第11話 三百夜の約束(後編)
糸を離せば、凧は空へ還っていく。
だから、握っていた。
指が痛くなるほど、強く。
その夜、リオはステラに、すべてを話した。
ノアの家の屋根に、ふたりで並んで座って。
満天の星の下で。
覚え書きのこと。
落ちた星のこと。
星還りの夜のこと。
二百九十八という、夜の数のこと。
隠しておくことも、できた。
ステラは、どうせ明日には忘れてしまう。
けれど、それはしたくなかった。
天文台守は、見たものを、見たとおりに記録する。
嘘を書いた観測録は、もう観測録ではない。
ステラは、黙って聞いていた。
淡く――いつもより淡く光る膝を抱えて。
リオが話し終えると、しばらく星を見上げていた。
それから、ぽつりと言った。
「……にひゃく、きゅうじゅう、はち」
「はい」
「それって、ながい? みじかい?」
リオは、答えられなかった。
長いと言えば、嘘になる気がした。
短いと言えば、ステラを怖がらせる気がした。
「……わかりません」
正直に、そう言った。
「天文台では、毎晩、千二百の星を数えてました」
「二百九十八は、それより、ずっと少ない」
「でも、一晩ずつ数えたら……たぶん、すごく、長い」
ステラは、くすりと笑った。
「リオらしい、こたえ」
それから、夜空に向かって、指を一本立てた。
「じゃあ、きょうは、いち」
「……え?」
「きょうの、よる。にひゃくきゅうじゅうはちの、いち」
「リオと、ほしを、みた」
指を折る。
「あしたは、に」
「なにを、しようかな」
ステラは、楽しそうに言った。
失っていく夜を数えるのではなく。
重ねていく夜を、数えるように。
リオは、その横顔を見つめていた。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
痛くて、温かかった。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
翌朝、ヨーゼフ老人が、ノアの家にやってきた。
両腕に、細い竹ひごと、紙の束と、糸巻きを抱えて。
「天文台守さま。凧を、揚げませんかな」
「……凧、ですか?」
「春の祭りまでは、まだ遠いがの」
老人は、照れくさそうに笑った。
「三年ぶりに、名前を取り戻した礼じゃ」
「村のもんで話してな。季節外れでもいい、空の野に、凧を揚げようと」
「あんたらにも、見てもらいたいんじゃ」
ステラの目が、きらきらと輝いた。
「たこ! なに、それ!」
リオは、日記の頁を思い出した。
星送りの夜、ヨーゼフ老人が語った思い出。
春の凧揚げ。
空の野を、色とりどりの凧が埋めた。
昼間に咲いた、星のように。
凧づくりは、昼まで続いた。
ノアの家の前の地面に、村の子どもたちが車座になる。
竹ひごを十字に組んで、糸で縛る。
薄い紙を貼って、糊で留める。
ステラは、不器用だった。
糊を指につけすぎて、紙が指にくっついて離れない。
「リオ、とれない……」
「動かないでください。今、取りますから」
「ふふ、くすぐったい」
ノアが、隣でくすくす笑っていた。
「ステラ、へたくそ」
「ノアは、じょうず」
「わたし、ソラノのこだもん」
ノアは、得意げに胸を張った。
四日前まで、霧の中で地面に名前を書いていた少女とは、思えないほど明るい顔だった。
リオの凧は、几帳面すぎた。
竹ひごの長さを、指の幅で測って、何度も揃え直す。
糸の結び目を、ひとつひとつ数えながら締める。
「天文台守さま、そんなに細かくせんでも、凧は揚がりますぞ」
ヨーゼフ老人が、呆れたように笑った。
最後に、絵を描いた。
子どもたちは、鳥や、魚や、太陽を描いた。
ノアは、大きく『ノア』と自分の名前を書いた。
「ずっと、じめんに、かいてたから。こんどは、そらに、かくの」
リオは、ステラの凧に、何を描くか訊いた。
ステラは、少し考えてから、星墨の小瓶を指差した。
「あれで、かいて、いい?」
「……星墨で?」
「うん。ほしの、いろ」
リオは、ステラの指先に、星墨を少しだけつけた。
ステラは、その指で、凧の真ん中に、ひとつの星を描いた。
不格好な、五つの角の星。
藍色の、夜空の色をした星。
昼の光の中で、それは、かすかに瞬いていた。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
空の野は、村の北に広がる、なだらかな丘だった。
秋の草が、風に波打っている。
空が、驚くほど広かった。
見渡すかぎり、遮るものが何もない。
この丘に立つと、空が、地面と同じくらい近く感じられた。
「――それっ!」
子どもたちが、一斉に駆け出した。
凧が、風を受けて、ふわりと浮き上がる。
赤い凧。青い凧。黄色い凧。
