第11話 三百夜の約束(前編)
星には、寿命がある。
何万年も燃え続ける星もあれば、ひと夏で燃え尽きる星もある。
そして、空から落ちてきた少女にも。
ステラは、二日間、目を覚まさなかった。
ノアの家の、いちばん日当たりのいい部屋。
窓辺の寝台に横たわって、静かに眠り続けた。
昼間は、普通の少女と変わらなかった。
銀の髪が、枕の上に広がっている。
頬に、うっすらと血の色が差している。
小さな寝息が、規則正しく聞こえる。
けれど、夜になると、違いがわかった。
体が、光らないのだ。
いや、光ってはいる。
ただ、あまりにも弱い。
熾火の最後のひとかけらが、灰の下でかろうじて息をしているような。
部屋のランプを消さなければ、気づかないほどの光だった。
リオは、ずっと寝台のそばにいた。
椅子に座って、ステラの寝顔を見ていた。
眠らなかった。
眠れなかった。
「……リオ。すこし、やすんで」
ノアが、温かい山羊の乳を持ってきてくれた。
目の下に、リオと同じくらい濃い隈ができている。
「ステラは、わたしが、みてるから」
「……大丈夫です」
「だいじょうぶじゃ、ない、かお」
ノアの言い方が、ステラにそっくりで。
リオは、少しだけ笑ってしまった。
それから、急に、目の奥が熱くなった。
ソラノは、すっかり変わっていた。
霧は、跡形もなく消えた。
空は、高く、青く澄みわたっている。
麦畑は、黄金色の波を打っている。
家々の窓辺に、色とりどりの花の鉢が並び始めた。
三年ぶりに、村に色が戻ったのだ。
そして、名前が。
「おはよう、ペーター!」
「アンナ、こっちおいでよ!」
朝の路地を、子どもたちが名前を呼び合いながら駆けていく。
井戸のそばでは、女たちが互いの名前を呼んで、笑い合っている。
軒下の老人――名前は、ヨーゼフといった――は、昼間から酒を呑んで、村じゅうの人の名前を順番に呼んで回っている。
「マリア! フランツ! ハインツ! ええい、ぜんぶ覚えとるぞ!」
村の人たちは、リオを見ると、誰もが頭を下げた。
「天文台守さま」と呼ぶ人もいた。
リオは、そのたびに、どぎまぎした。
ハロウでも、そうだった。
感謝されることに、まだ慣れない。
それに、今は。
感謝されても、少しも嬉しくなかった。
窓辺の寝台で眠る少女のことしか、考えられなかった。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
三日目の朝。
リオは、椅子に座ったまま、うとうとしていた。
ふと、頬に、何か柔らかいものが触れた。
目を開けると、ステラの指先があった。
「……リオ」
ステラが、寝台から身を起こしていた。
夜空色の瞳が、ぼんやりとリオを見つめている。
「ねむい、かお」
リオは、声が出なかった。
ただ、その指先を、両手で包み込んだ。
温かかった。
ちゃんと、温かかった。
「……おはよう、ステラ」
ようやく、それだけ言えた。
ステラは、きょとんとして、窓の外を見た。
東の空が、白み始めていた。
山の端から、金色の光がこぼれ出そうとしている。
「……あ」
ステラは、寝台から這い出した。
ふらつく足で、窓辺へ歩いていく。
窓枠に両手をついて、朝日を見つめた。
光が、あふれ出した。
ソラノの麦畑を、黄金色に染めながら。
ステラの頬を、涙が伝った。
「……きれい」
いつものように。
生まれて初めて見る朝日のように。
リオは、その背中を見つめながら、懐から『ステラの日記』を取り出した。
「ステラ。日記、読みますね」
一日目から。
ハロウの朝日。名前。スープ。
ミラの手を握ったこと。光の柱。灯籠まつりの山。
ノアと、地面に名前を書いたこと。
知らないはずの子守歌を、歌ったこと。
そして、ソラノの村を照らしたこと。
ステラは、窓辺に座って、黙って聞いていた。
最後の頁まで読み終えたとき、ステラは、自分の手のひらを見下ろした。
「……わたし、そんなに、ひかったの?」
「はい。夜明けみたいに」
「おぼえて、ない」
「……はい」
