった。

 

 

 ・ ・ ・ ✦   ・ ・ ・ ✧   ・ ・ ・ ・ ✦   ・ ・ ✧   ・ ・ ・ ✦ 

 

 

風が、戻ってきた。

灰狼峠の頂を、冷たい風が吹き抜けていく。

焚き火は、とうに消えていた。

リオは、岩の上に座り込んでいた。

腕の中に、ステラ。

膝の上に、祖父の星図。

足元に、割れた白い仮面の、ふたつの破片。

星を、数えようとした。

吸って、四つ。吐いて、四つ。

数えられなかった。

数字が、頭の中で、ばらばらに散っていく。

――この空は、嘘だ。

兄の声が、耳の奥で響き続けていた。

祖父が、毎晩数えていた空。

リオが、毎晩名前を呼んできた空。

ハロウを、ソラノを、星に還した空。

それが、嘘。

何が、嘘なのだろう。

どこから、嘘だったのだろう。

祖父の、優しい笑顔も。

天文台での、静かな日々も。

「記録しておくよ」と星に語りかけてきた、自分の十五年も。

腕の中で、ステラが、小さく身じろぎをした。

「……リオ」

薄く開いた夜空色の瞳が、リオを見上げていた。

「ないてる」

リオは、自分の頬に触れた。

濡れていた。

いつから泣いていたのか、わからなかった。

「……ステラ」

「だいじょうぶ」

ステラは、光の消えかけた指で、リオの涙をぬぐった。

「わたしが、いる」

「リオが、なけないときは、わたしが、なく」

「リオが、ないてるときは……わたしが、そばに、いる」

リオは、ステラを抱きしめた。

冷たくて、軽くて、それでも確かに、そこにいる少女を。

東の空が、かすかに白み始めていた。

峠の向こうに、海が見えるはずだった。

けれど今は、まだ、夜の底に沈んでいた。

 

 

――ステラの日記 二十一日目

『ステラは、僕を守るために光った。仮面の下には、死んだはずの兄さんがいた』

 

(第一部「星落ちの夜」完)

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