ノアの『ノア』と書かれた凧が、ぐんぐんと高く昇っていく。
「リオ、わたしも!」
ステラが、凧を抱えて、丘を駆け下りた。
リオが、糸巻きを持って、反対側へ走る。
「今です、離して!」
ステラが、凧を空へ放った。
星の描かれた凧が、風に乗った。
一瞬、ぐらりと傾いて。
それから、すうっと、空へ吸い込まれるように昇っていった。
「とんだ! とんだよ、リオ!」
ステラが、駆け寄ってくる。
息を切らして、頬を真っ赤にして。
リオの隣に立って、空を見上げた。
青い空の、ずっと高いところで。
藍色の星が、ゆらゆらと揺れていた。
昼間の空に、ひとつだけ灯った、星のように。
「……きれい」
ステラが、呟いた。
泣いてはいなかった。
ただ、目を細めて、笑っていた。
「リオ。いと、もたせて」
リオは、糸巻きをステラの手に渡した。
ステラは、両手で、ぎゅっと糸を握った。
糸が、ぴんと張る。
凧が、風に引かれて、もっと高くへ昇ろうとする。
「……ひっぱられる」
ステラが、小さく言った。
「そらに、ひっぱられる」
「この、いと、はなしたら、たこは、どこにいくの?」
「……空の、ずっと遠くへ」
リオは、答えた。
「風に乗って。二度と、戻ってこない」
ステラは、糸を見つめた。
細い、細い糸。
地上と、空とをつなぐ、たった一本の糸。
「わたしも」
ステラは、言った。
「いつか、こうやって、ひっぱられるのかな」
「そらに」
リオは、何も言わずに、ステラの手の上から、糸を握った。
ふたりの手が、重なった。
「……離しません」
リオは、空を見上げたまま、言った。
声が、震えないように。
「ステラの、本当の名前を、必ず見つけます」
「始まりの天文台に行って、原星図を読んで」
「二百九十八夜のうちに、必ず」
「だから、それまで……絶対に、離しません」
ステラは、リオの横顔を見上げた。
長い間、黙って見つめていた。
それから、重なった手に、少しだけ力を込めた。
「……やくそく?」
「約束です」
「ぜったい?」
「絶対」
ステラは、ふわりと笑った。
「じゃあ、わたしも、はなさない」
「リオが、はなしても、わたしが、はなさない」
風が、空の野を吹き渡った。
凧が、高く、高く昇っていく。
ふたりの手の中で、糸が、ぴんと張っていた。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ・ ✧ ・ ・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧ ・ ・ ・ ✦
その夜、ステラは、空の野の草の上で眠ってしまった。
凧揚げの疲れと、夜の光の重さで。
リオの外套にくるまって、リオの膝を枕にして。
リオは、満天の星を見上げていた。
二百九十八夜の、ふたつ目の夜。
今夜の点に、見送りの線を引くのが、少しだけ惜しかった。
ステラが、小さく身じろぎをした。
寒いのだろうか。
リオは、外套を掛け直してやった。
それから、ほとんど無意識に、口ずさんでいた。
ソラノの、子守歌を。
『ねむれ ねむれ そらのの子』
『ほしが おまえの なを よぶよ』
リオは、歌が下手だった。
祖父にも、よく笑われた。
音程が、ふらふらと定まらない。
高いところで、声がひっくり返る。
それでも、一生懸命、最後まで歌った。
膝の上で、ステラが、薄く目を開けた。
夜空色の瞳が、ぼんやりと、リオを見上げている。
夢の中にいるような目だった。
「……リオ」
「ごめんなさい、起こしましたか」
ステラは、首を横に振った。
それから、ゆっくりと手を伸ばして、リオの頬に触れた。
「いまの、うた」
「……下手でしたよね」
「うん。へたくそ。ちょっと、おんち」
ステラは、くすりと笑った。
それから、その笑みが、ふっと遠くなった。
何かを、思い出そうとするように。
霧の向こうに、手を伸ばすように。
「……でも」
ステラは、囁くように言った。
「わたし、ね」
「あなたの、こえ」
「ずっと、まえから」
「しってた、きがする」
リオの胸が、大きく跳ねた。
何か言おうとしたときには、ステラはもう、目を閉じていた。
小さな寝息が、聞こえる。
淡い光が、夜の草の上で、静かに瞬いていた。
リオは、動けなかった。
ソラノで、ステラは言った。
――むかし、だれかが、うたってくれた、きがする。
――ちいさな、こえ。へたくそで、ちょっと、おんちで。
空の野の上で、北の空の星が、またたいていた。
ハロウの星。
そのすぐ下の、何もない暗がり。
リオは、その暗がりを、ずっと見上げていた。
――ステラの日記 十八日目
『ステラは、凧の糸を握って「はなさないでね」と言った。離さない、と答えた。二百九十八夜の、ふたつ目の夜』