ステラは、しばらく手のひらを見つめていた。
指を開いて、閉じて、また開く。
落ちてきた夜、初めて自分の手を見たときのように。
「ねえ、リオ」
ステラが、ぽつりと言った。
「わたし、ね」
「すこしずつ、うすくなってる、きがする」
リオの手が、止まった。
「……うすく?」
「きおくの、ことじゃないの」
ステラは、自分の胸に手を当てた。
「ここの、おくの、ひかりが」
「まいにち、すこしずつ、へっていく、きがするの」
「ろうそくが、みじかくなるみたいに」
リオは、何も言えなかった。
二晩、ずっと見ていた。
弱々しい、消え入りそうな光を。
「……いつか」
ステラは、窓の外の、昇りきった太陽を見た。
「わたし、きえちゃう、きがする」
「あさひを、みられなくなる、きがする」
不思議と、怯えた声ではなかった。
ただ、静かだった。
自分の手のひらを見つめるように、自分の行く末を、見つめている声だった。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
その日の午後、リオは祖父の覚え書きを、最初の頁から読み直した。
ノアの家の、小さな屋根裏部屋で。
頁をめくる指が、汗ばんでいた。
星送り。落星術。白地。始まりの天文台。
どこかに、書いてあるはずだ。
空から落ちてきた星のことが。
人の姿をした、星のことが。
覚え書きの、ちょうど真ん中あたり。
今まで、何度も読み飛ばしていた頁があった。
短い、たった数行の記述。
見出しは、こうだった。
『落ちた星について』
リオは、息を止めて、読んだ。
『まれに、名星が人の姿をとって、地に落ちることがある』
『それは、呼ばれた名に応えて、降りてきた星である』
『落ちた星は、夜ごとに光を放ち、夜ごとに何かを失う』
『そして』
リオの指が、震えた。
『次の星還りの夜までに、まことの名を取り戻さねば』
『光となって、散る』
頁の隅に、祖父の字で、小さく書き添えてあった。
『わしは、それを、ついに見なかった。見ずに済むことを、祈る』
リオは、覚え書きを閉じた。
両手で、顔を覆った。
――まことの名。
ステラという名前は、リオがつけた名前だ。
古い辞書から拾った、「星」という意味の言葉。
彼女の、本当の名前ではない。
本当の名前は、誰も知らない。
彼女自身も、知らない。
知っているとしたら――
始まりの天文台の、原星図。
消えた星の名さえも記されているという、すべての名の原図。
リオは、顔を上げた。
星還りの夜。
その言葉は、知っていた。
祖父が、毎年、夏のある夜に、天文台の回廊に出て、一晩じゅう空を見上げていた夜。
「星が、空へ還る夜じゃ」と、祖父は言っていた。
年に一度、空と地が、いちばん近づく夜。
流れ星が、地上から、空へ向かって昇っていく夜。
幼いリオは、眠くてたまらなくて、いつも途中で祖父の膝で寝てしまった。
一度も、最後まで見届けたことがなかった。
夏の、夜。
リオは、ミラの帳面を開いた。
星墨のペン先を浸す。
今日の日付を、書く。
秋の、三十七夜。
そこから、祖父の暦を思い出しながら、星還りの夜までの夜の数を、数えた。
指を折って。
何度も、何度も、数え直した。
数え間違いであってほしかった。
けれど、数は嘘をつかない。
祖父が、そう教えてくれた。
「……二百九十八」
二百九十八夜。
それが、ステラに残された夜の数だった。
リオは、帳面の新しい頁を開いた。
そして、星墨で、小さな点をひとつ打った。
もうひとつ。
もうひとつ。
十。五十。百。
二百九十八の、小さな点。
打ち終えたとき、頁は、ひとつの夜空のようになっていた。
星墨の点が、ひとつひとつ、かすかに瞬いている。
今夜、そのひとつに、見送りの線を引く。
明日の夜も、ひとつ。
明後日の夜も。
毎晩ひとつずつ、星が消えていく夜空。
最後のひとつが消えるまでに。
リオは、その頁を、じっと見つめていた。
屋根裏の小さな窓から、午後の光が斜めに射し込んでいる。
階下から、ステラとノアの笑い声が聞こえてきた。




